SNSヒステリー



サッカーW杯のことを書きます。


12/6の0:00〜、日本の決勝トーナメント1戦目となるクロアチア戦が行われた。

※まだ試合を見ていない方(録画でみようと思っている方)へ、ここから下は結果のネタバレを含みます。

 

 

 


まず、個人的に逆張り大当たり。蓋を開けてみたら、優勝経験もある強豪2国に2戦とも逆転勝ち。コスタリカに関しては相手がかなりうまかったが、それでも攻撃のバリエーションと崩し方を探って、日本は良い試合をしていたと思う。プレーに関してのあれこれは語るのをやめておこうと思うけど、いちサッカーファンとして、見ていてドキドキしたし、熱い試合だったと思った。楽しみにしていてよかった。

迎えたクロアチア戦、序盤からかなりボディコンタクトの多い「血気盛んな」プレーが多かったように思う。ガツガツと狡猾にいって相手のミスを誘うようなところは、東欧のチームに見られるような個性があって面白いと思った。前大会準優勝の通り、簡単な試合ではなかったことは明らか。それでも、前半終了間際にセットプレーから先制した時は見事だと思った。
…まあ内容については、僕はジャーナリストではないし感想しか出ないのでこのへんにしておくとして、試合後、相手のキーパー(うまかった)のことが気になって調べていると、やっぱりたくさんのネット記事が出てきた。自分もやめておけばいいのに、そういうものを見てしまった。そしてたどり着いたのはやはりSNSである。


今に始まったことではないけど、SNSというのはどうにも色々な言葉が飛び交うもので、僕はどうも好きになれない。人はそれぞれ違う考えを持っていて、評価軸なんて自分が「合っている」と思うか「そうじゃないか」の2択だから、正しいのかどうかも判断できない。それを前提に踏まえていたとしても、厳しい言い方とか人の神経を逆撫でする表現には過剰になってしまう。それがあるタイミングで一気に沸点に達して、そういう言葉に対して反論したり、過剰な言葉で返すことになる。いわゆる炎上というやつ。
こういうものは本当は見ないに限るのだが、何年か前アートの界隈で大炎上した事件をSNS上で眺めていて、この性質をどうにか理解しないとなにか色々なものが変わっていくような気がしたので、今回は少し潜ってみて、そこに何があるのかを考えてみようと思った。


大きく言って、今回の敗戦に対してのSNS上の意見は2つあるように思う。「もっとうまくやれただろ」論と「選手お疲れ様」論の2つ。
クロアチア戦でPKの一本目を蹴った日本の選手が、すごい勢いで批判を受けている。あまりにもひどい、人格否定みたいな言葉もあった。失敗した選手に対して下手すぎるとか、PKにおける技術に関して海外の選手を引用して「プロならこれくらいやれ」みたいなものもあった。遠藤選手の試合後のインタビューから「蹴りたい順番で蹴った」という言葉に対して「代表なのに策もなしに戦うな」みたいな言葉であるとか、それから、コスタリカ戦の失点を「いらなかった」「引き分けでよかったのに」「控えの選手がどうのこうの…」というもの。これが僕の言うところの「もっとうまくやれただろ」論。多分この人たちはサッカーが好きで、W杯だけでなく時々他の試合も見ていると思わせる技術的・専門性のあるロジックを引き合いに出す場合が多い。
その批判に対して、「下手とか言うな」「選手にまず感謝、労いだろう」という返信が多く見受けられた。「自分がやってみろ」というようなものもある。これは選手がみんな想像を絶するような努力の上にピッチに立っているのだし、他に適任のいない選ばれた「代表」なのだから、彼らが負けるのなら文句は言えない。選手を責めることはできないだろう、という論理だと思う。「日本は頑張った」とか「よく闘った」とか「スペインとドイツに勝つなんて強くなった」の類も「選手お疲れ様」論に含める。この人たちは、見ているとサッカー経験の有無はあまり関係ないように思った。あくまで結果ではなく選手の姿、つまりそのストーリーに共感を示している。


この2つの主張は地平が違う。「もっとうまくやれた」というのは、その主張者が思う別の世界線であれば(これだけのプレーをした技術があるのだから)勝てたはずだ、という主観的な根拠による理想論だし、「選手お疲れ様」というのは、選手の姿というストーリーに対しての自己投影や共感からくる感想だと思う。

これはお互いがお互いの様々な願望を語っているだけなのではないか。選手はこうであってほしいという願望、ベスト8にいってほしい、勝ってほしいという願望、日本は(我々は)強い、という願望。そう考えたら、願望は主観だから、どこかで話が収束するわけがない。丁寧に落ち着いた文章を書く人も「こういう言い方はよくない=しないでほしい」という願望を語るし、「○○を出すな」とか「選手をやめろ」というのも自分の思うような試合をしてほしかったという願望である。
願望は客観的な事実を含むことができない…というか、サッカーの特性上、事実や傾向に基づいて話をすることは難しい。たくさんシュートを打ったって一本も入らない時もあれば、90分の試合で一本だけ放ったシュートが相手のゴールを捉えることもある(実際コスタリカがそうだった)。そこがサッカーのおもしろいところなのだが、その不明瞭な客観性が多様な解釈と主観を生んでいることは明らかである。だからみんな好き勝手言いたい事を言うし、自分の思った通りの願望を表現できる場所としてSNSを利用する。


SNSはヒステリーだと思う。自分の理想や願望が通らないから、声を大きくしてそれを語る。あらゆる主義主張には逆の立場があるから、その願望が「勝手だ」と、また別の願望が主張される。

