青春の輝き

 

 

年末年始に「全国高校サッカー選手権」というのがある。いわゆる「選手権」と呼ばれ、国立競技場で決勝を行っている”あれ”だ。僕はそれが結構好きで毎年楽しみにしている。オンラインで全試合中継・配信もされていて、予選の段階から注目選手や話題の高校に目をつけ観戦するのが恒例になっている。数年前インフルエンザにかかり寝たきり正月をおくっていたとき、たまたま決勝戦の中継をやっていて、元々サッカーは好きだったからなんとなく観始めたのが始まりだった。

 

その年は某強豪校がめちゃくちゃな強さで、決勝にもかかわらずかなり点差がひらいてしまったのだった。僕はもう一方の高校を応援していたのだが…残念ながら点差を返すことはできず、そのまま負けてしまった。たしかどちらの高校も優勝経験がなく、「どちらが勝っても初優勝」ということもあって会場の盛り上がりも印象的だった。負けた高校と僕はなんの縁もないのだが、テレビの前で見ていただけなのに試合終了のホイッスルが結構悔しく聞こえたから、感情移入するものがあったんだと思う。点差こそあったものの…いい試合だったのではないかと記憶している。

選手権というのは全国大会だから、出場するのだってそう簡単なことではない。彼らが全国のトップレベルの選手たちであることは言うまでもない。高校を卒業してすぐプロになる子だって当たり前にいる。だいたい、強豪校でレギュラーになるような選手というのは言ってみれば”エリート”ではあるが、そういう選手たちが毎日「それ」だけを目標に生活の全てを注ぎ込んで立てるか立てないかという舞台…想像するだけで険しい道である。

それが、決勝まできてあと一歩のところで優勝に届かず、高校3年間のサッカーを終える...どういう心境なんだろう、と僕は思った。「やりきった」という清涼感があるものなんだろうか。彼らの努力を知らない僕は、彼らがここまで積み上げてきたことがなにか音を立てて崩れていくような…そんな想像力でピッチに座り込む選手たちを見ていた。

終わった、と思い、僕はチャンネルを変えようとした。カメラはお互いの健闘を称える選手たちの姿をとらえていた。ところが、パッと画面が切り替わって負けた高校のキャプテンが映ったとき、僕は頭に電撃が走るような思いがしたのだった。音声は放送席の大会の総括コメントを拾っていたから声は聞こえなかったが、彼は相手の選手と握手しながら…確かに”おめでとう”と口を動かしていた。目からは涙がこぼれ落ちていた。悔しいに決まっている。彼はそれでも笑顔だった。相手へ最大限の賛辞を送っていた…

 

僕はたった一瞬…その一瞬に、なんだか凄まじいものを見た気がした。それ以来「高校サッカー」に心を掴まれてしまったというわけである。僕も一応はずっと運動部に所属していたが練習が嫌いで、大して上手くも強くもなく、飽き性で小・中・高と全て競技を変え違う部活に入り、試合にもほとんど出られないような人間だった。だから例えば「小学校の頃から大学までずっとサッカーをやっています」というような、一つの競技や世界に対して多くの時間と力を注ぎ込んでいる人に尊敬がある。一つのことに対して熱中できる才能…とでもいうのだろうか。僕には実感が持てないが、例えば試合に負けて悔しいとか、練習が面倒臭いみたいな気持ちも時々は抱えながらも、競技自体を好きだと思えなければとても10年も続けられないと思うのである。

振り返ってみると僕にはずっとそういう「アイデンティティにすらも代わる」ようなものはなくて、興味が散って好きなものも変わるため節操なくいろんなことをやってきた。興味が出てやりたいと思ったものは自分なりに体験したので、趣味と言えるようなものこそたくさんあるが、それは「一つの道を進んできた」というような強い実感ではないから、ずっと中途半端な…言ってみれば「所在」がないみたいな感覚で、なにかを通じて自分のことを語ることができなかった自分へのむなしさとして、今でも心のどこかに無意識に、そういうものを埋めようとしているのかなと思ったりする。

そう考えると、おそらく僕にとって「制作」や「作品」というのはいつの間にか自分のことを語るものになっていたのだと思う。誰かに会うときに自己紹介として「美術の作品を作っています」というふうに話すことも多かった。実際なんとなく作品を作り始めてからは、20代の熱量のある時間のほとんどを作品にかけていたし、誇張なくずっと作品のことを考えていた。だから…僕がなにか一つのことに心血を注いだ初めてのことが美術であり制作だったといえると思う。…まあ間違いなく、美術は僕の青春だった。

 

それがいつの間にか…作品を作れなくなって、美術館やギャラリーに行くのもしんどくなり、知らない人の活躍をSNSで見るたびにため息が出るようになった。自分が今までかけてきた時間も虚しく感じた。今まで生活の大部分を占めていたものがなくなったことで心に大きな穴が開いたような感覚があった。

真面目に制作をやっている人からしたら「心についた火を守れなかったお前が悪い」と言われてしまいそうだが、別に共感して欲しいとも思っていない。何か事件があって誰かにやる気を消火されたとかいうわけでもないし、感覚的には自分の意思で新しい薪をくべなかったと言う方が正しい。それも急に…なにかが切れたように冷めてしまったのだから自分で驚いている。今僕のもとに残ったのは大量の材料・素材、それから工具、わくわくしながら買った好きな作家の画集…

いつか大きなギャラリーで度肝を抜くような面白い展示をしたい、と割と本気で思っていたし、いろんな人と話をしてどういう作品を作るべきかとか、何を残すのかとか結構真剣に考えていた。本当にたくさん考えた。そういう熱も去ってみるとあっけないもので、終わるときは早い。追いかけても待ってくれない。でも、なんとなくそれも分かっていたというか…だからこそ「やめたら終わり」だと思って食らいついていたのだ。一回やめたら…もし”終わった”ら、もうダメになると思った。だからやる気に頼っている場合じゃないんだ、と…

