遊べなくなっちゃった

 

 

冬の空は異様に晴れていて、Photoshopを使って建物にマスクをかけて、ベタで塗りつぶししたみたいな青をしていた。雲の量が空全体の1割以下なら「快晴」という。気象庁がそうやって定義している。空ってこんなに青かったっけ、と思いながら公園に向かう。小学生の頃遊んでいた、僕にとっては思い出の公園である。

 

その公園は神社の脇にあって、学校で嫌なことがあったり親にひどく怒られたりしたとき、お賽銭を握り締めて小さな鳥居をくぐり、柏手をうって「守ってください」と神様にお願いをするのが習慣になっていた。雨の吹き曝しで本殿が灰色に変色しているくらい古い神社だったけど、境内に入ると優しく見守られているような気がして安心できた。神社の脇には底が見えないくらい濁った池があって、カメや鯉がゆらゆら泳いでいて、僕はその公園が大好きだった。

「先生さようn…」のあたりで帰りのホームルームを飛び出すと、背負った教科書をガタガタ言わせながら走り、家に着けばランドセルだけ自分の部屋に投げこんで、間髪入れない「行ってきます」で自転車を左右に揺らし、ペダルに渾身の力を込めるのだ。

別に約束しなくても友達が次々集まってきて、その場の思いつきでいろんな遊びをした。不思議と他の小学校の奴や、同じ小学校でも他のクラスの子たちはいなかった(縄張りみたいなものがあったのかもしれない)。

公園の植え込みの陰にホームレスのおじさんが暮らしていた。たまたまボールが飛んでいってしまった成り行きで、みんなで一緒にサッカーをしたことがある。知らない人にいきなり大声で怒鳴られたこともあった。たまに変な雑誌なんかが落ちていて、それを友達と木の棒でつつき合って騒いだりもした。多くの人が少年時代に経験するであろうことは、僕にとってはほとんどがその公園の中で起こった。

中学生になると部活に塾へと通い始めてほとんど行くことはなくなってしまったけど、僕らはそこで毎日を過ごしていた。


その公園には、立派なクスの木が生えていた。クスの木は登るのが難しい。よじ登ろうにも子供の腕では幹を抱えきれず、足を掛ければ簡単に樹皮が剥がれて滑り落ちてしまう。一度火がつくとどうしても登りたくなって躍起になるのだが、当時の背丈だと一番低い枝には届かず、どう頑張ったって指はかすりもしなかった。

ある日公園に着くと、いるはずの友達がいなかった。自転車は停まっているのに姿が見えなくて、名前を呼んだら木の上から返事が返ってきた。見上げるとさわがしやかな葉と枝の中に彼がいた。「三角飛びをして枝を掴む方法」を編み出したんだ、と鼻を膨らませる彼を真似て、遅れて到着してきたみんなも次々に練習しはじめ、自分も日を跨いだ何度かの挑戦で、やっと登ることができたのだった。

 

…就職して少し経って、自立に疲れはじめた頃、実家の新しい家電を見に帰ったついでにそんな昔のことを思い出して、その公園をなんとなく覗いてみた。

公園の遊具は30年前後で老朽化してしまうみたいな話を誰かに聞いた。砂場と鉄棒しかない公園はまるで歳をとったみたいだった。滑り台もブランコも、回転するあれもアスレチックもきれいに取り壊されて、見渡すほどに僕の知ってる公園ではなくなっていた。当時はいつも子供たちが走り回っていたけど、誰もいない。遊具を新設するほど子供が遊ばなくなっているのか、それともこのあたりの子はもうみんな大人になってしまったのだろうか。

あのクスの木は生えていた。まだあるんだ。そりゃそうか、と思いながらも少し安心する。公園の中の何本かは当時から既に幹が腐っていたり、台風で折れたりしたのがあって、そういうのはしっかり切り株になっていた。あの頃からもう15年近く経っているのだ。

旧友に会うかのように、公園が自分のことを覚えているかどうか一歩一歩確かめながら、過ぎた時間を埋めるようにあの木に向かう。なんだか痩せたね、と懐かしんで少し笑う。一部、皮が剥げた箇所を見つける。みんなここを蹴っていたんだよな。その痕が少し痛々しくて、子供の無邪気な好奇心を申し訳なく思った。

 

見上げると目の前に、細い枝がある。こんなところに新芽…というか新枝が出ている。僕がいない間、この木も成長したのかもしれない。僕だって、身長があの頃から40センチ近く伸びている。

木の前に立って、試しに助走をつけようとして、あの頃どの枝を掴んでいたか分からなくなった。蹴っていたのは間違いなくあの痕のところだから、飛んで掴むとしたら…まさか。

こんな頼りない枝では折れそうだと思った。でも、手を伸ばして「それ」に触れてみた瞬間、少年たちの全体重と有り余る元気の飛び蹴りを受け止めて、上に引き上げてくれたときの感触が蘇った。ちゃんと身体は覚えていた。僕はもうそれを知っていた。

 

幹にかかった片足を降ろして、少しの間、軋む指で記憶を確かめて、そっと離す。…そうか。もう大人か。こんなに簡単に届くようになったんだ。なんとなくベンチに座って頬を揉んだ。一日中くたくたになるまで遊んで帰ったあの日と同じ、こもるような木のにおいがした。

 

 

春が来た

 

 

書きたいことがいくつかあったけど、陽が短いことを理由についさぼっているうちに、気づいたら4月である。身体を這ってきた寒さもいくらか良心的になって、窓の外が散歩に誘ってくることが増えた。

新しい仕事を始めた。時間にも金銭的にも余裕ができた。机の上に残したいくつかのやりかけの作業と、描き始めた新しいアイデアのスケッチ。今日の頑張りを素直に認め、明日はここに行ってあれをしてと想像すると、睡眠薬を飲む必要もない充実感で布団に入ることができる。

春は世界が明るい。これは僕が鬱の時に欲しかった希望に似ている。草木が芽吹いて、小さな虫たちが活動を始めるのもわかる。「蠢く」という字を見たら尚更納得である。春の下に虫が2匹もいる。片方は僕のことだろう。

 

