恨みと鬼

 

 


※この文は、TVアニメおよび漫画「鬼滅の刃」のネタバレを含みます。作品を楽しみにしておきたい方はご注意ください。

 

 

 

一昨年の暮れ、アニメ「鬼滅の刃」を某動画配信で一気見した。ずっと話題になっていたけど関心がなくて、劇場版の興行収入がどうのこうのというニュースを見て、そんなおもしろいのか?と疑いながら見始め、ちゃんと煉獄さんのくだりで号泣し、しっかりファンになった。今ちょうど、新しいシーズン(刀鍛冶の里編)の製作中らしい。現在アニメでは「遊郭編」までが放送された。

遊郭編に「妓夫太郎(ぎゆうたろう)」というキャラクターがいる。こいつはいわゆる遊郭編の”ボス敵”なのだがとにかく強い。一応、鬼滅の刃には主人公一行に強力な「柱」とよばれる味方がいる。毎回、旅に出る一行には1人か2人の柱がついてきて(全部で9人いる)、主人公たちに要所でパワーアップのきっかけを授けてくれることになっている。柱はヒーローみたいなものだ。少年漫画は主人公がヒーローとして描かれるけど、鬼滅の刃の主人公は最初はそこまで強くなくて、成長するさまが細かく描かれるので、最初のうちは柱の存在が頼りなのだが、妓夫太郎はこの柱をも圧倒するのだ。…結局、色々なんやかんやして勝つのだが、僕はこの敵キャラクターの存在がとても印象に残った。

妓夫太郎は「鬼」だ。もともとは人間で、鬼の血を分けてもらうことで自身も人を食う鬼となって、いろんな悪さをする。主人公たちはその鬼を退治する目的を持ったストーリーになっている。この妓夫太郎の悪意の原動力は「人間だった頃に理不尽に受けた苦しみや恨み」だ。色街のとても貧しい地域に生まれ、親を亡くし、醜く不気味だったことで周囲の人間から一切の愛を受けずに育った。でも、妓夫太郎には自分とは大違いの容姿の美しい妹がいた。唯一の肉親である妹を生きがいにして、2人で貧しいながらも暮らしていたのだが、ある事件があり、妹を殺されてしまう。そして、自分から生きる希望を奪った世の中への理不尽さとやるせなさ、悔しさ・苦しみが、彼を鬼に変える。この感情は「恨み」となって、罪のないあらゆる人や、主人公一行に牙をむくのだった。


僕は妓夫太郎を見ていて、無敵の人を思い出した。ここ数年ネットで流行した「無敵の人」という言葉。社会的立場・役割がないとか、属するコミュニティがないとか、不当な扱いや理不尽を受けたりした「失うものが何もない」人が、無差別に人を傷つけたり襲ったりする事件が起きている。その原動力となったのは、社会や制度、自分のことを否定した人間への恨みだということを、ニュースでは報じている。

恨みや復讐というテーマは、多くの文学・映画・漫画などでも取り扱われている。自分が受けた苦しみを癒すだけでは怒りを適切に処理することができず、その怒りはある衝動となって他人への無差別攻撃へと変わる。自分を傷つけた人間は、復讐が実行にうつされるときにはもう自分の目の前にはいないから、その対象は見失われる。必死に怒りや悔しさをおさえ倫理観や道徳に従ったために、「苦しみを我慢した自分」が正当化されてしまって、その時の対象者はもはや復讐の相手として適切なものではなくなる、のかもしれない。もちろん、長い間恨みを持ち続け本人を攻撃するケースもあるが、多くの場合、自分を苦しめた人間には恐怖心を持ったり「反抗しても無駄だ」という学習性無気力に陥ってしまう。こうして恨みの対象の「すり替え」が起こる。いじめられた人間が格闘技などを習って力をつけて、自分も同じように弱者にいじめをするようになるみたいな話もある。「いじめをする人間は心が弱いのだ」とか言う人がいるが、本当にそういう単純な理屈だけで説明してしまえるものなのだろうか?

