未知との遭遇

 

 

自分の興味があることを知りたい時、僕は本を読むことが多い。インターネットはいつでも知りたいときに知りたいことを教えてくれるけど、まとまった知識を得たいならやっぱり読書が一番だと思う。自分よりも頭の良い人が、その道を研究・分析して、長い時間を投じて書き上げた文章を読むのは、その人の経験や思考を覗き見ている感じがするし、自分になかった考え方や「天才的なひらめき」の片鱗に触れることができるのでとても楽しい。

僕は物事には構造があると思っていて、頭の良い人の文章を読んでいるとき「その人の言いたいこと」が急に頭の中で平面から立体に立ち上がるみたいな瞬間がある。それで、その頭の良い人は、文の巧さでその構造体を「3Dソフトでモデリングしている」みたいにぐるんぐるんと回して、裏から逆から、さらには裏表を靴下みたいにひっくり返したりして、理論をつなぎ合わせて展開させていく(感覚的だからなんとなくで分かってほしい)。本を読んでいると、たまにそういう著者に出会うことがある。それはもう語彙や知識やロジックではなくて「ひらめき」の話なんだと思う。例えばもし、あることについて論じられた文がひとつの「建築物」だとして、前提や定義という「基礎」の上に組み立てられていくとしたら、頭の良い人が書く文章は「宇宙空間に浮いている」くらいの感じがある。どんな生き方をして何を見てきたらそんな発想が思いつくのか、絶対自分では辿り着けなかったことを教えてくれるのだ。読んでいて本当に頭がいいなと思って、鳥肌が立ったりもする。もし天才が存在するなら、こういう人のことを言うんだろうなと思っている。

自分の考えていることの専門性が上がってくると、より専門的な本を読むことが増える。語彙も文体もどんどん難しくなっていって、一冊読むまでの時間は長くなる。ひどい時だと、著者が何を言っているのかほんとに分からなくて、日本語で書いてある文章なのにずっと見開きの2p分だけを追って読んでいる、なんてこともある。しかも頑張って読み終えてもまるで頭に入っていない。もうそういう時は白旗をあげて、インターネットで解説してあるサイトを見たり、「本の解説本」を読んだり、それこそこういうブログでわかりやすく説明してくれている人の文章を読んだりする。面白いことに、そうやって一回予備知識を入れると、あんなに読めなかった謎の文章が、驚くほどスムーズに頭の中に流れ込んでくるのである。前読んだときと書いてあることが変わっているんじゃないかと思うくらいだ。こういう体験があるのも読書の楽しさだ。

 

どうしてそういうことが起こるのか、それについては自分でなんとなくわかる。というのも、僕は「難しい本」には二種類あると思っている。一つ目は単純に「使っている語彙が難しい場合」。もう一つは「自分の中に理解の前提が備わっていない場合」だ。一つ目について説明すると、これは哲学とか、学術の専門用語を多用している本に多い。これは簡単な話で、単純に使っている言語が違うのと同じだ。日本語しかわからない人がフランス語の本を読むようなものだ。使われている単語がどういう意味なのかが分かっていない。または、その著者がどういう意味でその言葉を使っているのかがわからないから読めないパターンだ。哲学だと特に多い。哲学は、世の中のあらゆる事象に対して、一つの言葉でその全てを内包できる「共通解」となる言葉を求める学問だと僕は思う。「僕はこう思うけど、あなたにとっては違うかもね」ということでは哲学は成立しない。「僕にとってもあなたにとっても、これはこう」と言い切る言葉を探すのが哲学だから、言葉の選び方がめちゃくちゃ重要なのだ。わざと難しい言葉を使う捻くれ者の学問だとか言う人もいるけど、僕はそうではないと思う。

二つ目は簡単に言えば、異文化について話されている本だ。例えば、日本ではありえないようなことを当たり前にしている文化圏の人が、そういう習慣の前提に基づいてがんがん話を進めた場合、こちらは理解に取り残されてしまう。こういう本は、頭のリミッターというか、自分が思うあらゆる前提をとっぱらって読めば理解できることもある。史学系の本を読んでいるときとかに多い。携帯電話を一人一台ずつ持っているような現代人が、「連絡を取るのに3日はかかります」という江戸時代みたいなことを言われたら、いや、なんで?と思うだろう。

これらの場合について考えてみると、理解できないことというのは、どちらも自分の認識に不備がある場合だということがわかる。その本を読むにあたって必要な眼鏡みたいなものがなくて、視界がぼやけたまま目を通しているみたいな状態だ。これらを踏まえるともしかして、物事の理解というのは「内容を新規に取り入れる」というよりも「自分の理解の補完をしている」のではないか、と思えてきた。言い換えれば、すでに自分が知っている知識・体験・例え話などにして置き換えて理解しているにすぎない。読んだ文章は新しく脳の更地に「建設」されているというより、増築とかリフォームみたいな感覚に近いかもしれない。

山口真由という米NY州弁護士の方が「本は7回読む」と著書で書いていた。詳しい内容は書くとあれなので割愛するけど、真面目に一文一文読むのではなくて、飛ばし読みをして、自分で内容を想像しながら読むそうだ。実際その方が記憶の定着もいいらしい。僕は真似しようと思ったけどできなかったので、合う合わないはあるかもしれないけど、これも言っていることは同じだと思う。読んでいる目の前の文章を文字通り”読み込む”のではなくて、自分がすでに持っている知識の中から内容を想像して組み立てたうえで、答え合わせをしながら読むということだ。0を1にするのではなくて、1からの展開を作っていくのが「知識の体系」なのでは?と考えてみた。