多様な価値観と言えば聞こえはいいけど、その内は色んなところで色んな声が響いているだけのジャングルみたいなものなのでは?と思ったりする。たまにすごい色鮮やかな鳥がいたり、かと思えば草むらの影からじっとこちらを伺っているトラみたいなのがいたりする。SNSは動物園だと形容する人がいるけど、こうした動物にいつでも出会ってしまう可能性を考えたら、オリの中の動物園より僕はジャングルの方が近いんじゃないかと思う。

話が逸れたけど、こうした主張は全て正しいとも思うし、間違っているとも思う。ただそれを「(ある程度のマナーの中でなら)自由に発信してもいい」という状況だから、日常生活なら言わずに我慢してきたような小さいことも言わざるを得なくなってしまった。色んな人が心の内側で思っていたような他者との軋轢が、外側へ発散できるようになっている。それも、とても簡単に。
ルールやマナーの捉え方は人が生まれて育ってきた環境によっても変わる。極端に言えば、人を殺すことだってある教育の上では正義になりうるかもしれない。その正義を通そうとして反感をくらったときに「こんなことを言われたんだけど自分は間違っていないと思う」と言うためには勇気が必要で、そういう勇気を持ちやすくなっているのかもしれない。こういう時代の変化が良く働いた事例もあるだろうし、良くなかった例もあると思う。
今回のことは、どちらが良いのか悪いのかみたいなことではなくて、僕はどっちの言っていることも分かるし、どちらの立場にも共感する。何より、サッカーというのは詳しさや理解やら知識で正しいことを語るためのものでもなくて、ああでもないこうでもないと素人ながらに分かったようなことを言うのが楽しかったりするのだ。でも、ジャングルで他の動物にいきなり喧嘩をふっかけたら、殺し合いになるに決まっている。



ここまで価値観に差が出るのはなぜなのかといえば、「試合の見方」の違いなんだと思う。例えば映画やアニメなどの映像作品を、ストーリーとして主人公に感情移入して見るのか、それとも主人公という存在が何のメタファーなのか考察しながら見るのかみたいな話で、これは人の楽しみ方の違いだからどちらがどちらとも言えないだろう。「もっとうまくやれた」という人は、サッカーの構造を理解したい、サッカーを知で楽しみたい人なんだと思うし、「選手お疲れ様」という人は、「日本サッカー」という映像作品を見ていたような感じなんじゃないだろうか。

じゃあその評価がどういうときに違ってくるのかと言えば、その作品(あるいは試合)が何を目的にしているのかが明らかになっているときだろう。例えば純粋に「お客さんを笑わせたい」エンターテインメントとして作られた映画があるとして、そういう映画が「興行収入がいくらだったのか」みたいな価値観で捉えられることは正当ではないと思う。正直映画に何のメッセージもなくていいと思うし、バカみたいな内容でも一応何か緻密に練られたテーマがあったとしても、見た人が少なくても、大笑いして帰ってくれたら大成功だと思う。(それで製作費が回収できるかとかそういう問題は別にして)

W杯に関して言えば、FIFAが企画・運営をして、スポンサーがついて、観客がいて、グッズや観覧などで収益が発生して…となるので、まずはたくさんの人が興味を持つことと、経済的な効果が出ることだろう。そうすれば環境が整えることができるし、選手たちもモチベーションを持ってプレーし続けることができる。前述した論2つでは、そのどちらも矛盾していないように思う。「もっとうまくやれただろ」論には、今後の日本サッカーの向上への期待が見えるし、「選手お疲れ様」論には選手の姿に共感・感動することによるサッカーへの関心が見える。大前提として楽しみ方は人それぞれあって、制限されるものではないけど、FIFAから見れば提供したものに対する正しい反応だと思う。


自分の立場で考えてみると、鑑賞者が見たいような作品を作らなければならない、と言われているのと同じだろう。でも僕は全くそれは正当だと思わない。それには色んな理由があるけど、まず僕は依頼を受けて作品を作っているわけではないし、芸術はそもそもエンターテインメントではないと思うからだ。人を純粋に楽しませるために生まれたものなら、たくさんの人が見て「良い」と思うものが良いということになるだろうけど、そうではない。芸術には色々なメッセージがあるし、その受け取り方は制限されるものではないけど、必ずしも多くの人に伝えるために作られるべきである、とは限らない。
数年前、アート界隈で大炎上があった例の件は、実際に「不快な作品を美術館に置くな」という声が多数あった。これも「細かい説明はなくても前提を共有しているだろう=分かって見てほしい」という運営の立場と「公共の企画で不快な展示をするな」という願望のぶつかり合いに思えた。こうなったらあとはもう、どちらがより正当なのか?という話になる。(結局、その展示自体は一度中止になってしまった)

もし頭でそういう理解をしたとしても、SNS上の言い合いを見ていると非常に気分が悪くなる。何のためにやるのか?選手は観客のためにプレーしなければいけないのか?確かに、多少の批判が選手を奮い立たせて成長を促すこともある。それは分かっているけど、じゃあこの気持ち悪さはなんだろう?


坂本龍一が数年前、新聞の記事で、スポーツ選手が「ファンや観客に勇気を与えたい」というような発言をすることに対して違和感を持っている、という旨の文章を書いていた。同じように、音楽が人に勇気や元気を与える、ということに対してもおこがましいと。実際、音楽を聴いて勇気や元気をもらうことはあっても、それは受け取る側が言うことであって、発信する側が言う言葉ではない。自分の作品が何かのためになるなんて…もしそうであったら嬉しいけど、そのために作るなんてとんでもない間違いだろう。

見る側も見られる側も、スポーツだろうと芸術だろうと、みんな勝手に自分のためにやればいいし、受け取ればいい。僕にできるのは、その正しい理解であって、SNS上の言葉の受け取り方である。こうしたSNS上の願望のかたちは、自分と意見の違う他人をコントロールしてやる、という意識の表れなのかもしれない。