愛と祈りと怒りと

 

 

最近とてもなにかに愛を奪われているかのような感覚がある。書きたいことがたくさんあるのに、どうせ書いても、と思わせてくるなにかがある。人は本当に分かり合えない、と諦め始めている。何かが自分の中で変わり始めている。

話そうとして話せなかった、伝えられなかったこと、けんかをしたっきり会わなくなった人のこと、もう連絡も取れなくなった人のこと、心を抉られて離れざるを得なくなった人、そういう人たちのことを、もう思い出したくもなくなってきている。どこかで元気にやっていてほしいとか、そういうことすら思えなくなってきている。

 

究極の別れというのは多分死だから、死ななければいいかと思っていた。人とうまくいかなくなっても生きていればどこかで会えるだろうと思っていた。でも、自分が死ぬことをあまり怖いと思わなくなって(苦しいとか痛いのとかはやっぱり嫌だが)、もし死んだとしても人は霊体かなんかになってまた会える日がくるんじゃないかと考えている。それは理屈とかではなく本能的な直感に近い。大好きなスターウォーズの影響かもしれない。僕は死んだことがないから本当にそうかどうかは知らないが、死を恐れる理由が自分の感覚を失うことや孤独にあるのだとしたら、そういう主観的なものはむしろ他者との関わりの中にあるものだから、怖いのは”自分が死ぬこと”それ自体ではないのだと思う。

いずれ来る自分の死を自分で理解することができるかできないかわからないが、死によって僕たちの感覚が途絶えるのだとすれば、自分が死んだことを自分で理解することはできないはずである。ならば僕たちの感覚がある間に理解できる死とは自分のものではない。いつも他の誰かの死である。死への恐怖というのは、正しくは「死によって自分の大切な人とか世界が終わるのが怖い」ということになる。…少なくとも僕の信条は「生きていればまたどこかで」であった。出会いも別れも一応人並みには経験してきたつもりだ。ある程度は仕方ないことなんだ、と割り切って生きてこれた。誤解を恐れずに言えば、いなくなられて本当に凹むような人間関係なんてそんなに多くない、とも思っている。でもこれは、そうでも思わないととてもまともに生活なんてできなかったからでもある。

 

全ての人の幸せを願って、世界が一つになるだろうと思って信じて生きて、理不尽に奪われる命を少しでも救いたいとか、隣人に優しくしようとか、傷ついている人を励まして生きるんだとか、できれば誰かの力になって生きていたいとかそういうことを思い、そういう力を信じて生きてきたつもりだが、残念ながら世の中全然そういうふうには動いていない。それどころか、人に何かを埋めてもらおうとして生きている人間はたくさんいて、人から愛を奪っておいて平気な顔をしている。僕だってそうなんだと思う。一度も誰のことも傷つけたことがありません、とはとても言えない。

人が何を持っているか、何を提供してくれるのかを無意識に計算している。口にはとても出さないし本当にそんなこと考えているつもりはもちろんない。ないけど、そう思わざるを得ない場面も、自分に対してもそう思うこともたくさんあった。例えば「あなたへのおすすめ」に出てくるものを0.5秒くらいで判別して、これはいい、これは悪い、これは使えそう、これはかっこいい・かわいい、役に立ちそうなどと格付けするように。もう癖になっている。誰かを評価して、今日も誰かを傷つけると同時に幸せも願っている。どの口が言う?自分が何をしているのかわからない。本当は何がほしいのかも分からない。何が書きたいのか、何が作りたいのかも分からない。楽しいことはなんだったっけ?そういう無意識の連続といくつかの出来事が重なって、結構疲れてしまっている。

できれば誠実にいたいと願いながら、心の中のいろんな感情を真正面から受け止めて、苦しいながらも悩んで、芯から物事を捉えるようにしてきたつもりだ。たくさん本を読んだのはそれを理解したかったからだ。自分の感情を理解したかったから。そうやって自分の中に負の感情をたくさん溜め込んだ結果、ある時ついに破裂して自分の中の黒い感情を昇華し切れなくなって、一斉にそういう気持ちを追い出すようになった。悲しさ、怒り、悔しさ…心がそういう感情を嫌っている。耐えられなくなっている。

感情には理由がある。怒ることは防御だとか言ったりするが、時にはそれと向き合わなければ自分が何かを奪われたり、損をしたりするのである。例えば誰かにバカにされたとして、そこで腹を立てなければ、尊厳と権利を失うことになる。僕はそういうものに負けたくないしできるだけそれに加担したくない。ひとつひとつ起こった出来事と自分の感情を客観的に照合して、怒ることによって誇りを持って生きる。ここでいう怒りとは怒鳴ったり八つ当たりするようなことではない。反発である。