物事の理解はいつも事象に対しての後追いのものになる。物事の推論には「帰納法」「演繹法」とかいうのがあるけど、これらも自分の中にすでにある既成事実という「わかっていること」を利用して新しい物事を論じる方法だから、自分の中に「わかっていること」がないと理論を組み立てられない。すべての学問は「今現在わかっていることから推察される最適解」を「暫定で」導き出しているから、世の中のことはすべて「わかっていること」という前提を持っていないと成立しないのだ。

実は鎌倉幕府は1192年ではなくて1185年にあったとか、毎日目まぐるしくいろんな研究機関で日夜研究が行われ、常識と思われていることはどんどん更新されている。発見された・起こったことを総合的に見て、一番正しいとされるものが選ばれ、それを知として学問は成り立っている。だから、本は思考自体を拡張させながら読むことはできないのだと思う。自分がすでに持っている知識とか、既存の知識に接続することでしか物事は理解できないのだ。じゃあもし仮に、その前提が一切なかったらどうなるだろう。自分が物事を理解するために必要な知識が完全に抜け落ちているとしたら、それでも自分は物事を理解できるのだろうか?

 

以前読んだ本に面白い思考実験があった。例えば、馬が一頭いるとする。その馬の知識体系は、馬→哺乳類→脊椎動物…というように、どんどん大きくざっくりとした分類に広げることができる。僕が馬を馬と認識できるのは、「馬」という動物の存在を知っているからで、さらに大きい「哺乳類」というグループにしろ、「脊椎動物」にしろ、なんとなく「こういうものだ」という知識を持っているから、「馬」がどういう生き物なのかを想像して、理解しているといえる。これが一切ない場合を考えてみる。まず僕は馬を見たことがなくて、図鑑や、人から聞いたことも教えてもらったこともないとする。僕は初めて馬の姿を見て「なんだあの生き物は」と言うと思う。ここで「生き物」と呼ぶのは、かろうじて「生き物」という概念は知っているからだ。馬のことは知らないけど、生き物っぽい、ということはわかる、みたいな感じだ。馬は僕の中で「生き物A」とか呼ばれるかもしれない。もしそのまま馬に関する理解が深まらなかったら、僕は一生馬のことを「生き物A」と思って死ぬだろう。死ぬ直前に突然「あれ、"馬"だよな」とはならない。これをもっと拡張して考えてみる。究極、生き物であることも、物体であることすらも分からなかったとしたら、僕は馬を認識できるのだろうか?この話は本来、知覚と認知の哲学の話で、存在はどこで認識しているのかという問題でもある(クオリアに関係している)。もし、物事を既成事実や事前情報で認識しているとするなら、この場合僕はもう馬を認められないはずである。実際はどうだろう?僕が知らなくても多分馬はそこにいて草とかを食べ続けるような気がするし、逆に言えば僕が馬を認識している「場合」にだけ馬が空気を読んで「現れている」ということにもなる…それはちょっと考えにくい。「馬の存在を知らなくて初めて馬を見る人」がいたとして、周りの人は馬を知っていて、みんなには馬の姿が見えているのに、その人にだけは馬が見えない、みたいな感じになるということだろうか?じゃあ逆に、仮に見えてはいる(視界には映っている)としても、知識がなかったとしたら、馬を「物質」だと認識できるものなのだろうか?どうやら「いる」っぽいけど実態はない「幽霊」みたいなものとして捉えられたりするのだろうか?だって、極端にいえば本当は人間の身体はたくさんの素粒子でできているらしいから、すべてのものはスカスカの状態なはずなのだ。それを知っていても、僕にはそういう「粒子の隙間」は目に見えない。「感覚器官としての視覚」と「存在の認知」には何か大きなギャップがある。僕は物心がついたら馬のことを知っていたから、実際どうなのかはちょっとわからない。実際に何も知識がない状態で、馬が「いる」と言えるんだろうか。生まれたばかりの赤ちゃんに、どうなのか聞いてみたい。

本から得る知識は、自分が持っている既存の知識からある程度推察することで理解しているんじゃないか?という前述の話と、馬を見る人は馬を知っているから馬のことを認識できる(※『見えるかどうか』という話とは別)のではないか、というのは同じ話である。自分の中に前提となる知識があるかないかで、物事の理解に影響があるのかどうか、ということだ。実際のところ馬を馬と知らなくても目に映るのかどうかは分からない(「生き物A」がなんなのか分類できないだけで、目に映りはすると思うが)。つまり存在はある。存在はあるけど、僕の仮説の方が正しいとしたら、知として体系化できないものは「認識」はできない、ということになる(論理哲学ではこういう考え方をする)

この長い文章で何が言いたいかと言うと、何かを理解するということは「知識の体系化」であって、物体を認識するうえで物事に「関係性」が必要だとしたら、人の理解が追いつかないような存在例えば「宇宙人」とか、僕が生きているこの3次元宇宙のさらに上の次元…例えば4次元とか5次元みたいな世界から僕のことを見ている"かもしれない"「高次元な存在」とか、本当に存在していて、すでに僕たちは出会っているのに、理解ができなさすぎて脳が認識からはじいている可能性もあるんじゃないか、という妄想である。