哀愁

 

 

仕事場の斜向かいに保育園があって、朝そこに向かう時、ちょうど先生たちと一緒に散歩に出かける小さい子たちとすれ違う。カートに乗せられて運ばれる子たちに手を振って仕事場に到着するのが日課になっている。

小さい子はかわいい。僕のことをじっと見てくるので、僕も負けじと見つめ返したりする。笑ってくれる子もいれば奇声をあげる子もいる。小さい子というのは、自分が何をしているのか全然分かっていないような感じがするので見ていて面白い。これからいろんなことを経験して、いろんなものに出会って生きていくんだよなと思いながら、ガラガラと運ばれていくのを見送る。

そんなわけで仕事中も保育園からいろんな声が聞こえてくる。ピアノの音に合わせてみんな一生懸命に歌を歌ったりしている。ほとんど叫ぶような大きな声で元気がよい。キャーキャー言いながら遊んでいる。時々泣く声も聞こえる。転んだか、けんかでもしたのだろうか。たしなめる先生の声も聞こえてくる。

子供たちはジブリの曲とか童謡なんかを歌っている。「あるこう あるこう わたしはげんき!」元気な歌である。本当に元気なのだから説得力がある。僕だって小さい頃に散々歌った。今でも歌詞を覚えているくらい馴染みのある歌だ。

 

ある程度の歳になると童謡を歌うなんてことはなくなる。たまに思い出したりして聴きたくなって、某動画サイトで検索してみることもあるが、そんなことはあって数年に一度くらいである。

小さい頃はわりと奇声をあげたり大声で騒ぐのが楽しかったり、同じ曲をみんなで歌う一体感とか共有している感じが楽しくて、音楽の授業なんかでも一生懸命歌っていた気がする。そのうちもはや歌どころの気ではなくなって、友達と「どっちがより大声を出せるか」みたいな勝負になったりもする。

…ところが思春期を迎えると、急に大勢の前で歌ったりすることが恥ずかしくなって、ポケットに手を突っ込んだままぼそぼそ声だけ出すようになる。真面目に歌を歌うことが、なんとなくダサいんじゃないかという雰囲気になる。あの時、一体何がどう変わってしまうのか。あの無邪気な”元気”はどこにいくんだろう。

 

思春期というのは自我を形成していく時期だと言われる。今まで自分を守っていた保護者・または監督者、社会のルールなどの、様々な「言いつけ」と「自分の意思」とのすり合わせを行っていくのだ。精神的な自立をしていく重要な期間である。だから「言われた通りに何かをすること」と「待て、自分って本当に歌なんか歌いたいんだっけ?」というところでの軋轢が生じてくる。

それは「誰かの言う通りにするなんてなんか嫌だ」という反抗的な動機からかもしれない。そうすると、”なんとなく”学校に通っている自分、毎日何時間も言われた通りに席に座り授業を受けている自分を、そのものから否定しなければならなくなってくる。…勉強なんてしたくないんだよ。なんで?勉強って必要ですか?しないとダメですか?こういうことを大人に聞く子供は多い。こういう矛盾と数多く向き合わなければいけない。それが社会というものである。

自立した精神性を獲得する時期に、いつまでも守られ、できない・知らないことの多い子供のままでいたくない。自分の幼児性を否定したい。自分のことは自分で決めるし、自分でやれるんだ。そういう意味で「子供っぽさ」を嫌っている、ということはあり得る。

そして、いつの間にか言葉も感情表現もある程度うまくなり、冷静に簡潔に、自分の気持ちや意思を人に伝えられるようになる。”元気”に大きな声で表現をする機会なんて、歳をとればとるほどなくなっていく。

 

大人になる段階で得られるもの、できるようになることは多い。日本で暮らしていれば基本的には安全だし自由である。酒を飲むとか、車を運転したり、異性とそういう関係になるとか、夜中に外に出て遊ぶのも自由になる。時間は不可逆だから、人間はいつかそういう機会を得るし、そういうふうになっていく。別に望んでないのに濃いめの毛が生えてきたり、声が低くなったりもする。

そういう変化もありながら、人が大勢集まる社会がうまく運営できるように世の中にはルールやモラルとかいった決まり事があって、大体”そのくらいの”年齢になる頃には分別がついて、みんなができるだけゴタゴタせずうまくやっていけるように教育というものがある。経験、分析、そして改善と修正、その反復。反復をするといつの間にか慣れる。楽しかった歌も、何回か歌うと飽きる。

そのうち、まだそんなことやってるのかよ、もうそんな歳じゃないじゃんとか、◯◯はもう卒業したよ〜とか言い出す。社会の一員になるまでに一通り色んな経験して、せいぜい恥ずかしくない人間になっといてくださいね、となにかに言われているかのようである。まあ、それはそう。確かに恥は避けたいとは思う。