いくらか体調も良くなったが、僕はこの数年間で傷だらけになってしまった。「生きてきたんだよな」とも思うし、「もう少し器用にできなかったか」とも思う。傷は負ってしまうものだ。それは仕方ない。でも、傷があったら生きてきたことになるのかと考えるとそういうわけでもないと思う。誰しも振り返って自己肯定するために傷つくわけではない。傷ついたからといって人間的に成長できるとも限らない。

生きるとは傷を刻みつけること…と僕に芸術を教えてくれた先生は言ったけど、それは「生きるためには傷つく”必要がある”」みたいな意味ではなかったと思う。だから心の中で肯定と否定を繰り返す。どうすればよかったのかなんて今更分からない。分からなくていいとも思っている。ただ、悩んで考えている時が一番、自分が自分のことを人間らしいと思える。そういう性分なんだろう。

 

GRAPEVINEというバンドに「風待ち」という曲がある。どうしようもなく気分が落ち込む時によく聴いていた。GRAPEVINEは絶対に「頑張れ」みたいなことを言わないから好きだった。どうにもならない過去、時間の無情、上手くいかない現実を歌っていて好きだ。歌詞も「◯◯かなあ」とか「言えないこともない」とか「たぶん」とか言うので好きだ。

はっきりできたらどれだけいいだろうとは思うけど、人生がそんなに白黒付けられることばかりじゃないのもなんとなく経験して、言い切ってしまえるほど「そう」じゃないことがたまに起こるのも分かっている。アンケートでは大体「どちらともいえない」を選ぶ。自信の有無とか地力があるなしみたいな話じゃない。誠実で正直なんだと思う。

この曖昧さがなんとも日本人っぽくて、だからこそ僕らにとって絶対にそうである、確信のあることだけが断定できて、強い気持ちを感じるから好きなのだ。人に好きな音楽を訊ねて、GRAPEVINEが好きですとはっきり答える人にまだ会ったことがないのが逆にリアルである。

 

鬱で気持ちが曇っていると、誰かの声なんてほとんど届かない。そのとき一瞬の感情しか解らなくなって、想像力の射程が短くなる。よくある自己啓発の「将来どうなっていたいから今これを頑張る」とか、キャリアや転職がどうとか、語学学習がとか、フィットネスだ筋トレだみたいな「今始めよう」的な、将来を見据えた逆算行動なんてなんの価値も持たなくなる。輝ける自分の姿なんて夢ばかりか、明日出かけるんだから風呂に入ろうとか、そのうちお腹がすくから食べ物を買っておこうとか、そういう一寸先の未来の想像力すらも持てない。以前は当たり前にできていたことだから残念で、今、身体が動かないことが問題で、どうせ明日もそうなので、未来が無意味だと思えてしまうのかもしれない。

こんな時、いくら励まされたって自分で自分の動かし方が分からないのだから無駄である。当人がこれからしたいことすらも分からないのに、明日がいかに楽しみなのか語られても困るだけである。

人を支え、励まして…というのは道徳的で、とても善いことだろう。できれば自分も誰かにそうありたい。でも、医者の仕事は症状を聞いて投薬することで、心理士は話を聞いて受け止めてくれるだけで、それと向き合っていくのは本人にしかできないから、残念ながら他人ができることはないのだと思う。

たとえ曇り空でも、分厚い雲の上空に昇ればいつも太陽が輝いているように、世界にはどんな時でもいつも希望がたくさんあるのに、それが届かなくなってしまうことが一番辛い。世の中に生み出されたものが、どれほど素晴らしく、同時にいかに無力なのか思い知らされる。音楽、美術、映画をはじめ、親しい人の言葉、励まし、優しさ…そのメッセージや熱は、それを受け取ろうとする元気にも依存している。バッテリーが干上がってエンジンがかからない車みたいなもので、元気な曲を聴いても元気になれるわけではない。人間の心にも端子がついていて、ジャンプスターターで直接元気を分けてもらえたらよかったのだ。

 

「陽の光は希望」みたいな例えも表現も世の中にたくさんありすぎるからつまらないと思いながら、確かに太陽の光は大事だとも思った。太陽光を浴びるとセロトニンが分泌されて鬱に良いというのは科学的に正しいと言われている知見だ。僕も病院で何度も言われた。僕たちが普段口にしている食べ物も、みんな太陽エネルギーによって生きている。太陽がなかったら地表は凍りついてしまって真っ暗の世界になるらしい。そうなったら星はきれいに見えそうだけど、星を見る前に自分が星になってしまう。

曇りのままでも生きられないものかと思ったが僕には無理そうだ。曇りの日の楽しみ方を知らない。重く重なった雲に穴を開けようと思って空を睨むのだが全く無駄なのだ。そういう時に限って雨までパラついてくる。どうせなら太陽を拝んでいたいとは思いながらも、そう都合よくいかないのもご愛嬌である。もうさすがに慣れた。

 

…鬱のひどい時に葉書が届いた。先生からだった。大学を退任してからは山に籠もって自分の制作に集中しているらしい。展覧会の案内だった。

当時は怖くて、何を主張しても言葉で叩き潰されるので(それくらい僕にとっては影響が強かった)、講評以外でまともに話したことはなかったけど、卒業してから幾らか時間が過ぎて作品のことや自分のことなどを話すことができた。どうにも苦しくて、自分の今の悩みや制作について昔みたいに救いが欲しくなってしまったから、今度手紙を書きたいと言って連絡先を聞いた。何度か便箋に想いを綴ってみたものの「くだらない」と言われる気がして、ついに送れなかった。

このまま放置はさすがに失礼かと思って、ほんの先日、勇気を出してメールを書いた。久しぶりにお話したい旨を短くまとめて送信ボタンを押したら、数日後に丁寧な文体で返信があった。暖かくなったらお会いしましょう、と締め括られていた。春を待つなんて新芽か虫みたいな人だな、と思って少し笑った。今度、アトリエにお邪魔しようと思っている。

 

人間は躁と鬱の波を繰り返して生きているものだ、と先生からのメールにあった。ふと思い返して、自分が物心ついた時から今までの自分の簡単な年表をノートに書き出してみた。面白いことに、僕の記憶の中では調子のいい時と悪い時が見事にはっきりと、数年おきに交互に巡ってきていたのが分かった。

良いことも悪いことも、ずっとは続かない。いつかは転換する時期が来る。今、鬱から躁に転換したとするなら、これまで分厚い曇りだったぶん、これからは少し良くなってくれるのかもしれない。おそらく4から5年…そのあとで、「あれ」がまたくるのだろうか。

