生は理不尽

 

 

自分が生きているという状態を不思議に思っている。僕の意識は、生まれてから気づいた時にすでに僕の身体の中にあって、頭に2つ空いている眼孔から世界を見て、たまに何かを喋って、音楽を聞いたり、人と話したり、ご飯を食べて生活したりしている。いつから始まって、どういうふうに今の自分がいるのか記憶がない。幼少期の脳は発達の段階にあるので、ほとんど記憶を保存しておけないらしい。稀に自分が生まれた時のことを覚えている人もいるようだけど、僕にはその記憶はない。

だからよく「どうして生きているのか」と考える。別に世界に絶望しているとか、生まれてきたことを後悔するみたいな意味合いではなくて、自分という生命があることが不思議だ、という感覚だ。

 

あなたが生まれてきたのは何か役目があるからとか、何か意味があるとか、必然だからという考え方も世の中にはある。僕はこういった話を否定しないし、時々は「そういうものなのかもしれない」と思うこともある。でも、心からそういう言葉に実感をもってうなずくこともできない。

物理学に人間原理という考え方がある。地球になぜ生命が生まれたのか?という確率的な話をする時に、仮に生命が生まれなかった世界線の地球がもしあるとして、その世界には我々は存在しないわけだから、その世界を観測することはできない。要するに我々が存在している以上、生まれなかった世界は存在(観測)し得ない…という考え方だ。

この人間原理では生命という大きなくくりの話になっているが、例えば自分という存在に置き換えてみても、自分がもし生まれていなければ、自分が生きているかどうかを感じることはできない。「生きているから生きている」というわけである。どちらかというと僕はこうした理論の方がしっくりくる(理解できる)ので、こういうふうに自分の存在を肯定しているところがある。でも、自分の中で結局最後にこういうトートロジーになってしまう感じにも違和感があって、自問することがある。

 

ある時から、人間が「生きている」のではなくて「生きてしまっている」という考え方をするようになった。それまで僕は本当になんとなく生きていて(それこそ生きているから生きていると思っていた)お腹がすくからご飯を食べるし、眠いから眠っていたようなところがある。自分の無意識や生というものが、自分でありながら自分と切り離されて独立していて、自分の意思でそれを操作することは許されないという感覚があった。「食べない」という選択はできても、「食べなくてもよくなる」ことはできないから。

そもそも生はコントロールできない。心臓が自分の意思と関係なく自動で動いているからだ。全身を血が巡って、臓器が活動して、筋肉が収縮する。それによって消費される酸素および栄養を、脳が指令を出して、呼吸したり食事を摂ったりして補うことによって生命活動は維持されている。心臓が勝手に動いているから、僕たちは「生かされている」し、「生きてしまっている」んじゃないか、と思う。(もし心臓を自分の意識で動かせる人がいたら会ってみたい)

…ちなみに呼吸は半自動だ。無意識のうちに生まれてから僕たちはずっと呼吸を続けているけど、自分で意識して吸って吐くこともできる。意識と無意識の間にある行為で、これもまた少し不思議だなあと思う。

 

少し話が逸れたけど、そういうふうに考えると、自分の生命の核になっている心臓の動きは、自分が干渉できないものの動きに頼っていることになる。心臓にペースメーカーを入れるとかいう場合もそうなる。僕がずっと思っている、自分の命が自分のものであってそうでないような感覚はここからきているんじゃないかと思っている。本当のところはどうなのかという話をするとまた違う話になるかもしれないけど、僕の実感はとりあえず今はそうなっている。


こういう理由で、自分の生にはコントロールできない部分が多いので、僕は生を「理不尽なもの」だと思っている。生まれたいという明確な意思を持って生まれてくるというより、気がついたらこの世の中にいたという感覚が強いからだ。命を無理やりに「与えられた」感覚もある。ある程度は自分の意識でいろんな選択をして生きていると思っているけど、現実を見れば、実はそうではないことの方が遥かに多い。
社会で生活をしていれば、理不尽な理由で時に傷ついたり、どうしようもないことに打ちのめされて、ただ涙を流すしかないようなことがある。僕に芸術を教えてくれた先生が、人生なんて辛いことしかないぞ、と話していたことも、すごく記憶に残っている。