しかしそういう反発すらもめんどくさくなっている。いいや、好きにさせとけば…そう思うんならそれでいいよ。別に弁明しない。言い訳もしない。ただ関わらないでくれ。せめて静かに記憶から消えてくれ。そういうふうに思うようになってしまっている。なんだか色々なことがうるさくなってしまっている。

 

作品が誰かを傷つけたりすることがあるということを知っている。それがどれだけ正しかろうとも、それは自分の中だけの世界であり、そういうものを拒絶する意見があることも分かっている。頭をさんざん悩ませて作ったものを嘲笑われたりもする。人として大事なことを大事にしていても、結局何も変えられないんだという無力さもわかっている。「それでも信じて作るんです」なんていうことを、まるで美談のように情熱を持って語るにしては頭はだいぶ冷え切り、芸術の歴史を見るに、過去に一度でもなんらかの作品がその素晴らしい力を社会に発揮したことがあったんだろうか、と疑いの目すら向けている。

反戦活動をするアーティストがいる。戦争反対を掲げて作品を発表している。戦争なんて「良くない」ことは誰の目にも明らかである。戦争によって利権を得ている人間は戦場に立たない。理不尽に背後から、上空から、下から攻撃され命を奪われることは誰でも避けたい。生きて帰りたい。帰って家族を、仲間を、友を抱きしめたい。できるだけ笑顔で過ごしたい。そういう答えが明らかな問題を作品によって語ることはかなり狡くもある。反論がありえない。答えがほとんど出ているものを提出することによって同調を得るようなやり方だとも捉えられかねない。作品にまでする意味がない。みんなそんなこと分かりきっていて、でもどうともできないから苦しんでいる。別に戦争のことだけではない。身近な人間関係の中だってどうともできない問題がたくさんある。だから苦しんでいる。

でも、こんな時世で毎日笑って過ごせる方が僕には違和感に映る。しわ寄せは必ずどこかにいっている。世界のどこかに緊張がかかり続けて、耐えられなくなってはじける。平和に見えるのはただ均衡が保たれているだけである。誰かが我慢している。明日死ぬ人は黙っていなくなる。「そんなに思い詰めていたなんて」と、全てが去ってしまった後になってから気づく。

 

僕は今のSNSが嫌いだ。物事は140字で語りきれるほど単純ではない。なにかを分かったような気になることこそ最悪なことだと思う。朝まで考えたって僕たちにはなんの答えも出せない。ステージの上から人を救うことはできない。1と不特定多数では心の芯まで響かない。一対一で話をすることしかできない。本当に苦しんでいる人には、他の誰でもない、その人のそばにいられるあなたの声が必要なのだ。その役目はアーティストや発信者だけのものではない。自分に価値がないというのは大きな間違いである。もしも評価がなくとも価値ならある。命をつなぐことができる。誰かに声をかけて一緒に飲みに行って悩みとかを聞くことができる。痛みを分け合って一緒に泣くことができる。話し合って理解することができる。言葉はそのためにある。でかいことをする必要はない。僕は偉くない。こんな文章を書いたり多少作品を作っているくらいで、他人と違う部分なんて何もない。我々は偉くない。人を助けることや愛することに偉さは必要ない。

命は重すぎるように思う。遠い国で、今日も誰かが殺されている。顔も知らない誰かが暴力を受けている。蔑まれ、差別され、苦しみと寒さの中旅立っている。何かを想おうにも遠すぎて実感がないほどにあっけなく人がいなくなる。大きい母数に関して想いを馳せるのは自分の実感が追いつかない。頭でわかっても想像ができない。なら、せめて近くの人だけでも、自分がいなくなると困ると思う人には思いやりを持っていたい。

僕たちはコンテンツじゃない。誰かの暇つぶしのためになんて生きていない。あなたは何をやっている人なんですかとか、そんなことはどうでもいい。何をしようとしているかだけで充分だろう。愛を奪われると人は不幸になる。愛というのは色恋だけじゃない。友人、家族、そのほかの場所にも愛はある。想うこと、そのエネルギーのことを僕は愛と呼んでいる。ただし、人の思いやりを、真剣な眼差しを、明日に希望を託す力を、そのために何かをしようとする勇気を心の芯で理解できない人間がいる。愛はそこにはない。僕は愛を持っている人たちと生きていたい。

 

まあ~良く分からない文章である。お察しの通りかなり混乱はしている。でも別に「酒を飲んでたんで」とかそういう言い訳はない。僕は今、狂気のシラフである。頭の中のモヤを全て理解する必要はない。そんなこと頑張ったって、僕にはどうせできやしなかった。「正しいと思うことをしろ」そしてできれば自分が楽しいことを、である。