もしかしたら多少ずれ込んだりするかもしれないが、バイオリズムが狂って、全てのことがうまくいかなくなる時が来る気がする…そう考えると、今のこの日差しが少し怖い。その時僕は何歳だろう?またあれが来たとして次は耐えられるだろうか。立ち直ることはできるのだろうか。それが怖い。わずかな希望をつないで、もがいて手繰り寄せて、毎日すがるように生きていたこの苦しい数年間がまたくるのかと思うと…怖い。

僕がそういう気分で救いを求めたものはほとんど意味を持たなかったと思う。鬱からは何も得られるものはないが、僕は自分を偽るのをやめるよう努めた。自分を素晴らしく見せようとするのは辞めにした。その結果がこのなんの薬にも(さすがに毒ではあってほしくないが)ならない文章の吐きだめである。

言葉ひとつで救われるはずもないが、そういう無力感の中でまたこうやって書き始めることにしたのは、今度こそ誰のためでもなく、聞こえのいい「救いたい」とか「守りたい」みたいな社会性の観念に縛られた薄っぺらな理由でもなく、また「生きた証」みたいな気の長い理屈でもなく、ただ、書かずにはいられなかったからだ。

 

GRAPEVINEは何年か前に再結成して、ラジオから新曲が流れてきた。「武器はいらない」と歌っていた。

しばらくぶりに会う友人と約束をして、初めの一言に何を選ぶか、よく迷う。何度も着替えをして脱ぎ捨てた洋服の山を見ながら、いよいよ家を出ないと電車に乗り遅れるとなって、結局着慣れたラフで楽なものに開き直って「別に気負わなくていい」ということに安心する。久しぶりに文章を書く時の気持ちは、ちょうどこれと似ている。

 

 

知るか

 

 

作品を取り扱ってもらっているギャラリーに「契約を止めたい」という話をした。大学を出て数年あまり地道に展示を繰り返して、機会と縁があってやっとそれにこぎつけたのだが、今後の制作やプロモーション活動に身が入らなくなってしまったことを正直に話した。やっと得た環境を自分から手放す決断をして、ギャラリーの人も僕の言葉を尊重してくれて、また手が動くようになったらいつでも作品を見せてください、とまで言ってくれてありがたかった。ずっと心の奥をせき止めていたものが流れ出したような感じがあった。酒がいつもより美味かった。

中途半端なことをするくらいならやらない方がいい。格好つけた言い方をするとこうだが、本音で言えばイライラして腹が立ってくるので、適当なものを世に出したくないのだ。僕の目は割とよく見えるので、「埃ついてませんか?」「ここ、気になりますね」みたいなことを言われるとき、大体は自分でも気がつく。気づいておきながらそれをやるということは、妥協したかまたは時間がなかったかのどちらかで、こういうのは詰まるところ「諦め」なのである。

「え、分かってて気付かないふりしてるなんて最悪じゃないか!」という声も聞こえてきそうだが、制作をしているとそういうこともある。もっというと仕事になれば毎日妥協の連続である。もっと上手く綺麗にできたのに、金銭的技術的な問題が起こることもある。

有名な作家の制作風景とかを見ていると、我々には”一切妥協しない姿勢”こそが創作の道であって、作品を作る人はみんなそういう存在であるべきなのだと誤解が与えられるが、実際はそういう甘さをどれだけなくせるかの勝負だ。甘さをなくすというのは、寝転んでだらだらと携帯の画面なんかを見るのをやめ、自分に発破をかけて机に向かえるかどうかで、要するに自分との約束をどのくらい守れるか、ということに近い。

だから諸々の指摘は「諦めたんですか?」ということと同義(少なくとも僕にとっては)で、「できるのにやらなかった怠慢を人に見せても何とも感じないような性格をしているばかりか、それでやり過ごせると思ってるんですね」と言われているような気になってくるから、それは否定したいのである。実際、諦めざるを得ないこともたまにはあるのだが、よく知りもしない人に「雑だ」とか「下手だ」とか思われていたら癪だから、限界まで自分のできることは試したい。「これで出し切った」「ここまでやった」という実感を求めているのである。

…でも、これからは、自分の作品たちに対して自信を持ってプロモーションできる気がしなくなったから、やめた。僕のレベルが低いみたいなことはあっても、技術も含めその時自分が考えられることは全て試さないと。僕は頭が硬すぎるくらいのクソ真面目だけが取り柄なのに、自分が一番充実感を得られることをなあなあにしていたら、なにか借金取りに追いかけられているみたいな罪悪感と向き合って生きていくことになる…そっちの方がストレスだと思った。

 

こういう契約にこぎつけるまでの間、作品を作って欲しいとか設置して欲しいという話をもらうこともあったが、お金の話になって頓挫したり、作品の形式が合わなかったりしてほとんど実現しなかった。「夢で飯は食えない」みたいな言い方をするが、特に世の中に合わせて売れそうなものを狙って作ったりしているわけでもないため、生活するために仕事をせざるを得ない状況がある。

ある時、割と有名な業界関係者の人に作品を褒められて、作品の購入やら販売契約やらを持ちかけられたことがあった。簡単なテーマとか技術的な説明をしたあと、今どうやって生計を立てているのかと訊かれたので、正直に「仕事をしながら制作している」と答えた。するとその瞬間に相手の表情が一転して曇り、作家一本でやっていくという覚悟が見えないから一緒にやっていくことは難しい、と言われ、話自体なかったことになった。

言っていることは確かに分かるのだが、もし僕が本当に発起して作品以外の収入を絶って、あらゆる支払いが滞り材料も手に入れられず食うに困ったとしてもその人は飯を食わせてはくれないだろう。自分の決断の責任は自分で負うしかなくて、自分でやりたいことのために自身の現在地を長い目で見て、金を稼ぎながら制作を続ける方法を自分で選んだ(覚悟がなかったのも事実)ので、生活のどうこうまで口を挟まれるいわれはないんじゃないかと思う。あそこで「わかりました仕事やめます」なんて踏ん切りをつけていたら違う未来があったのかもしれないが…まあ、考えが合わなかったのだと思う。

