自分の抱きしめ方

 

 

コロナが騒がれ出した2020年、プライベートの色々な変化のために、勤めていた会社をやめて実家に戻った。家を出てから約3年…たった3年だ。あれから時間が経った。長いようで短い時間だ。自分が生活をしていた実家の部屋。色々なことがあった。僕は小さい頃から、ずっとこの部屋で過ごしていて、この場所から自分のいろいろなことが始まっていったのだ。

コロナの流行にしたがって、部屋に閉じこもらざるを得なくなった。自分の部屋に戻ったばかりの頃は、「少しは成長できてるかな」なんて思ったり、懐かしいなと思って近所を散歩したり、昔よく遊んだ公園に足を運んだりした。あまり変わっていないけど、結構変わっている。面影のある雰囲気に妙な新鮮さがあって、退屈しなかった。あんなことがあった。そういえば、こんなことも。本当にいろいろなことがあったな、と昔のことを思い出していた。頭の中で記憶が巻き戻っていって、忘れていたことを思い出す。そうやってしばらく懐かしんでいると、封印したはずの嫌な記憶も少しずつ顔を覗かせ始めた。

 

僕はこの街が嫌いだった。面白いものも、名物も、人に勧めたくなるようなものはほとんどない。人はたくさん住んでいるけど「自分以外に無関心」みたいな感覚が強くて、なんというか寂しい雰囲気がある。スーパーやコンビニなどはたくさんあって生活には困らないけど、どこに行っても同じような風景が続いている。学生時代にいろんな地方出身の友人の話を聞いて、正直羨ましく思っていた。そんなおもしろいものがあるのかとか、そんな風習があるのかとか、地域によっては気候も違う。そんな話を聞いているだけで楽しかったのに、僕は思い出に愛着が持てなかった。

…でも、多分、この街が嫌いな本当の理由はそんな表面的なことじゃない気がした。僕の街にはなんだか、辛かった時の記憶の方が多かった。昔のことを思い出すのは、1人でいた時のことばかりだ。部屋で工作をしてたとか、下ばっかり見て歩いていたから、アスファルトにミミズが死んでたとか、川をずっと見てたとか、いつも記憶の中の自分が1人なのだ。友達はそれなりにいたはずだけど、何を話していたか…あんまり覚えていない。小学生くらいまでは、まあ確かに楽しかったことも覚えているんだけど、でも、ある時期からの記憶がグレーの色になってしまっている。


人間にはトラウマというのがある。人から何か言われただとか、よくない出来事があったとか、そういう負の記憶というのは自分の脳内で何度も反芻されて、心に深い傷をつけてしまうことがある。年月が経って、心がその出来事とは距離をおいて冷静に自分のことを考えられるように変わったとしても、記憶の中の自分は歳をとらない。それを体験した時のまま、ずっと理不尽・恐怖・悲しみ・悔しさを感じ続けることになる。過去の出来事は変えられない。「どうしてあのときもっとやれなかったんだ」とか「誰かが助けてくれたら」とか「今の自分だったらできるのに」と思っても、当時の自分は1人で、ずっと記憶の中で膝を抱えて泣いているのだ。時間が経っても、能力が向上しても、関係性が変わっても、あらゆる形でそれは人の記憶に残り続ける。
そして大体、こういうネガティブ・トリップは自責に向かう。「自分がダメだから」「なんの取り柄もないから」「自分にはできない」「自分が悪い」と、どんな状況にもかかわらず、呼んでもいないのに急にそいつらはやってきて、自分の心に強い暗示をかけていく。出来事にうまく対処できなかった自分が、自分に呪いをかけ続ける。ああ、またダメか。分かってる。知ってたよ。だってずっと、できないって言われ続けてきたから。

 

昔の傷を見つけて「これはなんだったっけ」とかおもしろがってやっているうちに、開けてはいけない扉が開いてしまって、しばらく部屋で壁だけ見ていた。戻ってくるんじゃなかったと思った。その時は大好きな音楽も力を貸してくれなかった。ただどうすればよかったのか、何がいけなかったのかぼんやり考えて過ごした。でも...なにができたのかなんてわかるはずもない。当時の自分は、それで精一杯だったんだから。

 僕はとても器用とは言えない。勉強もそこそこだったし、運動も得意じゃなかった。でも、いつも一生懸命生きていた…とは思う。「自分ができる限りのこと」は頑張ってきた。それを人と比べたら話にならない程度だろうけど、笑われても馬鹿にされても、終わったあとで「手を抜いたふり」だけはしなかった。真面目にやった。やってだめだった。誰かの笑い声を全身に受けたり、恥ずかしさや悔しさで顔が赤くなったり、叫んで逃げ出したくなるようなことを何度も堪えてきた。上手にできないのだ。仕方ない。だから、あまり覚えていないけど、きっと昔の自分も一生懸命やっていたはずだ。…逆に言えば自分のいいところなんて、それしかないかもしれない。

上手にできないということは自分が一番わかっているし、惨めになるだけだから別に慰められたりもしたくない。大体、慰めや励ましはなんの役にも立たないものだ。生きていれば、どうしたって順位がついて、評価をつけられて、何かを諦めなければいけなかったり思い知らされることがある。それでもいつかはきっとと思って、陰ながら頑張ってきた。膝を抱えている昔の自分の先に今の自分がいる。そういう自分がいなかったら、耐えてくれていなかったら、もうとっくの昔にすべてが終わっていたかもしれないのだ。「彼」をずっと1人にしていたらかわいそうだと思った。記憶の深いところまで行って「昔の自分に会わなきゃいけない」と思った。昔の記憶を徹底的に呼び起こして、記憶だけ遡りたい。どうすればいいか分からなかったから、心理学や精神医学のことを調べてみた。本当に効果があるかとかは分からないけど、とにかく僕は「彼」に会いたかった。


