作品を取り扱ってもらっているギャラリーに「契約を止めたい」という話をした。大学を出て数年あまり地道に展示を繰り返して、機会と縁があってやっとそれにこぎつけたのだが、今後の制作やプロモーション活動に身が入らなくなってしまったことを正直に話した。やっと得た環境を自分から手放す決断をして、ギャラリーの人も僕の言葉を尊重してくれて、また手が動くようになったらいつでも作品を見せてください、とまで言ってくれてありがたかった。ずっと心の奥をせき止めていたものが流れ出したような感じがあった。酒がいつもより美味かった。
中途半端なことをするくらいならやらない方がいい。格好つけた言い方をするとこうだが、本音で言えばイライラして腹が立ってくるので、適当なものを世に出したくないのだ。僕の目は割とよく見えるので、「埃ついてませんか?」「ここ、気になりますね」みたいなことを言われるとき、大体は自分でも気がつく。気づいておきながらそれをやるということは、妥協したかまたは時間がなかったかのどちらかで、こういうのは詰まるところ「諦め」なのである。
「え、分かってて気付かないふりしてるなんて最悪じゃないか!」という声も聞こえてきそうだが、制作をしているとそういうこともある。もっというと仕事になれば毎日妥協の連続である。もっと上手く綺麗にできたのに、金銭的技術的な問題が起こることもある。
有名な作家の制作風景とかを見ていると、我々には”一切妥協しない姿勢”こそが創作の道であって、作品を作る人はみんなそういう存在であるべきなのだと誤解が与えられるが、実際はそういう甘さをどれだけなくせるかの勝負だ。甘さをなくすというのは、寝転んでだらだらと携帯の画面なんかを見るのをやめ、自分に発破をかけて机に向かえるかどうかで、要するに自分との約束をどのくらい守れるか、ということに近い。
だから諸々の指摘は「諦めたんですか?」ということと同義(少なくとも僕にとっては)で、「できるのにやらなかった怠慢を人に見せても何とも感じないような性格をしているばかりか、それでやり過ごせると思ってるんですね」と言われているような気になってくるから、それは否定したいのである。実際、諦めざるを得ないこともたまにはあるのだが、よく知りもしない人に「雑だ」とか「下手だ」とか思われていたら癪だから、限界まで自分のできることは試したい。「これで出し切った」「ここまでやった」という実感を求めているのである。
…でも、これからは、自分の作品たちに対して自信を持ってプロモーションできる気がしなくなったから、やめた。僕のレベルが低いみたいなことはあっても、技術も含めその時自分が考えられることは全て試さないと。僕は頭が硬すぎるくらいのクソ真面目だけが取り柄なのに、自分が一番充実感を得られることをなあなあにしていたら、なにか借金取りに追いかけられているみたいな罪悪感と向き合って生きていくことになる…そっちの方がストレスだと思った。
こういう契約にこぎつけるまでの間、作品を作って欲しいとか設置して欲しいという話をもらうこともあったが、お金の話になって頓挫したり、作品の形式が合わなかったりしてほとんど実現しなかった。「夢で飯は食えない」みたいな言い方をするが、特に世の中に合わせて売れそうなものを狙って作ったりしているわけでもないため、生活するために仕事をせざるを得ない状況がある。
ある時、割と有名な業界関係者の人に作品を褒められて、作品の購入やら販売契約やらを持ちかけられたことがあった。簡単なテーマとか技術的な説明をしたあと、今どうやって生計を立てているのかと訊かれたので、正直に「仕事をしながら制作している」と答えた。するとその瞬間に相手の表情が一転して曇り、作家一本でやっていくという覚悟が見えないから一緒にやっていくことは難しい、と言われ、話自体なかったことになった。
言っていることは確かに分かるのだが、もし僕が本当に発起して作品以外の収入を絶って、あらゆる支払いが滞り材料も手に入れられず食うに困ったとしてもその人は飯を食わせてはくれないだろう。自分の決断の責任は自分で負うしかなくて、自分でやりたいことのために自身の現在地を長い目で見て、金を稼ぎながら制作を続ける方法を自分で選んだ(覚悟がなかったのも事実)ので、生活のどうこうまで口を挟まれるいわれはないんじゃないかと思う。あそこで「わかりました仕事やめます」なんて踏ん切りをつけていたら違う未来があったのかもしれないが…まあ、考えが合わなかったのだと思う。
初めから縁なんてなかったろうにわずかに期待の匂いがして、誘われていったら「やっぱりだめですね」みたいな話、僕が経験しただけでも他にいくつもある。突拍子もない褒めに心が弾んでも、それがその後具体的ななにかに繋がることはなく、時にはトラブルになることだってあって、そういう言葉に反応するだけ無駄な気がしている。多分、相手が言っていることは本当だし、作品を気に入ってもらえているのも本当なんだろうけど、期待ばかり持ちかけられても困る。「期待する方が悪い」んだろうが、表面だけの社交辞令みたいなのはやっぱりどうしても好きになれない。
まだ僕もそれなりに元気があった頃で、そのあと悔しくなって友人を酒に誘ってさんざんクダを巻き、そんなの、こっちから断ってやれよ、と背中を叩かれたところようやく溜飲が下がった。熱くなりやすいくせに単純なもので、何杯か飲んだら忘れた。
多分俳優とかアイドルとか、漫画家とかミュージシャンの類も同じようなことを死ぬほど経験しているんだと思う。なにかの表現活動をするとなると、センスだの才能だのの前にその一番大事な制作作業以外の「非常に面倒なこと」を並行して考えるはめになる。…なんで?またこの「非常に面倒なこと」が、本当に面倒くさくできているのである(良い作品を作るより、これをどうやって乗り越えるかの方が重要なのだ)。