初めから縁なんてなかったろうにわずかに期待の匂いがして、誘われていったら「やっぱりだめですね」みたいな話、僕が経験しただけでも他にいくつもある。突拍子もない褒めに心が弾んでも、それがその後具体的ななにかに繋がることはなく、時にはトラブルになることだってあって、そういう言葉に反応するだけ無駄な気がしている。多分、相手が言っていることは本当だし、作品を気に入ってもらえているのも本当なんだろうけど、期待ばかり持ちかけられても困る。「期待する方が悪い」んだろうが、表面だけの社交辞令みたいなのはやっぱりどうしても好きになれない。

まだ僕もそれなりに元気があった頃で、そのあと悔しくなって友人を酒に誘ってさんざんクダを巻き、そんなの、こっちから断ってやれよ、と背中を叩かれたところようやく溜飲が下がった。熱くなりやすいくせに単純なもので、何杯か飲んだら忘れた。

多分俳優とかアイドルとか、漫画家とかミュージシャンの類も同じようなことを死ぬほど経験しているんだと思う。なにかの表現活動をするとなると、センスだの才能だのの前にその一番大事な制作作業以外の「非常に面倒なこと」を並行して考えるはめになる。…なんで?またこの「非常に面倒なこと」が、本当に面倒くさくできているのである(良い作品を作るより、これをどうやって乗り越えるかの方が重要なのだ)。

制作は本質的には、自分が自分のやっていることを好きでいたいからだし、興味を持った分野や対象に夢中になっている時間に幸せがあって、ときには意地になってまでやりたいと思うことでもあるから、これをお金とか利益と絡めること自体、考えが歪んでいるのかもしれない。作家は清貧で、不器用に純粋に生きているもの…そういうイメージを期待されているような、そういう願望を向けられているような気もする。決して金儲けに走ることなく、ギリギリの生活をしながらそれでも誠実に自分の表現と向き合っていてほしい、みたいな願望である。

金銭忌避思想っぽい期待をかけておきながら、作品には高いレバレッジをかけて取引きを目論むのを見かけると本当によくわからなくなる。作品じゃなくてイメージを買っているのだろうか。作家も作品も高級ブランドみたいになって、せっかく大量生産技術が頑張って近代以前の階級社会をバラしたのに、また同じことが繰り返されるらしい。

 

こういう資本の問題は大きいから、芸術だけじゃなく社会全体を取り巻いているし、お金がないと発展が得られず、競争が生まれないし人も集まらない。僕だってお金は欲しいから一概に「金が悪い」とも言いづらい。単純に「良い芸術」みたいに語られているものが作られた時代と、現代とでは構造にギャップがあって、僕みたいなのは前者に夢を見すぎているから前時代に取り残されてしまっているんだと思う。なんだかふわっとした作り手の神話っぽい言葉に呪われて、自ら選んで非合理な道を歩いている。

「アーティストには貧乏で不器用で、それでも頑張っていてほしい」みたいなことを言う割に、なぜアーティストに金がないのかは理解されていない。そもそも金のために働いていないからだ。金を稼ぐことより制作のほうがよっぽど楽しいからだ。誠実みたいなことを言われても、生きていても他に楽しいことがそれしかないのだ。ただ目的が違うだけだから、苦しんででも表現に向き合うべきみたいな理想は作家じゃなくて周りの人間が作ったのだと思う。…あとついでに言うと「産みの苦しみ」みたいな言葉も、多分産んだことない人が作ったと思う。

少なくとも僕の人生の目標は「幸せでいる」ことで、それが金を稼ぐより、制作していることで達成される可能性が高いと思ったからそれを優先しているだけで、それが制作じゃなくなるんならやめる(だからやめてた)...ただそれだけなのだ。もし自分が資本的な価値観の上でどうにかなりたいと思っているんだったら、創作だけはマジでやめたほうがいいと思う。コスパが悪すぎる。芸術のことを一から学ぶより、不動産か株の勉強をする方がいい。

資本的な本質を見たら、創作で生きていくのは宝くじを買うようなものに近い。それは確率的などうこうではなくて、当たるかどうかわからないが、抽選結果が出るまでは少なくとも夢を持っていられるという意味だ。例えば僕が死のうとしているとして、もし宝くじが手元にあったら少なくとも結果発表くらいまでは生きておこうかと思う。外れたのを確認してから死ねばいい。そういう「生きておこうかな」と思えるような期待を未来に持ち続けることに近い。

要するに、現実は疲れすぎて、まるで神様に救いを求めるみたいなものだから、何かを考え始めたらそれに縋っていないと他に楽しいことも特にないので、完成するまでは頑張って生きるか…というようなモチベーションである。そうでもないと、もう自分がもしかしたらあともう30年近く生きるかもしれないという事実に耐えられない。

 

作家活動に幸せみたいなものを求めると、snsドーパミンで気が狂うからやりたくないし、展示はしたいが色々言われるのも面倒だから在廊もしたくないという気持ちが芽生えてきて、わがままばかりでまったく終わっているなと自分で思う。人に見せる意欲もなくなっていって、そういう気持ちと闘いながらやらないといけないなら、会社に勤めてサラリーマンをやっていた時の方がマシだ。

制作それ自体よりも人間関係とか、なに言われたとか言ったとか、そういうことを気にしすぎていて心が削られて自信を失って、自分のことがなにもできないままこうやって…なんか、え?俺、何のために生きてんの?ここでやめたら、自然淘汰?せっかく一応ここまでやってきたのに、めんどくささのために全部捨てるなんてさすがにもったいない。

制作は自分のためにするものだと言うが、いろんな人間の思惑や理想を間に受けていたらとても続けられない。自分がどんな人を目標にするかとか、どうやって世に出るかみたいなことを学生の頃から当たり前のように語ってきたけど、いや…そうじゃなくて、自分がやっていきたいことって、まず世に出られなかったらほんとにできないの?人からたくさん見てもらわなかったらできないの?作品作るって…ほんとにそんな閉鎖的な可能性しか残されてないの?人生のいくつかの選択の中で、自分がいた環境の周りにいた人とは違う少数派な道を選び続けて、わざわざ「競わない生存戦略」を選んできて今があるのに、今更誰かの真似をしようとして、背中を追いかけて…それで本当に幸せでいられるのか?

