インターネットである作品公募を見つけた。4,000字程度のエッセイを募集しているらしい。いつもこのブログで書く記事がだいたい平均して4,000字くらいだから、ちょうど良さそうだと思った。賞金も出るらしい。時々身体を起こせなくなりながら、自分で書いた文を何度も読み返し、やっとの思いで仕上げた。
…端的にいうと普通に審査には落ちた。「受賞者には結果を郵送します」と書いてあって、ポストを確認してもそれはいつまでも届かず、熱が冷めた頃になって公募のホームページに発表が更新されているのを見つけた。
公募に作品を出すのも落選も別に初めてではない。いままでアートのコンペにいくつも出してきたし、それこそ学生の頃なんて、残念な結果に終わって肩を落とすのも、自分自身が否定されたような悔しさに身を焼かれるのももう感覚が麻痺するほど経験した。賞金や名誉がわずかに頭をよぎってしまう自分が不純な気がして、後ろめたさがあるうちは自分は賞レースをやるべきではないと思うに至って、それで公募とは距離を置いた。優秀賞的なものの類とは一度も縁がない。だから軽い気持ちで、今の自分を試すつもりで書いて…しかも今までやってきた制作の内容とは違う文章での挑戦だったわけで、そんなに最初からうまくいくはずないと自分に言い聞かせ期待せずにいたものの、実際結果を突きつけられたらやっぱり落ち込んだ。
誰しもが「数打てばいつかは」みたいな感じでやっているわけはなくて、一言一言頭を捻って何度も見直しをして、自分が出せる言葉を出し切っているつもりなのだから悔しくないわけはない。わざわざこんなこと言うのも野暮だがうっすら自信があるから読んでもらいたいと思うわけである。僕は自分の文章が好きだから書いているし、少なくとも自分の美術の作品の長ったらしいコンセプト文よりかは面白いと思っている。時々見返すことだってある。自分では良いんじゃないかと思っているから、不定期ではあるが書き続けている。
趣味でもなんでも、文章を書いている人間は大体「こいつはなんだかひと味違うぞ」と思われたいのだと思う。じゃなかったらわざわざ頭の中の妄想や偏見を公開する必要がない。一番は書くことが楽しいからではあるが、なんとなく自分の感じたものが世界で一番良い気がするからなにかを書いて残しておきたいと思うのだし、作品にしても、心のどこかで「自分は今世の中にあるものよりかっこいいものが作れる」または「作りたい」と思っているから、わざわざこんなめんどくさいことに心血を注いでいる。
ただ、どれだけ苦心しようが時間がかかってようが、結果は一瞬で出る。それも残酷なほどに明確である。そして選ばれたものだけが世に出る。選ばれなかった理由を教えてもらえるわけでもなく、特にどうだったか講評があるわけでもないし、どうしたら良くなるかというアドバイスもない。同情されて励まされたとしても、せいぜい飲み会で慰めのネタになるくらいで自分の作品が良くなりはしない。「一生懸命やってるのに評価されない」なんて泣き言をいちいちこぼしている場合ではないのである。
芸術や表現活動が自由で、なんでも受け入れてくれて、そして勝ち負けも優劣もない平等な世界だ、みたいなイメージはどこから湧いてくるのか、時々疑問に思うことがある。…全くそんなことない。僕は芸術の世界にもかなり厳しい優劣を感じるし、もっと言うと正解不正解だってあると思う。
正確には「表現自体は好き勝手にやればいいが、それを人に見せるとなったら自由ではなくなる」のである。部屋で1人で妄想して紙に好きな絵を描くくらいだったら何をしても良い。自由である。ただ、それが他人を介するようになった瞬間に色々なことを考えなければならなくなる。
なぜ美大組織があるのかというと、僕が思うに多角的な視点というのを受け入れるためだと思う。数ヶ月に一回くらいの作品講評で「自分が思っていることが相手もそう思っているとは限らない」ということを、教授や同級生にメンタルをボコボコにされることで学ぶ。叩き込まれる。そのためだけに行く場所だと言っていいと思う。ただ、創作においてはこれが一番大事なことで、制作していたら社会の問題に鋭く切れ込むことがあるかもしれないし、自分の作ったものが批判される可能性だって当然あるわけで、そういうセンシティブな内容における発言の仕方とか、感情や私見でない客観的な物事の語り方扱い方を試行錯誤し、なんとか自分の言いたいわがままを通す努力をするのだ。