しかしノイローゼみたいになってしまってたから、どの道そう長く保たなかっただろう。あのまま食らいつくように精神的に無理をしても、もしかしたら…まあ良い作品ができた可能性もあるが、絶対にどこかで糸が切れてやっぱり終わってたんじゃないかと思う。巷ではいろんな人が自分なりの成功を語っているが、世の中には挫折とか失敗だって当たり前にあるわけで、SNSを見ていたらまるで世の中のすべてがうまくいくかのような錯覚を覚えたりもするがそんなはずはない。リアルとはこういうことだ。「夢を持て」「やりたいことを探せ」としきりに言ってくるモチベーターみたいな人間は多いが、叶わなかったり途中で挫折した後のことは誰も教えてくれない。実際そうやって失敗して死を選ぶ人だって世の中にいるのだ。できれば転ばない方がいいに決まっているが、まあうまくいかない。転んだ後、どうやったらまた起き上がれるんだ。どうやって奮い立つべきなんだ。「辛いならやめてもいいんですよ」じゃない。辛いのなんてわかった上で、本当は..できるならやめないで頑張りたいんだよ。

 

何かを成しえた人だけを「成功者」として取り上げられると、それに純粋に感心したり尊敬を向ける一方、そうでない自分がものすごく惨めに思えてくることがある。この人たちと自分は違っていて、自分にはなんの能力も才能もないのではないかと…。でも、比率で言えば世の中では明らかに何者でもない人の方が多い。スポーツの現場で言えば、優勝以外はすべて失敗だということになってしまう。一握りの栄光以外、全て「無駄」?...だとしたら僕みたいなのは「失敗」ってことになるのか?

失敗なのか成功なのかはまあ置いておくとして、やっぱり何かが得られるためにとか、成果や目標のためだけの行動ってあまりにも辛すぎるというか…そういう勝負の意識も必要なんだろうが、僕は”あの涙”がどうしても心に刺さったままずっと抜けなかったわけで…何かに対して打ち込むとか命を燃やすということの意味が、あの一瞬にすべての答えを見たような、そんな感覚があったのだ。

成功とか失敗とかではない。そもそも「描くこと」「作ること」を「商売にする」と同義で捉えられることはとても多い。作家をやっているみたいなことを話すと、まず第一に飯を食えてるかみたいなニュアンスを受け取ることがあるが、売れてる=職業作家、という図式があって「飯を食えて一人前」みたいな暗黙の認識は確かにある。いや、飯なんか食えてなくても良い作品作ってる人はたくさんいるだろう。それができて初めて「作家」や「アーティスト」のはずなのに、なぜこんなにも資本的な価値観と結びついてしまっているのか…。

やめなきゃいいのだ。売れなくたって、自分の好きな絵を描いて、額に入れて部屋に飾っておくだけでも、絵を描く意味がある。創作活動が資本と簡単に結びついて語られることの方がおかしい。そもそも芸術は成果のためになんかない。人の命なんか救えないし、病気も治せないし、デカくて邪魔で難しくて、よく分からなくて…無駄だ。無駄なものだ。でもそういう無駄がなくなったら、僕たちはどうやって生きていけるのか?人生を結果で考えるならどうせ死ぬんだから(それだけは絶対に決まっている)今すぐ死んだ方が経済的だし合理的である。でも死はあんまり良くないよね、ということになっていて、死なない。記憶は残らない、金も名声もあの世には持っていけない、と言いながら、それを求めて生きていることそもそもに矛盾がある。なら人生の意味はなんなんだ?人生そのものが無駄…非合理じゃないか。

決勝で負けた彼らは「失敗」だっただろうか?競技に負けたことは事実であるがしかし、何も根拠はないが、彼がサッカー人生でなにか大きなものを手にしていることは直感で分かる。無駄や失敗はあり得ない。僕たちはそういう経験をするために生きていると言ってもいいだろう。やったことはなくならない。たとえ無駄だったとしても、一生懸命になにかに向かったことは、絶対に嘘ではないと思う。作品を考えている時間、美術館で感動して鼻息を荒くしながら帰った道、アイデアを思いついて頭に電流が走る瞬間、どうにも作品が展示に間に合わず泣いたこと、批判されて怒ったりしたこと、難しい本を読みながら寝落ちしたこと、明日が明るくて輝いていて、楽しみで仕方なかったこと…全部、楽しかった。幸せだった。

僕が僕なりに人生かけた時間あの青春が正しかったのかは知らないが、間違っていたとも思わない。今はそこまで悲しい気持ちはない。だってまたなんとなく僕は文章を書き始めている。なにかまだ話したいことがあるんだろうと思う。だから、次のやりたいことに向かっていくだけである。人生は巻き戻らない。進むしかないのだ。

 

 

懺悔

 

 

SNSというのは恐ろしいものである。僕は大変に恐ろしいと思っている。とはいえ一応は僕もアカウントを持っていて、自分が制作をしているから、そういう関係の人をフォローしたりする。ギャラリーに属さなくても、自分の営業と発信次第で作品を多くの人に見てもらうことができるから、作品を作って発表していくなら使わない手はない…と思う。実際今まで何人にも言われた。「もっとSNS頑張った方がいいよ」「売れる気ある?」...など。

売れる気はなくはない。飯が食えたら一番いい。でも食う以上に、自分が納得したいという気持ちもある。だから金はやりたいことをやった後でついてくれば……いや、わかります。そんなこと言っているからイマイチ活動に勢いがないのだ。まあそれは自分で分かっている。