ただ、子供から大人になっていく過程が、成長とか向上とかの言葉でイメージ美化されているような部分があって、大体子供の成長というのは喜ばしくもあるから、子供<大人であるみたいな前提で話されやすいが、実際は子供にしかできないことも多い。

 

この前行った公園に、子供向けの小さめの遊園地があり、中でキャーキャー言って遊ぶ小さい子たちを見ながら、無意識だったけど僕は気づいたらベンチに座っていて、完全に(勝手に)”保護者”みたいな心境になっていたのだった。それに気づいた時、ああ、自分はもうあの空間には入っていけなくなってしまったんだ、と自覚させられた。そのアトラクションに、ものすごい境界と領域を感じたのである。大した高さでもなく、塗装も剥げ錆び付いて、簡単に跨げそうな柵が、どうしても超えられない気がしてしまった。

「子供にしかできない」と書いたが、いや、実際できることはできる。身体がでかくなったからサイズ的に乗れません、ということはまああるかもしれないが、できなくはない。できない、というより正しくない、と言う方が合っているかもしれない。自分がそこに入っていくことを、なんとなく認められないというか、不自然な気がするというか。…何が正しくないんだろう?小さい子に混ざって遊ぶのが恥ずかしかったんだろうか?

そういえば同じことを別の時にも思った。いつから川で袖や裾を捲らなくなったんだろう。いつから砂浜で裸足にならなくなったんだろう。いつからクモの巣を避けて、草むらを避けて歩くようになったんだろう。いつから木に登るのに靴の汚れが気になるようになったんだろう…いつから僕はこんな人間になったんだ?

せいぜい今やることと言えば、水際まで行って、ギリギリ濡れないところで手を伸ばして「結構冷たいわ」とか言いながら水をぴっぴっと払う程度。...いや、まあ水に入ること自体はできる。能力的な問題じゃない。靴を脱いで水に浸かるなんて、毎日風呂に入っているんだから少し濡れるくらいわけない。でも状況が違う。どうにも入る気にならない。仕方ない。足が濡れたあとに履く靴下の気持ち悪さを、すっかり身体が覚えてしまっている。”めんどくさい”のだ。そのあと30秒くらい風景の適当な動画を撮って、なにか得たような気分になって帰る。

…天気が良くて良かったよね、じゃない。そのデータ、あとでどうせ見返さないじゃないか。感動だってなにもない。いつの間にかそういう大人になってしまっている。

 

いつからそれらをめんどくさいと感じるようになってしまったんだろう。できることが増える一方で、いろいろなものを避けるようになっているのは事実だ。だから山や川や海、その他レジャーに参加するのに、わざわざ日程を決め、気持ちの切り替えと準備をしなければならなくなっている。

今では歌を歌うのにもカラオケにいかなければならない。それが許される場所にいかなければならない。ちょっとはしゃいだりした時、急に恥ずかしくなって「酔っていたんで」「ノリで」とかいう謎の免罪符を口にするようになっている。そんなもので許されることではないのに、時々失ってしまったなにかを取り戻したいと抗おうとしている。

 

…まあ、普通に考えれば街中で大声を出して騒ぐのは迷惑だ。繁華街でもないかぎりそんな人がいたら、自分だったら警察を呼ぶと思う。こういうものはルールやモラルとして世の中では守られるべきことだったりもする。山に登るのに装備を整えるのは救助隊とか各方面に迷惑をかける可能性を減らす意味合いがある。だから「体験が大事」という主張をもって、あらゆる制限を外すことが一概に良いとは思わない。

はっきり言えばこれはただの哀愁なんだ。しかし僕は自分に失望感を覚えている。体験を避ける、または選ばなくなる理由が、”分かっている気”になって経験の重複を避けることなんだとしたら、それはこの世界がどれだけつまらないか、同じことばかりがどれだけ繰り返されているのか、その証明みたいなものじゃないか。

 

スラムダンクで、桜木が安西先生に放った「オヤジの栄光時代はいつだよ(略)オレは今なんだよ!」というセリフがあるが、「いや俺はいいや」と言って、今まさに生きている実感を味わうためにするべきこと、した方がよかったかもしれないことを、あまりにも恥を遠ざけたり、めんどくさがることで、そういう機会をいくつ逃してきたんだ?

だいたい、生きる実感を遠ざけてるから鬱なんかになるんだよ。生きることは本当はかなりめんどくさい。めんどくさいことしかない。おまけにつらい。苦しい。

「めんどくさい」ばっかり言ってたら、せっかく生えた濃い目の毛も抜ける。で、後になって「昔あんなに生えてたのに」とか言うんだろ。ピンクフロイドの「Time」、昔何十回も聴いたけど、また頭を殴られる気分だ