今の世の中を見てみれば、いわゆる趣味の延長で描いた絵がネットに公開されて誰かの逆鱗に触れあり得ない炎上をするとか、どう考えても適切ではないものを「表現の自由」だと権利を振りかざして主張を通す様から、その重要さは明らかだと思う。「やったらいけないこと」とか「やらないほうがいいこと」をそのまま大声で叫んだら反感を買うに決まっている。
だから、今作品において重要なのは質や内容よりもその見せ方とパフォーマンスになっていて、SNSを使うのは確かに簡単だけど、誰もが気軽に始められるメディアはそういうリテラシーの部分で色々なことを考えないといけない場合がある。単なる投稿の内容に限らず、言葉の使い方とか運用の方が重要だし、トラブルの立ち回り次第でも活動内容に関係なく称賛、あるいは石を投げられる可能性にさらされている。がんばっているのならそれなりに良い作品を作っていることは大前提。作家だって人気商売で、まるでアイドルみたいに名前を売っている(この問題については色々なアーティストがテーマにしている)。
作品というのは作家自身の持っている感性、造形力、構成力、視点、知識や教養など…備わった能力を見せつける性質を持っている。作品に向けられる「かっこいい」「美しい」「面白い」などという諸々の形容詞には対象性があるわけなので、美術をはじめとした作品の世界は比較と評価で溢れている。そういう世界にあって「勝ち負けも正解もない」とか言っているのを聞くと僕はものすごい違和を感じる。かっこいい、美しい、面白いということは「そうではない」ものがあるということだし、選ばれるものがあるということは選ばれなかったものも同時に生んでいる。
例えばコンテスト形式で審査されて、今回はダメだったけど別に負けじゃないよ、とか言われてもそれはズレていると思う。どう考えても選ばれないより選ばれた方がいいと思うし、それを目指した結果こういうものに応募してるんだから、採点され評価がつけられているという事実は明らかだ。
まずアカデミックがものすごい倍率の世界で、「誰か」よりも「良い」ものを作って描かないと美大に入れない。そもそも創作の世界が「良いものを作る」を目指すならその本質は価値更新にあって、過去を否定まではせずとも上書きの必要がある。自分がどんなスタンスで制作に取り組んでいようともそういう世界だし、もうそういう職業なのだと諦めるしかない。こういう優劣の価値観がぷんぷん香ったまま「ありのまま」とか「自由」みたいなことをこの業界で語るのはかなり厳しい。
センスとか才能と呼ばれるものがそのまま「戦闘力」に置き換わるような世界で、世の中の創作物と目が合った瞬間にすぐ能力バトルが始まるから気が抜けない。こいつはすごいとか大したことないみたいなこと…みんなはっきり言わないけど、結構思っていたりするんじゃないのか。
そして僕は小さい頃からこういう順位づけの社会の構造に負け続け、それがめちゃくちゃ嫌になって美術の世界を目指したのに、いつの間にか自分もそういうものを気にする(させられる)ようになって、気付いたらしっかり競争に参加していたというわけだ。
なぜコンテストに応募するかというと、世の中はレースに勝った作品や人物を過剰に評価する傾向が強く、それが「ある」のと「ない」のでは大きな差があるからである。特に日本人は肩書きに弱くて、しかもみんなそれをよく分かっている。本人が実際何をしているかとか関係なく「なんか凄い人なんですね」というありがたい評価をつけてもらえる。だからコンテストが一番手っ取り早い。
美大の講評というのは言ってみれば近代以前の絵画の品評会の真似事だ。みんな自分なりの「良い」を目指しているはずがなぜか同じ基準の上に基づいて審査を受け、しかもそれが正当ということになっていて受け入れざるを得ない。大体入学後半年〜1年くらいでそれを思い知らされて、もう評価を求めるのをやめ開き直るか、どうしたら選ばれるかを真剣に考えるかのどちらかになる。大きく言って「芸術は勝ち負けじゃない」という派と「迎合してのし上がる」派に分かれる。言ってみればリベラルとコンサバみたいなもので、権威から否定されることが多ければ自由主義に向かうのだろうし、権威から口利きしてもらえれば保守的な思想になる。