自分の心に封をした部分を一回開けなければいけない。心理カウンセラーや精神科医が黙って患者の話を聞くのは、出来事の詳しい内容を聞き出すこと以上に「患者に自分のことを客観視させる(つまり『言葉』というものにして自分の一部を自分の外側に出す)」ことが必要だからだ。一回、辛い出来事を他人として置き換えてしまって、強制的に距離をとってみることが必要なのだ。ユング心理学では、自分の中のもう一つの人格を「影(シャドウ)」と言っていて、自分の心の光の当たらない部分...だけどずっと付き纏ってくる自分のもう一つの性質を理解することが自己形成にとって重要だとしている(個性化という)。僕は彼のことを他の誰かに話したくなかったし、話すつもりもなかったから、その作業を1人でやらないといけなかった。自分にとって辛い記憶の濃い場所…しばらく行っていなかったところ、通学路、嫌なことがあったあとにぼーっと座っていたベンチとか、そういうものを一つ一つ思い出して巡った。
…これは意外に楽だった。案外、場所の記憶というのは時間が中和してくれているものだ。上にも書いたような「妙な新鮮さ」のおかげで、意外と記憶に責められることはなかった。まあ、楽しい思い出だって同じように薄れていってしまうから、むしろ場所に残っている記憶はほんの輪郭に過ぎなくて、やっぱり問題自分の内側にしかないのだと思った。

大体、一つ何か思い出すと他の記憶も連鎖して思い出すものだ。それでいて、全く余計なことに僕の脳は頭の中でその記憶を繰り返すようになっていて、まるで拷問のように自分の記憶の中で何度も何度も同じ体験をさせられる。嫌なことを一回思い出すと、その波状攻撃に気持ちが追いつけない。一回言われただけの嫌な言葉も、ゆうに数百回はリプレイされる。前に人とこんなことを話していたら「それは自分にはない」と言われたから、どうやらそうならない人もいるらしい(どっちが多数派なんだろう?)。だから一回思い出してしまえば、あとは脳内で録画テープが巻き戻って、当時の映像を何度も再現してくれる。人間、大事なことは意外と忘れてしまうのに、嫌なことは思い出すと結構覚えているものだ。そうやって当時の自分を取り囲む状況を思い出す。それを思い出しているのも自分だから、やっぱり当時と同じように落ち込むし、苦しむ。辛くなる。当時の自分は1人きりで耐えたけど、でも今回は大丈夫だ。1人じゃなくて、昔の自分と一緒だから。

辛かったとか、悔しかったよなとか、いろいろなことを思ったけど、僕は他にも大切なことを思い出した。そういう気分になった時に、必死にそれを押さえ込んで、こらえて、黙って静かに闘っていた自分の姿も見た。僕の場合は、そういうとき大体何かを作っていた。好きな絵を描いたり、紙粘土で造形物を作ったり、紙工作したり。辛いことがあるとほとんどそうしていた。多分作ることが救いになっていたんだと思う。苦しい中でも、世界の中に楽しさとか、嬉しさとか、ささやかでもそういうものを見出して生きようとしていた。ほら、やっぱり一生懸命頑張っていたじゃないか。

多分そのおかげで、どれだけ辛いことに打ちのめされても、人から否定されても、悔しいことがあっても、うまくいかないからといって「自分に価値がない」とは思えなかったのだ。自分には好きなものがあって、それをしている時間があって、その時間を愛していた。だから1人の時間ばかり思い出していたのだろう。おかげで今も、僕は美術が好きで、そういう仕事を続けている。そういうものがあって本当に良かったと思う。彼が好きなものを信じていてくれたから、大事なことを思い出すことができた。なぜだかとても嬉しくなった。僕は彼を抱きしめて言った。彼のおかげで今も生きられるんだ。「ひとりでよく頑張ったよ、遅くなってごめん、迎えに来たぞ...」と。


言ってみれば完全な一人芝居だ。茶番劇のように思われるかもしれない。でも、彼に会ったあと、昔のトラウマが思い出されることはなくなったのだ。人から否定されて嫌っていた思い出とか、当時の恥ずかしい自分を受け入れることができたということなのかもしれない。

人によってそれは違うと思う。振り返ったらほんとに小さな一言とか、くだらないこととか、些細な失敗かもしれないけど、時が経てば経つほど自分の中ではものすごく「大きな問題」になってしまう。多くの人も僕と同じように、自分なりの「そういうもの」を抱えて、「彼」や「彼女」と一緒に生きているんじゃないか。今でもたまに思い出すことはあるけど、僕はもう、記憶が化けてきて夜中に苦しめられることはなくなった。まるで”霊が成仏した"みたいだ。だから僕は本当に彼に会えたんだ、と思っている。

僕はたくさんの自分と一緒に生きている。いつどの誰が欠けても、自分というのは存在しなかっただろうと思う。自分はダメな時もあるし、調子に乗ったり、失敗したり、良いことばかりしているわけじゃない。それでも、いろんなところで反省して、少しでも良くしたいと思ってやっている。そういう、誰にも見せていない小さい自分のことを愛せるのは自分しかいない。これからも何か失敗するんだろうけど、その時はまたいつか同じように、自分に会いにいけたら良いな。育った街だって、これから好きになれるかもしれない。