むずかしい芸術

 

 

作品を展示していると、いろんな人に出会って話をする機会がある。当然いろんな反応がある。かわいいとか面白いとかいう感想だったり、なぜこれを作ったのかとか、どういう意味かという質問を受ける。僕の場合は「どうやって作ってるんですか?」という技術的な疑問を受けることが多い。反応が来るのは面白い。人によって見るところが違うし、自分でも考えなかったようなことを言われたりする。
でも、好意的な人ばかりじゃなくて、作品を見る人の中には「自分には全く意味がわからない」とか「面白くない」とか否定的な目線を持っている人もいる。そもそも芸術の世界に興味がない人もいる。「こんなの自分にも作れますよ」と言われたこともある。まあ、それは個人の意見だから、別に僕がとやかく言うことではない(反論はするけど)。要はそれはその人の「世界の見かた」の問題で、前提として、もし批判・否定されるのが嫌なら作品を発表しなければ良いし、自分の部屋にでも飾っておけばいい。作品を批判されて怒り出す人がたまにいる(インターネット上で作品を発表している人に多い)けど、それは見る相手に肯定的な評価を求めているということの現れだろうと思う。いつもいい反応が返ってくるわけじゃないということは理解しなければいけない。…まあ、世の中には「言い方」というものも確かにあるんだけど、作品を作って発表する側の姿勢として大事なことは忘れないようにしておきたいと思う。ちなみに僕が個人的に一番ダメージがあるのは、小さい子に「これおもしろくない」と言われること(しばらく立ち直れない気がする)。
芸術は分かりにくくて、偏屈な世界だと思っている人は多いと思う。実際僕もそう思うこともある。分かりにくい作品は確かに存在するし、偏屈な作家もいる。難しい言葉を使うと「どうしてそう難しい言い方するの?」と言われることもあるから、他の人から見たら自分がそういう存在なのかもしれない。でも、これにはワケがあると思う。
 
作品はいろんな種類がある。見ただけでなんとなく意図が想像できるものとか、その作品が作られた時代の前後関係を知らないと読み解けないもの、何かの発言や文化的なものへのカウンターとして作られたもの、何かの技術や工法を継承・発展させて制作されたものなど。また、表現方法も様々だ。絵画・彫刻・写真・映像、それらを複合したミクストメディアなど、多様な表現媒体によって適切なかたちに変換されて表現される。いずれの場合にしても「アーティスト」と呼ばれる人たちは何かの問題に対して愚直に向き合い、そのことを多角的に見て、何か新しい考え方を提示するとか、問いかけるとか、価値の更新に向かって仕事をしている。

大体の場合、その作品の意味やメッセージであったり、見た目以上のものを理解するためには、ある「ルール」や「語彙」を知っておく必要がある。美術館という場所がデートスポットにもなっている日本では、芸術作品をエンターテインメントとして捉えている人が大半なんじゃないかと思うけど、作品は必ずしも人を”楽しませる”ためだけに存在はしていない。ゲームセンターとは違う。お金を払えば誰でも楽しめるというわけにはいかない。

中には、もちろん「見ているだけで楽しいから(自分には)難しい理解は必要ない」という人ももちろんいると思う。必ずしも理解をしなければいけない、ということでもないのも逆もまた然りだ。例えばスポーツは、よく知らなくてもなんとなくどっちが勝っているかとか誰が上手いとかわかるけど、まずルールの理解と、チームの因縁とか選手の状況とかいうような補足情報を知るともっと楽しめたりする。それに近いことだと思う。ただ「見ていて楽しくないから」「見た目が気持ち悪いから」など、「よくわからないから」良くない作品ですね、と言うのは大きな間違いだ。これは別に、よく批判の槍玉に上がる「現代美術」に限った話ではない。芸術が宗教画だった時代の絵だって、キリスト教のことを理解していなければよくわからないことが多い。
こと美術に関してはなぜルールをすっ飛ばして語られてしまうのかといえば、日本で美術教育が始まった時期が関係しているという話がある。鎖国が解かれ、西洋の文化が日本に入ってきた時代。明治維新のなか学制が公布されて学校教育が始まり、美術の授業も始まる(正確には1872年)。初めは毛筆画(日本画)やパースペクティブなどの図法表現を学ぶ授業だったようだ。その頃といえば、西洋での絵画は写実主義から印象派へ転換する時期だった。浮世絵や戯画や日本画ばかりを見ていた当時の日本人からしたら、初めて西洋の絵画を見た時どう思ったんだろうか。こういう西洋への興味みたいなものが明治維新の原動力となったことは事実だし、もちろん混乱はあったようだけど、それでも、日本もほとんど知らなかった他国の文化のことを知れるようになって、すごく面白かったんじゃないだろうかと思う。こういう西洋式の「見たものをできるだけそっくりに描く」という美術の考え方が教育にも影響していたから、いまだに美術教育は「”上手に”絵を描けるかどうか」評価するようなところがある(北斎は波の時間を見事に止めてみせて、海外で高く評価された)。こういう無意識の前提があると美術が「上手に描けない=向いていない」となり「自分に関係ある/ない世界」という二極化の考え方をされてしまう。