…という言い訳はさておき、僕の通っていた大学には大きく言って「金じゃねえ」派と、「いかに金にするか」派の2パターンがいたように思う。厳密に言えば「金じゃねえ派」もできれば売れたいと思っているし、「金にしたい派」も自分の世界を追求する意識を持っているから単純な図式にして表せるものではないが、それぞれが取るスタンスによって卒業後の活動が大きく変わっていくのである。特に大学卒業から10年ほど経った現在はそういう差が結果として現れ始める年代でもある。そしてそれは時に作風に影響を及ぼしたりもする。セールスの問題は美術だけでなく、例えば音楽のような、その他の創作の世界においても同じことが言えると思う。

 

僕は自分のテーマに向かって考えを深めていく過程を楽しんでいる節があるので、どちらかというと前者の立場を取っている、と思う。前者と後者が二分した構図で語られることが多いのは、「金=対価」という前提があるからで、世の中に価値を提供するか、なんらかの需要に応えた結果として対価が発生するわけだから、売れるものを作るというのは、つまり自分の個人的な欲求よりも他者の価値観を優先するということでもある。美術に限らず、市場の中にあるものは全てそういうルールの中にあるわけだ。

ある程度うまく自分でその塩梅をコントロールしなければ、作品の価値判断は常に世の中に委ねられていることになる。時には誰かが「欲しい」と言う形に作品を歪める必要が出てくるということだ。周りにもそのことで苦しんでいる作家もいるし、僕自身も悩む。これはどっちが良い悪いみたいな問題ではなく、自分がどうやって今後の数年〜数十年を生きていくのかということに直結するし、自分の制作の姿勢やテーマとも結びついてくる問題なのだ。極端な例ではあるが、反体制をうたうような作品をやっているのにめちゃくちゃ権力主義みたいなところで出展したら、言っていることとやっていることが全然乖離していて作品の説得力がなくなるわけで…だから「売れる・売れない問題」は生き方そのものなのである。

…まあ金というものは決して悪者ではない。あればあるに越したことはない。金があった方がいろんなチャレンジができる。めちゃくちゃすごい機材とかを入れて、制作に没頭できるかもしれない。時に誰かを支援したり、新しい表現活動を始めることもできる。僕も結構リアルな年齢になってきたので、金は大事だという考えになっている。夢で飯は食えないからである。コンビニの廃棄弁当とかをもらって食いつなぎ、身を削って作品を作るアーティストもいたりするが…正直僕にはそこまでの根性はない。甘いとか言われるだろうが、それも僕の選択であり、作家人生である。

 

SNS上にいるアーティストというのは、一言で「アーティスト」と言ってもいろんな境遇を持っている。みんな生まれた場所も見てきたものも考えていることも違う。だから当然作るものが違う。作品のかたちはもちろん、やっていることも、やろうとしていることも違う。サッカーとフットサルくらい違ってくる。いや、もしかしたらサッカーと野球くらい違うことすらある。もはや別競技をやっているに等しい。

クラスタ(あるいはコミュニティ?)というのは、ある思考の共通点みたいな似ている部分であったり、メッセージ性やら作品が持っている意味とかを分類して形成される。ギャラリーはそういう仕事をして所属アーティストを選んだりする。だからサッカーのチームに野球選手が入る、みたいなことはあまり見られないように思う。もちろんアーティスト個人個人でいえば、そういう分類やジャンルの違いを超えてコミュニケーションをとることはある(例えば音楽家と画家が、とか)。でも結局人は人を通じて知り合ったり繋がったりするものだから、同じようなものを目指して活動している人同士が強いつながりになっていくことが多い。これは別に芸術に限ったことではない。価値観とその共有がどうやってなされるか、みたいな話である。

ただし、SNSはそういうクラスタを分類しないから、あらゆるアーティストが同列に並んでくる。SNS上でわざわざ思想の違いや活動の仕方まで考慮して作品を見ている人はほとんどいない。理解の深い人とか芸術をよく見る人なら分別が効くだろうが、多くの人がそこで目にする差といえば「フォロワー」という数値のみである。そして大体の場合、そういう数値っぽい価値が優先される。…特に現代では。「フォロワーは戦闘力である」みたいなことを誰かが言っていた気がするが、全くまさに、だ。

そういう状況では作家の中でも”数値”の獲得を目指す人が出てくる。能力主義、エリート思想みたいなものが強くある社会の中ではいかに自分に能力があるか・優れているかを証明するために数値は重要な意味を持つ。いろいろな場合があるが、人に作品を見せて話題を得て展示の機会を得るとか、発言力を持つとか、自由にやりたいことをやるための影響力を得るためにそうするのである。何かを作る・あるいは活動する以上、人の前に出ていきたい、作品を見て欲しいと思うのは正直な気持ちなのだ。

 

概要…というか前置きが非常に長くなったが、そういう作品を広めるため・そういう宣伝を担うサービスやコンペティション(または”アートウォッチャー”と呼ばれるような個人の場合もある)が今、世の中に多数存在している。作家にとっては非常にありがたい話ではある。うまくいけば自分の認知度を上げられるからだ。SNSにおいては特に顕著に見られていて、そういうものをチェックしておくと、今”ノってきている”作家がわかるし、面白そうなアクティビティにも敏感になれるから、多くの人が利用したりフォローしたりすることでプラットフォーム化していくのである。人が集まるメディアは…強い。

僕のような弱小アカウントでも、少し作品の写真を投稿すると「展示しませんか」というDMが来る。まあ正直こういうのは内容はほとんど決まっていて、少し話を聞こうものなら「金を払うなら宣伝してやるよ」ということを、ものすごく耳障りのいい言葉で言われるだけである。アーティストというのは広告的に成功している一握りの人以外は金に余裕なんかないのに、どうしてそこからさらに金を毟ろうと考えるのだろうかと疑問に思ってしまう。広告して作家を支援したい、と言いながら金は取る。アートなんてよくわからないとか誰にでもできそうだとか馬鹿にされてもいたのに、アートの持つ力、みたいなことを急に社会が語り出して、いつからアートがそんなに期待されるようになったのか、違和感すらある。金になるからか?