展示に来てくれる人に(これは普通にありがたい)どういう気持ちで作っているのかとか聞かれると、多分分かりやすいように、納得してもらうためになんとなく言葉にして伝えようとしすぎて、そんなもん自分だって分からないのに分からないまま喋り、言葉が迷路に迷い込んで全員の頭の上に「?」が浮かぶアホの状況になるんだったら、なんか理解は得られないけれども、せめて自分だけでも確信に近いものがあるほうがまだ救えるというか…「これはどういう作品なんですか?」と訊かれて、あまりにも答えすぎているが、正直…わからん。いつも思いつく理由を並べてるだけで、多分自分で一回もわかったことない気がする。なんかアイデアが降りてきちゃってとか、作りたかったからとか…そんな理由しか思いつかないだろ。

いつからそんなふうに、頭の良いフリするようになってんだか!

 

 

芸術が自由だ、みたいなこと言ってるの誰だ

 

 

インターネットである作品公募を見つけた。4,000字程度のエッセイを募集しているらしい。いつもこのブログで書く記事がだいたい平均して4,000字くらいだから、ちょうど良さそうだと思った。賞金も出るらしい。時々身体を起こせなくなりながら、自分で書いた文を何度も読み返し、やっとの思いで仕上げた。

…端的にいうと普通に審査には落ちた。「受賞者には結果を郵送します」と書いてあって、ポストを確認してもそれはいつまでも届かず、熱が冷めた頃になって公募のホームページに発表が更新されているのを見つけた。

公募に作品を出すのも落選も別に初めてではない。いままでアートのコンペにいくつも出してきたし、それこそ学生の頃なんて、残念な結果に終わって肩を落とすのも、自分自身が否定されたような悔しさに身を焼かれるのももう感覚が麻痺するほど経験した。賞金や名誉がわずかに頭をよぎってしまう自分が不純な気がして、後ろめたさがあるうちは自分は賞レースをやるべきではないと思うに至って、それで公募とは距離を置いた。優秀賞的なものの類とは一度も縁がない。だから軽い気持ちで、今の自分を試すつもりで書いて…しかも今までやってきた制作の内容とは違う文章での挑戦だったわけで、そんなに最初からうまくいくはずないと自分に言い聞かせ期待せずにいたものの、実際結果を突きつけられたらやっぱり落ち込んだ。

誰しもが「数打てばいつかは」みたいな感じでやっているわけはなくて、一言一言頭を捻って何度も見直しをして、自分が出せる言葉を出し切っているつもりなのだから悔しくないわけはない。わざわざこんなこと言うのも野暮だがうっすら自信があるから読んでもらいたいと思うわけである。僕は自分の文章が好きだから書いているし、少なくとも自分の美術の作品の長ったらしいコンセプト文よりかは面白いと思っている。時々見返すことだってある。自分では良いんじゃないかと思っているから、不定期ではあるが書き続けている。

 

趣味でもなんでも、文章を書いている人間は大体「こいつはなんだかひと味違うぞ」と思われたいのだと思う。じゃなかったらわざわざ頭の中の妄想や偏見を公開する必要がない。一番は書くことが楽しいからではあるが、なんとなく自分の感じたものが世界で一番良い気がするからなにかを書いて残しておきたいと思うのだし、作品にしても、心のどこかで「自分は今世の中にあるものよりかっこいいものが作れる」または「作りたい」と思っているから、わざわざこんなめんどくさいことに心血を注いでいる。

ただ、どれだけ苦心しようが時間がかかってようが、結果は一瞬で出る。それも残酷なほどに明確である。そして選ばれたものだけが世に出る。選ばれなかった理由を教えてもらえるわけでもなく、特にどうだったか講評があるわけでもないし、どうしたら良くなるかというアドバイスもない。同情されて励まされたとしても、せいぜい飲み会で慰めのネタになるくらいで自分の作品が良くなりはしない。「一生懸命やってるのに評価されない」なんて泣き言をいちいちこぼしている場合ではないのである。

 

芸術や表現活動が自由で、なんでも受け入れてくれて、そして勝ち負けも優劣もない平等な世界だ、みたいなイメージはどこから湧いてくるのか、時々疑問に思うことがある。…全くそんなことない。僕は芸術の世界にもかなり厳しい優劣を感じるし、もっと言うと正解不正解だってあると思う。

正確には「表現自体は好き勝手にやればいいが、それを人に見せるとなったら自由ではなくなる」のである。部屋で1人で妄想して紙に好きな絵を描くくらいだったら何をしても良い。自由である。ただ、それが他人を介するようになった瞬間に色々なことを考えなければならなくなる。

なぜ美大組織があるのかというと、僕が思うに多角的な視点というのを受け入れるためだと思う。数ヶ月に一回くらいの作品講評で「自分が思っていることが相手もそう思っているとは限らない」ということを、教授や同級生にメンタルをボコボコにされることで学ぶ。叩き込まれる。そのためだけに行く場所だと言っていいと思う。ただ、創作においてはこれが一番大事なことで、制作していたら社会の問題に鋭く切れ込むことがあるかもしれないし、自分の作ったものが批判される可能性だって当然あるわけで、そういうセンシティブな内容における発言の仕方とか、感情や私見でない客観的な物事の語り方扱い方を試行錯誤し、なんとか自分の言いたいわがままを通す努力をするのだ。

今の世の中を見てみれば、いわゆる趣味の延長で描いた絵がネットに公開されて誰かの逆鱗に触れあり得ない炎上をするとか、どう考えても適切ではないものを「表現の自由」だと権利を振りかざして主張を通す様から、その重要さは明らかだと思う。「やったらいけないこと」とか「やらないほうがいいこと」をそのまま大声で叫んだら反感を買うに決まっている。

だから、今作品において重要なのは質や内容よりもその見せ方とパフォーマンスになっていて、SNSを使うのは確かに簡単だけど、誰もが気軽に始められるメディアはそういうリテラシーの部分で色々なことを考えないといけない場合がある。単なる投稿の内容に限らず、言葉の使い方とか運用の方が重要だし、トラブルの立ち回り次第でも活動内容に関係なく称賛、あるいは石を投げられる可能性にさらされている。がんばっているのならそれなりに良い作品を作っていることは大前提。作家だって人気商売で、まるでアイドルみたいに名前を売っている(この問題については色々なアーティストがテーマにしている)。

 