制作は本質的には、自分が自分のやっていることを好きでいたいからだし、興味を持った分野や対象に夢中になっている時間に幸せがあって、ときには意地になってまでやりたいと思うことでもあるから、これをお金とか利益と絡めること自体、考えが歪んでいるのかもしれない。作家は清貧で、不器用に純粋に生きているもの…そういうイメージを期待されているような、そういう願望を向けられているような気もする。決して金儲けに走ることなく、ギリギリの生活をしながらそれでも誠実に自分の表現と向き合っていてほしい、みたいな願望である。
金銭忌避思想っぽい期待をかけておきながら、作品には高いレバレッジをかけて取引きを目論むのを見かけると本当によくわからなくなる。作品じゃなくてイメージを買っているのだろうか。作家も作品も高級ブランドみたいになって、せっかく大量生産技術が頑張って近代以前の階級社会をバラしたのに、また同じことが繰り返されるらしい。
こういう資本の問題は大きいから、芸術だけじゃなく社会全体を取り巻いているし、お金がないと発展が得られず、競争が生まれないし人も集まらない。僕だってお金は欲しいから一概に「金が悪い」とも言いづらい。単純に「良い芸術」みたいに語られているものが作られた時代と、現代とでは構造にギャップがあって、僕みたいなのは前者に夢を見すぎているから前時代に取り残されてしまっているんだと思う。なんだかふわっとした作り手の神話っぽい言葉に呪われて、自ら選んで非合理な道を歩いている。
「アーティストには貧乏で不器用で、それでも頑張っていてほしい」みたいなことを言う割に、なぜアーティストに金がないのかは理解されていない。そもそも金のために働いていないからだ。金を稼ぐことより制作のほうがよっぽど楽しいからだ。誠実みたいなことを言われても、生きていても他に楽しいことがそれしかないのだ。ただ目的が違うだけだから、苦しんででも表現に向き合うべきみたいな理想は作家じゃなくて周りの人間が作ったのだと思う。…あとついでに言うと「産みの苦しみ」みたいな言葉も、多分産んだことない人が作ったと思う。
少なくとも僕の人生の目標は「幸せでいる」ことで、それが金を稼ぐより、制作していることで達成される可能性が高いと思ったからそれを優先しているだけで、それが制作じゃなくなるんならやめる(だからやめてた)...ただそれだけなのだ。もし自分が資本的な価値観の上でどうにかなりたいと思っているんだったら、創作だけはマジでやめたほうがいいと思う。コスパが悪すぎる。芸術のことを一から学ぶより、不動産か株の勉強をする方がいい。
資本的な本質を見たら、創作で生きていくのは宝くじを買うようなものに近い。それは確率的などうこうではなくて、当たるかどうかわからないが、抽選結果が出るまでは少なくとも夢を持っていられるという意味だ。例えば僕が死のうとしているとして、もし宝くじが手元にあったら少なくとも結果発表くらいまでは生きておこうかと思う。外れたのを確認してから死ねばいい。そういう「生きておこうかな」と思えるような期待を未来に持ち続けることに近い。
要するに、現実は疲れすぎて、まるで神様に救いを求めるみたいなものだから、何かを考え始めたらそれに縋っていないと他に楽しいことも特にないので、完成するまでは頑張って生きるか…というようなモチベーションである。そうでもないと、もう自分がもしかしたらあともう30年近く生きるかもしれないという事実に耐えられない。
作家活動に幸せみたいなものを求めると、snsはドーパミンで気が狂うからやりたくないし、展示はしたいが色々言われるのも面倒だから在廊もしたくないという気持ちが芽生えてきて、わがままばかりでまったく終わっているなと自分で思う。人に見せる意欲もなくなっていって、そういう気持ちと闘いながらやらないといけないなら、会社に勤めてサラリーマンをやっていた時の方がマシだ。
制作それ自体よりも人間関係とか、なに言われたとか言ったとか、そういうことを気にしすぎていて心が削られて自信を失って、自分のことがなにもできないままこうやって…なんか、え?俺、何のために生きてんの?ここでやめたら、自然淘汰?せっかく一応ここまでやってきたのに、めんどくささのために全部捨てるなんてさすがにもったいない。
制作は自分のためにするものだと言うが、いろんな人間の思惑や理想を間に受けていたらとても続けられない。自分がどんな人を目標にするかとか、どうやって世に出るかみたいなことを学生の頃から当たり前のように語ってきたけど、いや…そうじゃなくて、自分がやっていきたいことって、まず世に出られなかったらほんとにできないの?人からたくさん見てもらわなかったらできないの?作品作るって…ほんとにそんな閉鎖的な可能性しか残されてないの?人生のいくつかの選択の中で、自分がいた環境の周りにいた人とは違う少数派な道を選び続けて、わざわざ「競わない生存戦略」を選んできて今があるのに、今更誰かの真似をしようとして、背中を追いかけて…それで本当に幸せでいられるのか?
展示に来てくれる人に(これは普通にありがたい)どういう気持ちで作っているのかとか聞かれると、多分分かりやすいように、納得してもらうためになんとなく言葉にして伝えようとしすぎて、そんなもん自分だって分からないのに分からないまま喋り、言葉が迷路に迷い込んで全員の頭の上に「?」が浮かぶアホの状況になるんだったら、なんか理解は得られないけれども、せめて自分だけでも確信に近いものがあるほうがまだ救えるというか…「これはどういう作品なんですか?」と訊かれて、あまりにも答えすぎているが、正直…わからん。いつも思いつく理由を並べてるだけで、多分自分で一回もわかったことない気がする。なんかアイデアが降りてきちゃってとか、作りたかったからとか…そんな理由しか思いつかないだろ。
いつからそんなふうに、頭の良いフリするようになってんだか!