まあ別にSNSに限った話でもない。今までもいくつもそういうチャンスがあって、何度も期待して打ち合わせに行っては話の途中で落胆し、帰りの電車の窓から流れる街を眺めながら自分の非力さに打ちのめされる。これは誰かが悪いわけではないと思っている。この文章は誰かを糾弾したくて書いているわけではないということも分かっていただきたい。あえて言うなら強くて価値のある作品を作れない自分が悪い。あと、こういう世界で勝負すると決めたんなら、いちいち文句を言わないことである。フェアじゃないから。「作家は社会の底辺である」とは村上隆氏の言葉だ。

 

もちろん世の中そういう人ばかりではなくて、正しく芸術の価値を見ている人がいるし、公平に作家の立場を守ってくれる人もいる。作家1人が尋常でない頑張りをして世の中に作品を浸透させることは、はっきり言って難しい。だから役割と協力なのだと思う。そしてその協力がちゃんと得られる世界はある…出すところさえ間違えなければ。

でもSNSは僕が言うところの「世界」ではない。作品を利用して数値を稼ぎ、個人的な承認を得ようとする人間は山のようにいる。何度も言うがそれが悪いとか許せないとか、弱っちい告発のつもりはない。SNSの仕組みからいえば作品がそういうふうに扱われていくであろうことは自明である。リテラシーの問題がどうとか言っても、それを観る側に求めるには限界がある。どうしたって考え方の違う人間はいるわけで、それをいちいち指摘して正すみたいな義理はないし、正義感だけでそれに付き合う体力もない。

作品が金にしか見えず、他人の創作物の無断転載で承認欲求を満たし、無償で働かせ発想だけ頂こうとしたり、足下と評価を見て対応を変える…こういう人間たちが芸術に飛びついてきて、なにか言葉で言い知れないものを踏み荒らしていく。そんな印象を持っている。

 

僕は一度だけSNSで作品が拡散された。僕ではない、誰か他の人が投稿した僕の作品の写真が、である。僕の名前は特に投稿に書かれなかった。回り回って僕の作品が急に僕のタイムラインに表示された。僕も一度は、その数字と拡散力を見て、少しだけ浮かれてしまった。広告してくれてありがとうございます、と思った。その人のアカウントに飛んだら、アート界隈にいるらしい人だったから、能天気に「評価してくれる人いるんだ」とかを思った。別に写真撮影が禁止だったわけではないし、「紹介や広告の意味で作家の名前を一緒に投稿しましょう」みたいなルールがあるわけでもない。その人は別に悪いことをしたわけではない。

…でも、なんなんだこれは?と後になって思った。その投稿を見た人はただ「なんだかよくわからない変なもの」に、なんとなくハートを押して、夕方のニュースを見るような感覚で流して…多分忘れたと思う。当然僕になんの反響もあるはずもない。自分でもよくわからないまま、軽い気持ちでそれを許して、安い感情に委ねてしまった。作品を叩き売りしてしまったような気持ちだけが残った。なんであんなことをしてしまったのだろうか。どうして自分の作品を自分の手元に引き寄せようとしなかったのだろうか。どうして自分の作品が勝手な切り取られ方をするのを許してしまったんだろうか。確かその人に「紹介ありがとうございます」的なDMを送った気さえする。馬鹿。何やってんだよ。僕は自分で自分の感情を粗末にしたのだった。最悪な気分になった。

僕でさえいろんな人に会った。今最前線で活動している作家の人はもっとそういう経験をして、悔しい気持ちを堪えながら制作したりしているのかもしれない。踏み荒らされるのは作品ではなく、作り手の心と感情である。なにかを世の中に生み出しているんだから作家は偉い、とか言いたくないが、利用されたくはないし、騙されるのも嫌だ。二度とこんな気持ちになりたくないと思った。

SNSをやるようになってから、作品でなにをやるかより、作品をどうやって管理していくかを悩むことが増えた。いや、まあ確かにそれも大事なことではあるんだが、なんか

 

 

療養と、お見舞い

 

 

そういえば最近書いてないなーくらいに思っていたら、前回書いた文章の日付を見て自分でも驚いた。

この間何をしていたのかといえば、前回の”鉛飯”の文を書いた直後に力尽き、完全な鬱期に入っていた。自分が鬱を自覚してから今までにないくらいの結構な波がきたもので、布団からずっと出られないような状態が続いていた。なにをするのも面倒になってしまい、人の誘いも全部断り、仕事も休んだ。こうなったらもうどうにも無理である。自身の行動も簡略化されてしまう。複雑なタスクは不可。一日が基本1ターンのみの行動になり、読書はおろか考え事自体もできなくなる。

 

今回、特に「鬱期に未来のことを全く考えられなくなる」という新しい発見があった。どうしたいかとか、今後何がやりたいかという”将来目指すもの”の想像が全くできず、「食べたいか」「寝たいか」みたいなクソデカ欲求のことしか考えられなくなってしまい、希望の射程距離がめちゃくちゃ狭くなっているのを感じた。巷でよくいうキャリアプランだの人生設計だのという言葉が、いかに精神が健康であるという前提に基づいて語られるのかよく分かった。生活に希望が持てなければ、今の自分から未来へ繋がっていくような時間感覚に実感が持てないということも分かった。こういう状態にある人に「何かやりたいこと探して人生充実させなよ」みたいなことを言うこととかも、根本的に間違っているんじゃないかと思ったりもした。