作品というのは作家自身の持っている感性、造形力、構成力、視点、知識や教養など…備わった能力を見せつける性質を持っている。作品に向けられる「かっこいい」「美しい」「面白い」などという諸々の形容詞には対象性があるわけなので、美術をはじめとした作品の世界は比較と評価で溢れている。そういう世界にあって「勝ち負けも正解もない」とか言っているのを聞くと僕はものすごい違和を感じる。かっこいい、美しい、面白いということは「そうではない」ものがあるということだし、選ばれるものがあるということは選ばれなかったものも同時に生んでいる。

例えばコンテスト形式で審査されて、今回はダメだったけど別に負けじゃないよ、とか言われてもそれはズレていると思う。どう考えても選ばれないより選ばれた方がいいと思うし、それを目指した結果こういうものに応募してるんだから、採点され評価がつけられているという事実は明らかだ。

まずアカデミックがものすごい倍率の世界で、「誰か」よりも「良い」ものを作って描かないと美大に入れない。そもそも創作の世界が「良いものを作る」を目指すならその本質は価値更新にあって、過去を否定まではせずとも上書きの必要がある。自分がどんなスタンスで制作に取り組んでいようともそういう世界だし、もうそういう職業なのだと諦めるしかない。こういう優劣の価値観がぷんぷん香ったまま「ありのまま」とか「自由」みたいなことをこの業界で語るのはかなり厳しい。

センスとか才能と呼ばれるものがそのまま「戦闘力」に置き換わるような世界で、世の中の創作物と目が合った瞬間にすぐ能力バトルが始まるから気が抜けない。こいつはすごいとか大したことないみたいなこと…みんなはっきり言わないけど、結構思っていたりするんじゃないのか。

そして僕は小さい頃からこういう順位づけの社会の構造に負け続け、それがめちゃくちゃ嫌になって美術の世界を目指したのに、いつの間にか自分もそういうものを気にする(させられる)ようになって、気付いたらしっかり競争に参加していたというわけだ。

 

なぜコンテストに応募するかというと、世の中はレースに勝った作品や人物を過剰に評価する傾向が強く、それが「ある」のと「ない」のでは大きな差があるからである。特に日本人は肩書きに弱くて、しかもみんなそれをよく分かっている。本人が実際何をしているかとか関係なく「なんか凄い人なんですね」というありがたい評価をつけてもらえる。だからコンテストが一番手っ取り早い。

美大の講評というのは言ってみれば近代以前の絵画の品評会の真似事だ。みんな自分なりの「良い」を目指しているはずがなぜか同じ基準の上に基づいて審査を受け、しかもそれが正当ということになっていて受け入れざるを得ない。大体入学後半年〜1年くらいでそれを思い知らされて、もう評価を求めるのをやめ開き直るか、どうしたら選ばれるかを真剣に考えるかのどちらかになる。大きく言って「芸術は勝ち負けじゃない」という派と「迎合してのし上がる」派に分かれる。言ってみればリベラルとコンサバみたいなもので、権威から否定されることが多ければ自由主義に向かうのだろうし、権威から口利きしてもらえれば保守的な思想になる。

芸術には、マイノリティが虐げられて美術の領域に逃げ込み、ものすごい頑張りで革命を起こす」みたいな清貧で勤勉なイメージがあるが、実際はその「虐げられたマイノリティ」たちも美術の領域の中でマジョリティを形成し権威化する。評価づけを促す派閥や団体もその構造形成に一役買っていてそういう価値観もイメージもなぜかなくならない。「選ばれたかどうか」で人からの評価というものも大いに変わるし、作品にいくらの値がついたとか、どこで展示をしたとか誰とコラボレーションしたとかも同様で、自分がいかに社会的に必要とされているか、優秀であるかを語るための舞台装置になっている。

売れている人も「やりたいことをやるためにまず売れた」みたいなことを平然と言。なぜ作品を作っていくのに「売れる必要がある」のか本当に謎なのだが、売れないと誰も話なんか聞いてくれない。しかもこれは逆説的に「売れること自体には意味がない」と「売れた人」が言っているようなものである。例えば「人気者になりたくて」とか「大勢の前に立ちたい」みたいな理由で創作活動をするなら「売れる」ことを目的に制作をするのは一見正しい気もする。でも、正しいと思うことをしたいとか世界を良くしたいみたいな純粋な想いよりも前に「売れる」が必要になっているこの世界って、一体なんなんだろう。

もし、評価をもたなくて「評価されてないからダメな奴」と思われてしまうのだとしたら、それは大きな間違いだ。ついでに自分がもしもそう思われていたらめちゃくちゃ癪に障る。「良いものって何」みたいな悩みは尽きないが、なにを良いと思うかは人によって違うのに、なぜそれを作ること自体よりも誰かからもらう勲章のために闘わないといけないんだろう。百歩譲って闘わないといけないとしたって、そもそも闘う必要ってあるか?

僕は現にそうなってしまって精神をおかしくしたが、少なくとも今僕の周りにいる友人たちは好きに生きて、全員息を呑むくらい純粋で見ていて大変清々しく、格好がよろしい。まったく世の中は、アーティストと呼ばれる人間が全員資本主義的な価値観を目指して活動しているとでも思っているんだろうか。人より資産を得てのんびり裕福な暮らしでもすることだけが成功?作家を名乗るなら「売れて」いないと、「有名」でなければ価値がないと…本気でそんなふうに思っているんだろうか。

「力のあるアーティスト」みたいな文句を業界の人間が使うのを、僕は今までに何度も見たし聞いた。力のある、って何だよ。苦しくてもなんとか制作続けて、発表して、燃やし続けて…みんな力があるに決まってるだろ。そして、こういう飾りみたいな成功への馬鹿げた呪いが何人の作家人生を終わらせたんだろう。売れて有名であること以外成功じゃないみたいな短絡的な考え、一体誰が何のために植え付けるのか?