この手の問題は言葉で考えるとちょっとわかりやすい。ちゃんと分けてみたい。メディアがよく使う「アート」という言葉は、なにか自由で、派手で、エネルギッシュで…くらいの意味で使われている。絵具を手で塗りたくって絵の具まみれになることが「アート」とか、何かの包み紙とかを使って綺麗に造作をしたものをアートと呼んだりする。「ラテアート」とか「ネイルアート」などといった「◯◯アート」みたいな言葉もたくさんある。英語の「Art」ともちょっと違う。訳せば同じ意味だけど、「アート」はどうやら「芸術」が示すそれとは違う感じがする。「アート」は感性や意志みたいなものに向けられていることが多いのかもしれない。前述で言えば、絵具を自分の思った通りに混ぜ合わせて塗りたくるみたいな衝動性とか、自己解放的な意味とか、「これ、良いじゃん」という感性が現れているものを「アート」と呼んでいる。
「芸術」はどうだろう。広く言えば音楽も演劇も、詩や工芸作品も含むし、人間の活動が産み出した、時代や文化の考え方の鏡になるもの、と僕は思っている。時代や文化的な意味があるから、公共の施設で展示・公演される。ここで「アート」と「芸術」を同じものとして扱うと、芸術に対して「なんかすごい思い切ってやってますね」とか「エネルギーを感じますね」とかいう感想が出てきてしまう。わざわざあんなめんどくさいこと(しかも誰かに頼まれたわけでもない)をやっているんだからエネルギーなんかあって当たり前だ。美術館に行って、作品を「感じたままに見ればいい」という世の中の認識は「アート」的な概念から逆輸入されたために起こっているように思う。

「美術」というのは文字通り美の術だから、作品のテクニカルな部分を言う場合かなと思っている(この場合の『テクニカル』は『加工技術』みたいな意味と、『作品を作品として成り立たせる技術』のことも含んでいる)。「美術史」とは言うけど「芸術史」とは言わない。芸術にはすでに、人間の営みという歴史的な意味が含まれているからじゃないだろうか。自分の理解のために分類したから、本当はどうなのかとかはわからないけど。

 

「アートだから/美術だから良い悪い」みたいな話ではなくて、芸術がなぜ誤解を受けているのかと言えば、それらが実はちゃんと分けられている前提を無視しているからなんじゃないか。捉えられ方の違いがあるにもかかわらず「創作」みたいな粗いレベルで括られるときに誤解が起きる。だから「変な絵だ」とか「自分にも出来そう=そんな凄くないでしょ」という感想が生まれたり、逆に自分が見ているものがなんなのかわからなくなって断絶が起こる。ポストモダン以降の芸術では、いわゆる「崇高で天才性を持っていた芸術」が俗化してしまって「自分にも作れそう」に思われている背景もある。今では、これまでロー(サブ)カルチャーだと言われていた漫画やアニメが美術館で展示できるような重層性を得ていて、ハイカルチャーだったはずの芸術が「なんか一部の人が面白がってやっているゲーム」として、逆にアングラな、オタク的なものになりつつある気もしている。
近頃では「定義づけ」みたいなものを嫌って、グラデーションを求めるような社会の動きがある。ローとハイ両者の橋渡しをするといった価値も確かにある。そういう色んな価値がある中で果たして、芸術がいろんな文化とごちゃ混ぜになって形を変えていくことは悪いことなのだろうか?なんか、こういうことは芸術だけに限らず色んな分野で起こっている変化だと思う。僕はクラシックみたいな古典音楽も好きだし、ロックみたいな反体制の音楽も好きだし、ポップなものも聞く。でも、色んなものがあるからといって音楽の価値が変わることはないと思う。こういうふうに考えたら、一つ言えるのは、芸術が今後どこを目指していけばいいのか夢想すること自体、未来へのまなざしになり得るから、新しい精神性を獲得するのに大事なことだと思った。

 

一方で、芸術にも美術にも「文脈」は必要だ。これらのコンテンツが死なないようにするためには多少教養も要る。それが前述した「語彙」のことだ。それらを専門的に勉強した人だけが話せる言葉というものはある。そういう学問としての正当な道を辿ろうとしている表現が難解になるのは仕方ないことだと思う。論文を発表しているようなものだからだ。僕は物理学が好きなので、たまーに論文を読んでみたりするけど、大体2pくらい読んだらあとは難しくてもう分からない。だからといって物理がつまらないとは思わない。分からないのは明らかに僕の理解が足りないせいだからだ。

世の中には、そういうものを深めて研究していく人と、それをみんなにもわかりやすく翻訳する人がいる。前者が「発明者」とか「発見者」と呼ばれ、後者は「開発者」と呼ばれる。開発者によって実用化されなければ、大体の研究は一般人には意味がわからないものだ。でも、分かりやすさや複雑でないものを求めてばかりいると大事な何かが抜け落ちる気もする。自分が何を思想にするかというのは、どういうものを考えていくかと同義なんだと思う。以前「アウラ」という言葉を使ったけど、それと同じように一般化されてしまうことで「なくなってしまう何か」もあるかもしれない。立川談志は「芸人の驕り」と言っていた。すべてをわかりやすく説明するのは鑑賞側に対する侮辱でもある。「どうせあんたたちには理解できないだろうから説明しときましたよ」なんて、どんな態度だよと思うし、もし補足的に作品の不備を言葉で説明できてしまうとしたら初めから哲学者かなにかになればいいのであって、もはや作る意味すらない。服屋の店員じゃないんだから、説明は義務じゃない。ここは気をつけなければいけないと思った。

 

芸術はわかりにくいという誤解を解こう、という文章を思いつきで書き始めたつもりが、ここまでくるとやっぱり芸術はわからないままでいいな、と思ってしまった。いや、でも本当にそう思う。わからないから考える。芸術は難しい。難しくていい。難しいけど、やっぱり楽しい世界だと僕は思うから。