こうなってくると、せいぜい「飯を食って寝る」くらいしかできることがないので、いっそのことせめて好きなものを食い、好きな時に寝てみよう…と思った。考えてみれば30年生きてきて、こんなことは過去に一度もできなかったことである。幼少期とか誰かの保護下にある時は好きなタイミングで寝られはするかもしれないが、自我がないため食事は与えられるものを食べているわけだし、好きなものを選んで食べられるようになる頃には時間を管理されているから好きな時に寝られない。社会というのは縛りが多いから、逆に考えれば今の自分の状態は貴重な時間なんじゃないか。とりあえずこの時ばかりは、いっそ自分の好きなように生きてみることにした。

まず、朝起きる。太陽の光を浴びろと医者が言うので、カーテンを開けて空を眺める。30分くらい眺める。ここで「めんどくさい」と思ったらカーテンを閉めてもう一回寝る。もし「気持ちよさそうだな」と思ったら布団から出て、着替えるルールとした。近所に散歩に行くのだ。朝ご飯にベーコンエッグ的なものを作って食う。めんどくさかったらコンビニかなんかでおにぎりとかを買ってもいい。道中、川を眺めたりする。公園に行ってベンチに座って、さっき買ったおにぎりを食いながら、きゃあきゃあ遊ぶ子供たちをぼーっと見る。できるだけ爽やかな曲をイヤホンで聴く。日差しで暖をとりながらベンチに横になってみる。たまに、子供が取り損ねたボールが足元に転がってきたりするので、拾ってやる。だんだんベンチにかける尻が底冷えして寒くなってくるので、大体2時間くらい…座ったりうろうろしたり、入ったことのない路地を散歩しながら家に戻る。そしたらちょうど昼くらいの時間になるので、どこかでついでに昼ごはんを買って帰る。こういう感じの生活をした。

 

鬱の気が強いときに大事なのはまずは生命維持である。どんなでもいいから、とにかく飯を食って寝る。炊き立ての米だけはいつでもうまいから、米だけは頑張って炊く。頑張って納豆か卵を食っておけばいい。鬱生活で大切なのは、自分の生活に対して”遅れをとっている”という強迫的な感覚をなんとか切り離すことだ。現代の衛生環境では、たまった書類・洗濯物・食器や、汚い部屋や汚れた服などの原因で人間が死ぬことはない。でも、生活が全然うまくいかないことへの自責…「自分はなんてダメな人間なんだ」という気持ちは、人の心を結構簡単に追い詰めてしまう。それはなにか観念的な「まとも」と、自分自身とのすり合わせによって起こる、自分に対する理想みたいなものである。

自分がこうなりたいという気持ちは生きる上で結構大事な活力になるものだが、いざ自分にどうなりたいかと問うてみると意外とパッと思いつかない。確かにまあ、寿司を食って最高になりたい、とかはいつも思う(ウマイので)が、ショーペンハウエルが「欲望自体を欲することはできない」的なことを言っていたように、「なにかしたい」とか「これがやりたい」とかいうものは心の中から能動的に湧き出てこないと意欲にならず、なかなか腰が上がらないものである。

 

欲望は基本的には自己完結できない。自分で思いついて実行するというよりかは、誰かから与えられるものである。成功したいというのも誰かのことを見たから自分もそうなりたいとか、憧れや尊敬などによって誰かにそう思わされている、と言える。だからこそ僕は芸術に偉さを感じたのであり、先人たちのようになりたいと思ったのである。

しかし自分の生活が立ちいかなくなって欲望のレベルが下がると大体のことがどうでも良くなる。自分がやりたいこと…やっぱり特にない。非常に恵まれているのである。活力が失せても生活に不自由がない。だから何もする気が起きない。なにか自分の心に火をつける必要がある。今回の療養はそれらを一度振り返るいい機会になったんじゃないかと思う。最近やたらと「なぜ作りたいのか」「何を目指すのか」なんて一生懸命に考えてしまっていた時点で、制作することに理由が必要になっていたわけである。まあ相当に厳しい状態だったんだということにやっと気がついた。

これは結構落とし穴だったと思っていて、僕にとって長らく制作というのは自分のアイデンティティだったから、それを失うことが結構怖かった感じもあると思う。だからしがみついていた。制作をやめたら自分になにか残るんだろうか。結構そういうことを考えたりもする。でも、別に制作をやめたとしても自分でなくなるわけではないというか…生きてりゃいいか、と、少しだけそういうふうに思えるようになったりした。多少暇になったおかげで、またなにか始められるかもしれない。それでこうやって文章を書いているわけだし。

 

この療養期間中、足繁くカウンセリングに通ったおかげで、自分の考え方のクセを知ることもできたりした。無意識のうちに、なにかを社会に還元できないなら生きている意味がない、と自分自身に強く思っている節があった。でもそれは考え方を変えれば、自分の意図しないところで「役に立たないなら存在してはいけない」みたいな思想に育つ危険性があるというか、結構ナチュラルにヤバイことを考えていたのでは、と気づいて怖くなった。そのくせ愛がどうだみたいなことはしっかり語るので、脳内が矛盾しまくっている。そういう自己評価の低い自分のことをずっと肯定したかったが、なかなか自分を許せなかったから、そういう言葉が出ていたのかもしれない。