僕は小さい頃気が弱くて、通っていた幼稚園にいわゆる「いじめっこ」がいたからよくいじめられていた。正直、幼稚園くらいのいじめなんてかわいいものだと思うけど、この時のことは今でも忘れられない。いまだに相手の名前を覚えている。自分の中にも、ちゃんと恨みに似た感情があることに気がつく。さすがに、もう今更になって彼を探し出して復讐するみたいなことはないが、もし自分がその後も同じようにずっと理不尽な体験をし続けていたら、どこかで何かが間違っていたら、自分だって「鬼」になっていたかもしれない。自分がもしそうなったあとでも「やり返すなんて愚かだ」と言えるだろうか?…自信がない。

「人を許しましょう」というのは、社会を運営していく上で都合のいい考え方なんじゃないかと思う。もし誰もが妓夫太郎のように「自分が失った分は幸せな人間から取り立てる」という考え方の上で生きるとしたら、この世の中は混沌として大変なことになるだろう。だって僕たちは知らない間に他人を傷つけているし、他人が発した何気ない一言で傷ついて生きている。身に覚えがないことで、ある日突然殴られたり、包丁で刺されたりするわけだ。そうなったらもう、倫理もルールも通用しない。「許すことは強さの証だ」とかいう正直筋が通っていないようにも思える理屈に納得感を覚えてしまうのも、自分がそういうルールの中で安全でいたいからであって、それは自分の優位性を確保しようとすることでもある。そしてそんなことを言えるのは大体恵まれている人間だと思う。僕だって恵まれている。でもやられた方はずっと覚えているし、自分に優しくしてくれた人にだけ、人は優しくできるものなんじゃないか。映画「JOKER」にもそんなシーンがあった。


悔しさの行き場を見つけることができないというのは個人間の問題だけではない。国と国の歴史の間にも確実に恨みという構造が存在している。各地で起きている紛争がそうだ。理不尽に傷つけ傷つけられ、そういう恨みをたくさん生んでいる。その時自分たちを傷つけた人間だって、他の誰かに理不尽を味わわせられ、深い悲しみの中にいたりする。でもそれをやられた側は例え頭では事実を理解したとしても「自分を傷つけた鬼」のことをずっと恨み続けるだろう。もはやその恨みの対象が過去にしかいないからこそ、恨みは帰属する国そのものであるとか、団体やグループ、象徴に向けられる。その対象に直接反抗できなかったという事実や、自分たちの不甲斐なさによっても、恨みの炎があがる。

恨みというのは当事者たち以外は関係ない世界だから、やった側、当人に復讐することでしか正当性を得られない。かといって関係ない人間を傷つけて恨みが晴れることはない。それどころか逆にそれすらも苦しみになりうる。当人への復讐だけが「それだったら仕方ないか」と、なんとか思えそうなギリギリのラインである。許されることではないかもしれないが、完全に復讐が悪だと責めることも、場合によっては難しいことだと思う。

恨みや復讐というと話が大きくなるような感じもあるけど、八つ当たりレベルなら多くの人が割と身近なペースで経験していると思う。電車に乗っていると、なんかよくわからないけどイライラしている人がいたりする(正直自分もそういう時がある)。職場やどこかで腹の立つことがあったとか、何かがうまくいかなかったとかで嫌な気持ちになっているところを満員電車に乗ったりすると、ちょっとしたことが気になったりする。本当は原因は他のところにあるのに、関係ない人に意識が向いてしまう。頭では分かっていても、感情は止められない。友達や恋人関係でもそうだ。本当は別のことが原因だったりするのに、軽い一言やちょっとしたことを見過ごせず、ケンカになることだってある。こんなレベルのことなら日常のどんなところにも潜んでいる。自分のことをちゃんと理解したり、自分の感情と切り離して物事を考えられたらいいけど、怒りのエネルギーは自己防衛のものだから怒って感情を表に出すことで気分が高揚したりする。なかなかそう冷静にいることは難しい。