 

僕は基本的にはやっぱり芸術が好きで、この数年間もう何度も制作はやめようと思ったけど、芸術のことを考えている時だけが楽しくて、制作している時だけが時間を忘れられて、あとは本当に何もない、暇な人間なんだと分かった。それ以外、生きていて楽しいことがない。

なぜ、誰かにお伺いを立てて評価を受けないと作品のひとつも広められないのか?「いや、ブログとかSNSとかあるじゃないですか」と言っても、それらにはフォロワーとかいうのがいて、結局運用をちゃんと考えなかったらアクセスなんか微塵も伸びやしないのだ。偏屈なことを妄想して薄暗い部屋で1人でニヤリと笑っているくらいにしておくのが一番楽しいのに、どうして誰かに見せると良いとか悪いとかいう話になるのか。そして、どうして僕はそういう仕組みの中にいて、いちいち数字とかを気にして「どういうのを書いたら作ったらウケるか」とか思ってしまうのか。とても面倒くさい。全くやってられない。評価のことなんて考えたくない…考えないとダメなのか?

評価を度外視するなら比較の対象は自分に向けるしかない。自分が行きたい場所にどのくらい近付いたかみたいな話をする以外、健全な制作は有り得ない。でも、そういうスタンスは鑑賞者を受け入れる余地を作りづらい。自己満足でやるならそもそもなぜ人に見せるのかという話になるし、説明の必要性も揺らぐ。究極の自己満足は究極の自己防衛にはなるが、それは孤独である。

どうせ「いいね」なんかついてもどうにもならないし、もしこういう評価とか審査みたいなことから完全に解き放たれる世界にいられたらいいのに。

 

公募だのSNSだの、なんでこんな面倒なことしなきゃいけないんだと思いつつ「だから絶対に認めさせてやりたい」みたいな…さすがに20代みたいなギラついた気持ちも持ちようがないけど、このまま深海魚で終わるのもな…と思った。

蒸し暑くてイライラしてたのかもしれない。夏の夜だから。

 

 

プランタジア

 

 

紫蘇とバジルの葉と、それからローズマリーを少し譲ってもらった。たまに料理に使うことがあるのでありがたかった。茎がついている状態で、水につけておくとしばらく萎れずに日持ちするとのことだったので、ペットボトルの底を切って水を溜め、茎を浸けて置いておいたところ、ひょろっとした白い髭が生えてきた。…根っこだ。

甲斐甲斐しく水を入れ替えたり、気に入りそうな場所を探ってあちこち移動させたりしているうちに、なんだか情が湧いてきてしまった。髭がどんどん伸びて枝分かれして、何本も生えてくるのを観察しているのがここ数年で一番楽しく感じた。鉢と土を買いに行って、灼熱のベランダでダラダラ汗をかきながら挿し木してやると、なんともいえない充実した気持ちになった。なんだか葉をプチンと貰うのも悪い気がしてきてしまい、それから奴らは、うちのよく日の当たる場所で毎日ぐんぐん大きくなり続けている。

調べてみたら、紫蘇もバジルもローズマリーもかなり挿し木しやすい種類らしい。生命力が強く初心者向きだと書いてあった。図らずも初めて植物を育てることになったわけなのだがうまくいって良かったと思う。


考えてみると、切った茎や枝から根が生えてくるというのは不思議なことだ。トカゲみたいに欠損した細胞を再生する能力を持った生き物はいくつか存在するが、再生は再生であって、切れた腕から頭を生やすみたいなことはできない。再生というのは「もとの細胞と同じ細胞に完全に置き換える」ということらしい。人間も一応指を切ったりすれば傷は塞がりはするものの、これ自体は「治癒」なので、傷が完全に修復・復元されるわけではなく傷跡も残ってしまう場合がほとんどであるから、元と同じ細胞に置き換わっているわけではないのである。

人間の身体は60兆もの細胞から成り立っているそうだ。それらが一つの受精卵から1→2、2→4、4→8…というように倍の倍に胚分裂して、僕たちの指の爪から、眼や骨や内臓、髪の毛の一本に至るまで、塩基配列が作る暗号に従って形作られているのである。

その過程で、ある胚が「俺はもうここから心臓になるわ」「私は右の腿の骨に」などと言って各々進路を決め合って複雑な身体を構成していくことになる。これを「分化(特殊化)」という。分化した細胞というのは一度進路を決めたらもう元に戻ることはできない不可逆性をもっていて、例えば一度脳細胞になることを決めた細胞が「やっぱ俺って脳向いてないからやめた」と別の細胞に転職することはできないらしい。一度決まってしまうともうそれ以外になれないということは、右腕に左腕から細胞を移植しても左腕にしかならず、もし本人の細胞を培養したとしても再生を促すことはできないのである。だから人間は怪我をしたり病気をしたりすると大変で、欠損した部分を修復再生するのは未だに漫画や映画の世界の中だけの話なのだ。

…しかし、数年前に世間を騒がせた「ES細胞」や「IPS細胞」というのは、この分化細胞を培養して異常のある細胞部位に健常な細胞を移植し、例えば欠損した四肢を再生させるとか、失明した人の視力を回復させるとか、もしも一般医療に普及できるレベルまで実用化されれば、それこそ老化細胞すら移植してしまえば寿命さえも超えられるんじゃないかというくらいの、めちゃくちゃに凄い(ある意味ヤバい)発見だったのである。

現在分化生物学に関わるバイオテクノロジー分野というのは日夜ものすごいスピードで発見と進展が繰り返されているそうだが、それと同時に(僕も詳しくは難しくてわからないのだが)、例えばES細胞というのは受精卵の段階で分化を予測?するために生命倫理的な議論が絶対に必要で、一応受精卵というのは新しい命なわけなので、それを移植して医療に役立てようというのはどうなのか?みたいなことを哲学やら倫理学やらの人文学と丁寧にすり合わせなければならない。

SF映画ガタカ」みたいに、どっかの金持ちが優秀な遺伝子だけを選んでハイスペックな子供を産み出す実験に、人間は技術的にはもう完全に追いついているらしいが、それは同時に人間としてなにか決定的なものを否定することになるのではないかということで批判もされている。多分、ルックスよく、頭脳明晰で性格も穏やかで理性的、身体能力もアスリート並のザ・優生…みたいな人間しか生まれなくなるのだったら僕みたいなのは真っ先に淘汰される。それはなんか嫌だし癪なので、僕は人間の良心と倫理観というやつになるべく頑張ってほしいと思っている。あと、ガタカはめちゃくちゃ良い映画だ、とも思っている。

 