世の中的に「作家というのは狂気をはらんでいるものだ」とか勝手に言われるが、実際精神不安を抱えている人はいるし、自分の周りにも鬱っぽさを抱えながら作品を作っている人が多いので、多分そういうもんなんだろうというか…自分の内側を覗こうとする時、そういう心に蓋をしていた闇の部分が出てきてしまうみたいなことはやっぱりあり得るんだろうなあと思う。でも、自分にはそういう狂気を持ったまま作品を作るっていうことはどうしてもできなかった。弱さを持ったままなにかを語るっていうことも難しくなってしまったし、したくなかった。自分の弱さを棚に上げて目を背けて、光なんか見えるはずがないとも思った。だから何かを語るなら、まずこうやって心の治療をするべきだと思ったのである。一回立ち止まって考え直す必要があったのである。僕にはそれが必要だったのだ。

 

鬱期になる周期がだんだん自分でわかってきて、それより前にやりとりをしていた人たちに予告していたりしたのもあって、落ち込んでいる間にメッセージをもらったりしてすごくありがたかった。「頑張れ」とかじゃなくて「元気になったら飲みに行こう」みたいなそういう言葉のおかげで、少し先に楽しみが持てた。

自分はもうこういう鬱の人間で、一度脳に”鬱回路”ができるともう治るものじゃないから、うまく付き合ってやっていくしかないのだ。それは開き直りの感情じゃない。別に人生に絶望して死にたかったから鬱やったわけではなくて、たまにそういうような誰かの言葉に非常に救われた経験があるから、言葉の持つ力をすごく信じているんだと思う。表現手法として言葉を信頼しているから、だからこうやって文章を書きたいと思ったのかもしれない。

…まあそんなことを思いながら朝に散歩していたときのことである。よく行っていた公園が丘の上にあったので、緩やかながら結構長い坂を登っていると、前から小さい女の子がぼよんぼよんと走ってきて、目が合うとにっこり笑って「あそぼ〜」と僕に言った。手にはなんかお花を持っていた。その後ろをゆっくりついてきたお母さんと目があって、会釈して、女の子に手をふった。

2人と別れた後、僕はなんだか嬉しくて少し泣いた。まあ、こんな簡単なことで、人は救われるのであった。

 

 

「鉛のような飯」を食ったことがあるか

 

 

喉を通らず、味もしないような気の重い食事をとることを、夏目漱石が「こころ」の中でそう表現した。初めて聞いたとき、こういう気分のことをこんなにも端的に言い表すことができるものか、といたく感動した覚えがある。鉛なんか食ったことなくとも、どういう心境なのか容易に共感する。言葉で表現することの真髄をみる気がするのである。

何か心配ごとがあるとか、誰かとけんかしたとか…怒られたとか、そういうとき食事の、特に白米が、なんとも硬く重く飲み込めない”塊”になって、ずっと口の中に居座り続ける。最悪な食事をとった日は、お茶でなんとか喉に流し込んで早く部屋に戻り、布団の上に丸まって壁を見つめるしかなく…僕はもう、数え切れないほど「鉛のような飯」を食った。

 

僕の育った家はとても厳しかった。父も母も、一生懸命に姉と僕を「ちゃんとした」人間に育てようとしていたと思う。心療内科に通い、月に数回のペースでカウンセリングを受け、心理士に自分のことを話すうちに昔のことを思い出し、今、必死になってそれと向き合うはめになっている。

このブログにはできるだけ自分の正直な気持ちを書いて、脚色せず、格好もつけず、素直な実感を大切にして文章に残そうとしている…つもりである。でも昔の…特にそのことだけ書けない。別に「こんなにきつい経験をしてきました」という自慢みたいなつもりもなく(そんな趣味の悪い自慢をしても意味がない)、それよりも、文章にする作業によって自分がそういう厳しい時期を送ってきたことを肯定すること、それをもう一度頭の中で体感しなければならないことが…怖い。去年あたり、なんかそんなような内容の文章を書いた気がするが、結局、現在の自分も”あの時”と同じようにずっと震えたままだったのだ。

 

数年前、母親が実の娘を医学部に進学させようと何年も教育虐待をし、娘が耐えられなくなり母親を惨殺するという事件があった。鬱がひどい時にたまたま立ち寄った本屋でその事件を取材した本を見つけ、何気なく手に取り、読み始めた。事件の概要や獄中の娘とのやり取りも含む凄惨な内容に読む手が止まらず、300ページ弱をものの数時間で読み終えてしまった(ちゃんと買った)。本の途中、自分の記憶がフラッシュバックし、どうしようもなく切なく苦しい内容に涙が止まらなくなった。

教育というのは難しい。僕は人の親ではないが、同級生に子供ができはじめSNSでいろいろな投稿を見ていると、純粋にかわいいと思う気持ちや尊敬、おめでとうという感情が混ざり合ってなんとも言えない感情になる。自分に子供ができたとして、今の自分のような気持ちにさせない自信がない。歳を取るごとに、やっぱり自分も親に似てきている気がするのだ。

自分の心の治療の足しになればと、時々心理学や精神医学系の本を読んでみると、教育や育った環境がいかに人格形成に意味を持っている(とされている)のかがわかる。SNSを少し見れば「メンタルコーチ」と名乗る人が自己肯定感やら親の愛情がどうとかで、幼少期の記憶と向き合うことをしきりに発信している。そういう人が多いということは、そういう悩みを持った人もまた多いということだろう。特に自己肯定感という言葉はここ数年で一気に認知されるようになった気がする。口を開けば自己肯定感、である。”自己”肯定感を高めるのに、人からの肯定や承認が必要だというのは理屈がどこかあっていない気もするが…まあそういうものらしい。自信というのはある種の催眠のようなものなんだろうか。