鬼滅の刃では、妓夫太郎に対峙する柱と、主人公である炭次郎とその仲間たちとの戦いになるのだが、この妓夫太郎と炭次郎との対比がよくできている。というのも、妓夫太郎にも炭次郎にも妹がいるのだ。妓夫太郎はおそらく、妹と一緒に戦っている炭次郎に対して親近感を抱いていて(妓夫太郎の妹も兄と同じく鬼であり、一緒に戦っている)、戦闘中にもかかわらず結構な長尺で炭次郎に「妹は守ってやんねえとな、お前は兄貴なんだからよ」と話しかけるシーンがある。人間だった頃に妹を守れなかった妓夫太郎の悔しさが言葉の端に表れているようにも思える。もしかして炭次郎に自分を重ねていたりしたんだろうか?

それから、妓夫太郎は親の愛を知らないが、炭次郎は一応は家族に愛されて育った、という対比。炭次郎の家族はとても仲が良かったようで、そこも妓夫太郎とは大きく違っているが、炭次郎は、家族を鬼に殺された悔しさを胸に鬼退治をしている見ようによっては主人公である炭次郎も、まさかの「復讐」を動機に戦っているわけだ。また、画面の中で「罪のない人を傷つけるな」と鬼を説教しているが、その鬼だって理不尽に傷つけられて生きていた、という過去が明らかになってしまう。そして、炭次郎は恨みの原因である「鬼の退治」を目指してはいるものの、自分の家族を殺した鬼「だけ」をつきとめて殺すのではなく、鬼の「滅殺」を目標に戦っている。理屈や情など関係なく、差別的に「鬼だから」殺すのである。妓夫太郎は妹を殺した犯人を自分の手で殺して(妹の件に関する『復讐』はここで終える)、そのあとでなにかが"キレて"しまって、鬼になり、幸せそうな人間に恨みを発散し続けている…(=人間だったころに受けた理不尽への恨み)
なんだか、どちらもやっていることはあまり変わらないような気がする。ちなみに作中でもちゃんと炭次郎は「一歩間違っていたら自分たちが『そう』(妓夫太郎たちのように)なっていたかもしれないんだ」と心中で分析しているから、自分の恨みについても自覚しているし、そういうふうに意図して作者はこの対立構造を作ったんだと思う。人間は善くて、鬼は悪そうに描かれるから、なんとなく物語が破綻せずに進んでいる。鬼には鬼側のロジックがちゃんとある。それを片方の目線で見るから「あいつが悪い」「いやあいつの方が悪い」とかいう話になるのである。

正義の反対は悪ではなくてもう一方の正義だとかよく言われるが、それをどこで判断するべきなのだろうか?結構そのところをいい加減に、立場上とか、こっちの方がいい人っぽいから、とかいう理由で雑に決めてしまっているかもしれない。もちろん、それを判断するのは自分の価値観や基準ではあるのだが、その基準や感覚に当てはめて判断する以前に、誤解で人のことを見てしまっている場合もあるなと思った。よくよく話を聞いてみたら、そっちの方が悪いじゃん、みたいなこともあったりする。印象がいい方が得をしたりもするし、弱い方の味方につこうとしてしまう無意識もある。そんなときに必要なのはちゃんと「話を聞く」ことくらいで、先入観で判断しないことしかないかもしれない。

仮に、言い分を聞くことが鬼と向き合う唯一の方法だとする。…でも、向き合ったとしても、鬼もこちらのことを理解し「わかったよ、もう人を襲うのはやめるよ」などといつも浄化されてはくれない。炭次郎は鬼を斬った。でも僕は鬼を斬れるだろうか?鬼側のことを理解なんかしたら、それこそ情が入って無理な気がする。それでも鬼は本気でこちらを殺しにくるだろう。黙ってやられるか?だから戦うしかないのか?それこそ平和なんて都合の良い妄想なのだろうか。わからなくなってしまった。