話がかなり逸れたが、つまるところ植物細胞にはこの分化の決まりがないらしい。これを「分化全能性」という。この性質によって、切った茎から根が生えてくるのだ。

一応、分化自体は行われていて、葉だの茎だの根だのの細胞は分かれるものの、いつでも巻き戻ってその決まりを無かったことにできるらしい。一度進路を決めても、何回でも進路希望調査の紙を出し直せる、みたいな感じなんだと思う。もしかしたら急に仕事をやめて異業種に転職するみたいなことかもしれない。茎や幹から新芽が出るのと同じ理屈だという。

植物は基本的には(環境が整いさえすれば)半永久的に成長し続けることができる。それは植物が全能性を保ち続けているからだ。致命的な破損やダメージがない限り、幹を切られても枝が伸びてくる。多少の欠損でも「死ぬ」ことはないから、分化の可能性をずっと持っておくほうが都合がいいのだ。枝の伸び方や葉の生え方も「フラクタル構造」という単純なルールに基づいていて、もしかしたら、複雑でないから再生が簡単で、無限に分裂・増殖し続けられるのかもしれない。

…こう書くと結構怖いものがあるが、でも、植物はずっと動かないでそこにいて、大声を出したり誰かの悪口を言うわけでもなく、糞や尿など排泄もせず(たまに枯れ葉を落とすがこれは土が分解してくれるのでよい)、でも時々新芽が出てきたり、時々元気がなくなったりもしてちゃんと生きているのがわかるから、部屋にあるとなんとなく落ち着くし、優しい気持ちになったりもする。

 

…ところで、実は睡眠は「身体を休める」ために必要なのではなくて、むしろ眠っているときこそが生物にとっての基本状態なんじゃないか、という考察があるらしい。進化の過程で生物がなぜ睡眠を淘汰できなかったのか考えると、進化したのは睡眠ではなくてむしろ僕がこうやって起きて活動している「覚醒」の方なのではないか、と頭のいい学者の人が言っているそうだ。

僕は以前の記事で、「コアラは気絶しながらユーカリとかいう毒を食っている」みたいなことを書いたのだが、もし睡眠こそが基本状態なのだとしたら実はコアラの生存戦略の方がめちゃくちゃ優秀だったということになる。むしろ彼らからしたら日中起きて仕事をして、疲れて帰って倒れるように寝る人間の方がよっぽど不具合な生き物に思えているかもしれない。

上の睡眠の学説が本当に正しいとしたら、人間が覚醒を進化させて起きて活動するのは脳が発達しすぎたから、眠っていられるだけの栄養を摂るためなんじゃないかと思う。某筋肉芸人は「寝起きというのは栄養が枯渇しているので」と言って起床後即プロテインを摂取していたし、筋肉を維持するために夜中に飛び起きて食事を取るマッチョもいるらしい。考えてみれば6〜8時間も飲まず食わずでいるなんて眠っているとき以外ありえない。寝ている間に餓死しないために、起きているうちに3食も食事を摂って蓄えておかないといけないのかもしれない。

植物が動かずに、葉緑体と日光、それから水によって栄養を生成できることを考えると、植物は生態的に人間よりもよっぽど優秀なんじゃないかと思えたりする。植物は寝たまま栄養を摂る方法を知っている。…まあ植物が寝ていると言えるのかは分からないが(睡眠の定義は非常に難しく「自発的に行われる」「感覚機能が低下する」「恒常性がある」「活動性の消失」というようないくつかの条件がある)、それに近い状態を維持しながら自分で栄養を生み出してどこまでもモリモリ大きくなることができることを思うと、同じ生物として少し羨ましい。もし自分で栄養を生成できるのなら、僕たちは娯楽以外に金を稼ぐ必要がなくなる。

人間は自分で動いて他の動物や植物を摂取してエネルギーをもらわないと生きていけず、すぐに腹が減るし、寝ないと頭も口もまわらない。心療内科に行って言われることといえばまず食事と睡眠、それから運動であって、生きがいだの仕事だの金だの、コミュニティがフォロワーが社会が…だのと色々言っても、これが人間の活動の基本であって、そして結局これ以外はすべて余剰にすぎないのだと思う。

本質的に、人間らしさみたいなことを面倒くさくクドクド考えるから辛くなる。多分そういうことなんだろうと思う。でも、それを失って図式っぽく整然と生きていけるほど人は単純ではないのも事実だし、悩んでいることについて飽きられたり「とにかく頑張れ」みたいな脳筋思想を押し付けられても理解も解決もできないから、自分の持っている悩みや矛盾とは自分が一生懸命に向き合うしかない。そしてどうせこれは自分以外には分からないので、他の人から何を言われたとしても、真面目に悩んで考えるのがよい。

人間は、特に日本人は少し働きすぎだと思う。でも、働かないと上手に寝られなくもある。不眠になって睡眠薬を飲んでいた頃、まるで義務のように夜が来て無理やり寝ようとしていた自分に気がついた。しかしなにもせず疲れてもいないのに目を閉じたって寝られるわけがない。数ヶ月ぶりに仕事に行けるようになって復帰した日の夜、布団に横になるやいなや爆速で寝付いてそこではじめて、人間は夜が来るから寝るんじゃなくて、疲れて眠くなるから寝るのだ、と思った。眠くなったら寝ればいい。だからそうなるまで頑張って働いて、どうでもいいことでもちゃんと考えて、せいぜい一生懸命悩もう…そう考えるようになってすぐ、不眠は直った。

 

植物に悩みはあるんだろうか、などと思いながら観察していたら、伸びすぎた根がついに鉢の水抜きの穴から覗けるくらいになってしまっていた。一本だけ”イキ”のいい根があったから、多分それだろう。この前鉢を買ったばかりなのに、育ちが良くて参った。

ちょっと窮屈でかわいそうだから植え替えてやろうかと思ったが、「窮屈」とか「かわいそう」とかいうのは僕が想像していることで、植物側がそうしてほしいのかどうか教えてはくれないところがやっぱりちょっと怖かった。実際、根詰まりを起こして育成不良になったり根が傷ついて枯れてしまったりすることはあるらしいが、植え替えにも時期があって、間違えると自分が良かれと思ってやったことが悪手になることもあり得るのだ。ただ、それを植物たちは教えてくれないし、いいときも答えてくれない。

今は、ネットで調べればいくらでも情報が出てくるけど、彼らは本当はどう思っているんだろう?