 

理不尽というと悲観的に聞こえるかもしれないけど、そもそもの話をすれば世界というのは本来人間の手には負えないようなものばかりだったと思う。大昔には、何日も雨が降らなければ大地は割れて穀物は育たず、飢えて亡くなる人も多かったと思う。いきなり大雨がふれば川は氾濫して、たくさんの人が流されて亡くなっただろうし、火山が噴火すれば灰と熱で森は焼けて、乗り物もない時代にはどこにも逃げられなかっただろう。こんな理不尽がほかにあるだろうか?
だからこそ、祈りの類とか宗教が生まれたし、自分たちの手に負えないものに対して畏怖と尊敬をもっていた。コントロールできないものの存在を認めていたから、人間はその中にちゃんと希望も見出そうとしていた。理不尽なものに立ち向かおうとしたとき、人間ができる唯一のことは、そういう想像力を使うことだったと思う。芸術も宗教も、想像力がなければ生まれなかった。
それがいつからか、誰が言い出したことなのかわからないけど、人生というものが「楽しくて幸せなものである」という前提のうえに成り立っていると思われているような気がする。自分は幸せでなければならないし、充実した生を送らなければならないと思っているのだ。…できれば人よりもいい暮らしをして。

神様に祈っていたような「正しく善く生きていればいつかは報われて幸せになれる」という考えが変化していったのだと思う。こんなに頑張っているんだから見返りをくれと思う。自分にもその実感はある。時々そう思う。多分、人間が経済活動をするようになって、物質の代わりに金銭を受け取る、みたいな等価交換をするようになったから、人の考えが変わったんじゃないだろうか。死んだ後に魂が救済されるんだとか、極楽浄土に行けるとかいうのは、この世界がまず理不尽であることの証明みたいなものだろう。だからせめて死んだ後くらい救われようとしている。宗教観では、生こそ理不尽なもので死は救済だったんじゃないか。


人間は、もはや自然だけではなく自分たちの生までもコントロールしているし、できるようになったと思っている。死後ではなくて生きている間に幸せになるためには、ある程度自分が選択をして、人生を組み立てなければいけないからだ。信じれば叶うんだとか、目標に向かって努力して世界を変えるんだとか、そういうものもある種の「自分の手に負えないもの」に対しての反発かもしれない。でも、分析や理論が先走りしすぎて、生すらも想定してしまえるというような、度を過ぎた傲慢な考え方も最近ではよく見かけるようになった気がしている。すべてをコントロールできると思い込むのは傲慢であると思う。もし、そうやって少しずつ操作可能なものに世界が置き換わっていって、世界が何の問題もないクリーンなものに整理されていくとしたら、芸術みたいな希望は生まれ得るだろうか?
理不尽に生かされているから、今日も飯を食わなければいけない。生きていれば喉も渇くし、疲れるから寝なければいけない。なんてしなければいけないことが多いんだろうと思う。人間は燃費が悪い。肉体をもっている限り、高次元な存在なんかには全くなることはできない。


「想像力で世界を救うんだ」とか「いい仕事をして人を笑顔に」みたいな薄っぺらな言葉は使いたくない。そういう元気は僕は持っていない。そんなことでは何も変わらないと思っているからだ。なぜ制作を続けているかといえば、自分にもよくわからない。自分がかっこいいと思うから作りたいとか、そんなことが許される時代でもないとも思っている。でも「何かのためにやる」みたいなことが、実はとても不健康なんじゃないか?と考えるようになってから、幾分か気持ちが純粋になった気がしている。人の心は簡単には変えられないし、変えようとすること自体が悪い場合もあるから。

世の中、あまりにも大変で面倒なことが多いから、もう開き直ることにした。生が理不尽なんだから、こっちも勝手に生きてやったほうがいいんじゃないか。数学者の岡潔が、スミレはただスミレのように咲けばいいと言った。僕はこの一文がとても好きだ。多分、スミレの花は何も考えていないだろうと思う。ただ根を張って生きている。きれいな花を咲かせようとか、そんなこと思っていないだろうな。