芸術には、「マイノリティが虐げられて美術の領域に逃げ込み、ものすごい頑張りで革命を起こす」みたいな清貧で勤勉なイメージがあるが、実際はその「虐げられたマイノリティ」たちも美術の領域の中でマジョリティを形成し権威化する。評価づけを促す派閥や団体もその構造形成に一役買っていてそういう価値観もイメージもなぜかなくならない。「選ばれたかどうか」で人からの評価というものも大いに変わるし、作品にいくらの値がついたとか、どこで展示をしたとか誰とコラボレーションしたとかも同様で、自分がいかに社会的に必要とされているか、優秀であるかを語るための舞台装置になっている。
売れている人も「やりたいことをやるためにまず売れた」みたいなことを平然と言う。なぜ作品を作っていくのに「売れる必要がある」のか本当に謎なのだが、売れないと誰も話なんか聞いてくれない。しかもこれは逆説的に「売れること自体には意味がない」と「売れた人」が言っているようなものである。例えば「人気者になりたくて」とか「大勢の前に立ちたい」みたいな理由で創作活動をするなら「売れる」ことを目的に制作をするのは一見正しい気もする。でも、正しいと思うことをしたいとか世界を良くしたいみたいな純粋な想いよりも前に「売れる」が必要になっているこの世界って、一体なんなんだろう。
もし、評価をもたなくて「評価されてないからダメな奴」と思われてしまうのだとしたら、それは大きな間違いだ。ついでに自分がもしもそう思われていたらめちゃくちゃ癪に障る。「良いものって何」みたいな悩みは尽きないが、なにを良いと思うかは人によって違うのに、なぜそれを作ること自体よりも誰かからもらう勲章のために闘わないといけないんだろう。百歩譲って闘わないといけないとしたって、そもそも闘う必要ってあるか?
僕は現にそうなってしまって精神をおかしくしたが、少なくとも今僕の周りにいる友人たちは好きに生きて、全員息を呑むくらい純粋で見ていて大変清々しく、格好がよろしい。まったく世の中は、アーティストと呼ばれる人間が全員資本主義的な価値観を目指して活動しているとでも思っているんだろうか。人より資産を得てのんびり裕福な暮らしでもすることだけが成功?作家を名乗るなら「売れて」いないと、「有名」でなければ価値がないと…本気でそんなふうに思っているんだろうか。
「力のあるアーティスト」みたいな文句を業界の人間が使うのを、僕は今までに何度も見たし聞いた。力のある、って何だよ。苦しくてもなんとか制作続けて、発表して、燃やし続けて…みんな力があるに決まってるだろ。そして、こういう飾りみたいな成功への馬鹿げた呪いが何人の作家人生を終わらせたんだろう。売れて有名であること以外成功じゃないみたいな短絡的な考え、一体誰が何のために植え付けるのか?
僕は基本的にはやっぱり芸術が好きで、この数年間もう何度も制作はやめようと思ったけど、芸術のことを考えている時だけが楽しくて、制作している時だけが時間を忘れられて、あとは本当に何もない、暇な人間なんだと分かった。それ以外、生きていて楽しいことがない。
なぜ、誰かにお伺いを立てて評価を受けないと作品のひとつも広められないのか?「いや、ブログとかSNSとかあるじゃないですか」と言っても、それらにはフォロワーとかいうのがいて、結局運用をちゃんと考えなかったらアクセスなんか微塵も伸びやしないのだ。偏屈なことを妄想して薄暗い部屋で1人でニヤリと笑っているくらいにしておくのが一番楽しいのに、どうして誰かに見せると良いとか悪いとかいう話になるのか。そして、どうして僕はそういう仕組みの中にいて、いちいち数字とかを気にして「どういうのを書いたら作ったらウケるか」とか思ってしまうのか。とても面倒くさい。全くやってられない。評価のことなんて考えたくない…考えないとダメなのか?
評価を度外視するなら比較の対象は自分に向けるしかない。自分が行きたい場所にどのくらい近付いたかみたいな話をする以外、健全な制作は有り得ない。でも、そういうスタンスは鑑賞者を受け入れる余地を作りづらい。自己満足でやるならそもそもなぜ人に見せるのかという話になるし、説明の必要性も揺らぐ。究極の自己満足は究極の自己防衛にはなるが、それは孤独である。
どうせ「いいね」なんかついてもどうにもならないし、もしこういう評価とか審査みたいなことから完全に解き放たれる世界にいられたらいいのに。
公募だのSNSだの、なんでこんな面倒なことしなきゃいけないんだと思いつつ「だから絶対に認めさせてやりたい」みたいな…さすがに20代みたいなギラついた気持ちも持ちようがないけど、このまま深海魚で終わるのもな…と思った。
蒸し暑くてイライラしてたのかもしれない。夏の夜だから。