親と良い距離感で尊重されて育ってきた人はちゃんと他の人のことを尊重できる。そういう人は人から好かれて愛される。まあ社会からも必要とされそうである。教育によってよい人格が形成され、笑顔で明るく肯定的な性格になるというなら、その親もまた、その親からそういうふうに接されてきたということだろうか。鳥は飛び方を親に教わるというが、飛び方を知らない個体はきっと子供にも飛び方を教えられない。…おいおい。だとしたら僕はこの歳まで育っちゃってるのだが、もう飛べないとでもいうのだろうか。

 

たまに歳上の人と食事をすると「自分たちの世代は”そういう”教育が当たり前だった」というようなことを耳にする。自分の親世代は、そのまた親世代から”もっと”厳しくいろいろなことをされた、ということも聞く。怒鳴られたりなんて当たり前。竹刀で殴られて食事を抜かれる。上司や先輩から叱責・罵倒されても、食らいつく覚悟で仕事に向かうものだ…そういうことを年配の芸能人なんかがテレビで話している。
…しかし、そう言われたからといって「そうか、これが当たり前なら自分たちも耐えなきゃいけないな」とは...どうにもなれないのである。現代では生きづらさや対人関係に悩みを抱えている人の声が多く散見されるが、仮に自分たちの世代が特に心が弱く「理不尽に適応できなくなっている」のだとしても、心や実感はついてこない。ひとえには状況が違う。「厳しくも愛があった」というのは振り返りで、あとから理解した理性的な感想である。それを正当化しなければならなかった理由があったというのもまた事実だと思う…しかし、これは言ってみれば負の連鎖ではないのか。人から受けた理不尽は、確実に後の世代に返っている。

これは僕の知識の点をつないで描いた想像でしかないが、非常事態に個人的な幸福の追求や尊重は果たしてどこまでありえたのだろうか、と考えることがある。例えば戦争である。世界大戦、そしてその敗北、「お国のために」という大義がどれほど大きな意味を持っていただろうか。そしてその後の焼け野原からの再興、社会が変わらざるを得なかった”超スピード”に、人の心は追いついていけなかったのではないか、という気がしている。

近代以降の社会は「富の最大化」を目指して成長を続けてきた。たくさん食料があれば、物資があれば、製品があれば…そしてその供給がされるならば、多くの人の生活が確保される。細かいことはおいておいて、その辺で野垂れ死ぬ人が減る。多くの人が幸せになれる。使えるものはできるだけ共有して苦しむ人が減るようにしよう。そういうハッピーな世界を目指していたはずだ。しかし…どうだろう。最大化されたはずの富は分配の問題を抱える。階級や身分の差はなくなってきつつあるが、今度は能力による差が生まれている。

より多くの評価や収入を求めて、できるだけ優秀になるために日夜プレッシャーを感じながら人は自己実現に向かう。頑張ってやれる人ならまだいい。いきいきと前向きに努力を続けられる人ならそれでもいい。しかしできない人はどうなる?努力を強制されて、精神的脱落者に受け皿はない。「ああしろこうしろ」「頑張れ」「ちゃんとやれ」と無意識化に言われ続ける。現実は否定され続けもう見たくもない。娯楽、推し活、性…苦しみから逃れるために心理的な麻薬が必要である。これが生きづらさでないならなんなんだろう。

 

「自分は行動している」という自信、あるいは乗り越えたものの発表会で今日も世界は大いに賑わっている。自分のことを語りたいのだ。そういう欲求はとてもよくわかる。負った傷をどのように治癒させたのかを見せ合っている。僕が好きだった芸術にもそういう側面があったと思う。治療法を公開することで、違う誰かが救われるかもしれない。未来に向けた祈りだ。なんて素敵な世界だろう!でも本当に、その大義は「誰かのため」なのか?誰かを救いたくてやっていることなのか?それとも、どんなに苦しんだか聞いて欲しいだけなのか?

その経験は誰かを救うのだろうか。人を痛めつけ、痛めつけられた記憶は、自分たちだけのものではないと思う。その後何年も残り続ける。寝て明日になったら忘れる…はずがない。傷は残る。治っても跡が残る。一生消えない。…消えないのだ。

 

今更過去のことに対して、なにかを恨むつもりはない。だけど…納得もできないのである。自分の中に矛盾がある。それは僕が悪いわけではないけど、間違いなく僕が責任を持って向き合わなければならない問題であると思う。

こんな状態で作品を作るなんてそれこそ嘘である。悩みながらも、やれそうなことをやって飯が食えたとして、なにが残る?毎日なんの感慨もない生活をしているが、中途半端なことを選ばなかったのは本当に良かった。本当の表現は心の傷の治療の先にしかない。

体験を還元するなんてそんなおこがましい話じゃない。生きるに値するということを、過去にわずかでも感じさせてくれたこの世界のことを、僕は肯定したい。というかせざるを得ない。生きてきてしまったからである。その一点だけが、僕を辞めかけている制作にギリギリでつなぎとめている。僕が受けた傷の連鎖は、僕の代で止める。なにか作る能力が僕にまだあるとしたら、そのときの大義はこれしかないだろう。飯はうまい方がいいに決まってるから。

 

 

疲れたら、少し

 

 

昨年末に仕事納めをした直後に風邪をひき、寝込んでしまった。年が明けてから”まだ咳しかしていない”ような状況で、自分だけ2023年に取り残されている感覚でいる。

去年は厳しい一年だった。春ごろに精神をおかしくして心療内科に通い始めた。完全に作品を作る気が失せて、身体が痛んだり動かなくなったりもした。他の記事でもたびたび書いたことではあるが、大学を卒業してから「何かをやってやるんだ」という、数年前まで自分を突き動かして心の中を熱くしていたものが燃え尽き息切れし、いろいろなことを諦めかけてしまっている。
そんな気分になるのも仕方ないことなんじゃないかとも思う。だって空気が重い。足も手も上がらない。暗いニュースばかりで、なんとなく毎日に閉塞感があって先細りだ。状況を打破するような輝きや希望も見えない。芸術は寄り添ってはくれるが、本当に厳しい時に命までは救ってはくれない。そんなすごい力、無い。…無いと思う。

 

年明け直後から暗いニュースが続いているが、誰かの無事を祈れるほど万全ではない。というか、祈ったところで何もできない。某SNSに「千羽鶴を被災地に送るのはやめて」という、過去に被災経験を持った人の投稿があり、これがなかなかの共感と知見を生んだような反応があったのを見た。この場合「祈りが通じる」というのはつまり、現場での決死の他の誰かの仕事を自分の手柄に変えてしまうかのような話にも聞こえて違和感がある。リアルな話をすれば、無事な人が1人増えるというのは誰かの祈りといった神通力的なもののおかげではなく、現場で救助に当たった人の懸命な作業の結果であるはずだ。僕ができることといえば、ただ日常を変わらず過ごすこと、もしくは万全な装備をして実際に現場に参加すること。それができなければせめて救助作業や情報伝達に迷惑をかけないように振る舞うこと。それから寄付である。

(※追記 ちなみに1/6現在、石川県では個人のボランティア参加、支援物資の受け入れは態勢が整わないため行っていないようです)

 

10代の頃から自分が心に持っていた、こういう祈りの類か神通力にも似た(似てると思っていた)芸術の力みたいなものとか価値が崩れたことは、去年一番すごい変化だったと思う。ついにずっと見ていた長い夢から完全に覚めてしまった。疲れた時、悲しい時、辛い時に音楽を聴いて溜飲を下げ、胸を熱くし、作品を見たりして優しい気持ちになったり、愛のある世界のことを想像して少しだけ「世界が明るく見える」のだ、みたいなことではもう解決できない、リアルで差し迫った問題がいくつも目の前にぶら下がっている。…お前、まず仕事どうするんだよ…お金は?これからどうやって生きていくつもりだ?…まあ今はいいが、肉体労働だっていつまでできるのか…

「まあなんとかなるっしょ」と思えることは才能だと思う。大体はなんとかならない。なんとかするからなんとかなっているのであって、今その「やる気」が出ないから問題なのである。悩んでいる人を励まそうと色々言っている人はそこら中にいるが、「頑張れ」「やればできる」「毎日少しでもいいから動こう」などという言葉を見るたび、根本的に間違えていると思う。そもそも闘う気がないのだ。…いやそれ以前に、闘うって何?何と闘うつもり?誰と?…どうすればいいんですか?

何か思い立ち、行動した人に限って「あなたにもできる」と言う。「やらないからだめなんだよ」とも言う。やるって何?いや、そりゃあなたはそうだったんでしょうけど。いまいち言葉に説得力を感じない。人を励ましたり、元気づけるようなふりをして、自分に足りない何かを人から奪うために表現しているんじゃないか?と思わせるような人間もいる。

芸術人類学者の中島智氏は、こういった世の処世訓的な「こうすれば良い」みたいな言説が多く出回るのには、その発言者が「何に向き合い、何を克服したのか」ということを我々が正しく拾えないことによるディスコミュニケーションなのでは、というような考察をしていた。雑な引用をしてしまったが、つまるところ彼らは自分が得たもの、その努力を自分で説明し肯定を目指して発言している、ということのようである。言葉の説得力のなさがどうやらここにある気がする。人を励ます・元気づけるわけではなく、自分のことを語るためにアドバイスというテイをとっているのである。あなたにもできる、の裏には「まあ私はできましたけど」が、やらないからだめなんだ、の裏には「俺はやったけどね」という言葉が隠されているというわけである。

鋭い指摘のような気がしてしまう。仮に心の奥にあるそういったメッセージが明らかにされたとしても、いや急に言われても…こっちもそれなりに頑張っているんですけど…”褒めろ”ってこと?という気持ちになって噛み合わない。世の中には本音と建前というものもある。そう単純なことでもない。

で、昨年の末に、さすがに一文くらい挨拶を書いて年を締めくくろう、とかを一応思ったが、取り立てて書きたいこともなかったのでやめた。人に何か伝えるには相応のエネルギーがいるのである。労力もいる。心の中に「熱」が必要である。そういうものがないまま温度の低い生焼けみたいな表現をしても何も残らない。ちゃんと中まで火を通すか、表面だけでもじっくり焼くべきである。そうじゃないと「生焼けだぞ」とか言われて、キッチンに戻って焼き直すことになるのだ。

 

祈りが無駄だとは思わないが、自分の命の火も揺らいだりしているような人間に誰かを想い、無事を祈るようなエネルギーはない。そういうことを無理やりやっていると骨と皮だけになる。身を削るのは結構だが救われるべきはお前、である。そんな人間に心配されても困る。単なる自分の無気力を大きなものへの無力さへとすり替えてはいけない。メンタルを治す。これは今年の目標。

人のことを支えたり励ましたりできるような人間でいたい、と思って長いこと生きてきたつもりなのだが、僕はとんだ勘違いをしていたようである。できる人とできない人がいるのだ。かっこつけてもしかたない。息切れしながら全然大丈夫、と言おうとするのをやめよう。もういいから、一回給水所とか行って、パイプ椅子にでもかけて、靴ひもをほどいてみたらどうだろう。

頑張ることに疲れたら、もう何もかもやめたらいいよ。