読んでいる人へ

 

 

下世話だが、このブログを更新すると大体平均していつも30人前後の人が読んでいるらしい。ありがたい話である。アクセス数が見られるページがあって、多少の変動はあるもののいつも大体そのくらいのカウントがされる。たまに会う友人も「毎回じゃないけど読んでるよ」と言ってくれることがあるので、時々だとしても入れ替わり立ち替わり、読むのをやめないでいてくれる人がそのくらいいる、ということになる。

人間(ホモサピエンス)の仲間だと言われる類人猿…つまり”サル”は、平均した場合ひとつの群れに30〜50程度の個体が属すそうである。中には100頭を超す群れもあったりはするようだが、そういうわけで人間が個々をきちんと意識または交流できる人間関係の広がりというのは、およそ30〜50人が限度であると言われる。学校のクラスなんかはそういう理屈で分けられている、みたいな話を聞いたことがある。SNSがうまれて、やれフォロワーが何万だみたいな文句が出て、1人が関わりを持てる人間関係の数が青天井になったかのように思われても、その中で実際にコミュニケーションを取ったり、相手に深く共感したり、個人的な付き合いになっていくような人の数…人間の”懐”みたいなものは変わらない、という指摘もあるくらいだ。

誰が読んでいるのか、僕はもちろん一人一人の顔を把握しているわけではないが、この「30」という規模は僕の言葉がギリギリ人の温度を失わずにいられるちょうどいい数字(だと思っている)なのだ。この数字が多いのか少ないのかは知らないが、しかし僕にとっては「確かに誰かに届いている」ということを自覚できる、非常に重要な数字なのである。「誰に見られてる」とか「どのくらいアクセスがある」ということを考え出せば、今後どこかでいやらしい意識が出て色々いらんことになっていく気がするから、今はこの人たちにだけでもきちんと届いていれば充分、である。もし、なんかのはずみで少しずつ閲覧者が増えていって、もし、いつか文章が世の中に広く出ていくようなときがくるとしても、この感覚を忘れないでいたいと思う。

 

インターネットで作品を発表するのは非常に簡単なことだ。サービスに登録してアカウントを作り、定期的に更新するだけでいい。それだけで世界中のどこからでもネット環境さえあればそのページを見ることができる。ただそれは、実際に人の目に届いているのかというのとはまた別の問題で、登録だけしてもいまいちフォロワーも増えないし、ビュー数(嫌な言葉だ!)も伸びない…なんてことで悩む人はおそらく多い。

ネットに対して言葉なり何かの意見なり、または作品なりといった表現を残すということは、単に「視線に晒される」機会を作るだけのことで、いかに人の目にそれを打ち込むかというのが課題なのである。残念ながら僕にはインフルエンス能力が皆無のため、こうしてひっそりダンゴムシのようにインターネットの隅っこで文章をしたためては公開し、「誰かに届いていたらいいんだ」という若干言い訳にも近いようなことを言いながら、自分のペースで表現を続けているわけである。

 

表現をして生きていくということに憧れのある人はきっとたくさんいる。なんだかかっこいい、みたいな言葉をかけられることがたまにあるからだ。しかし実際は憧れられるほど良いものではない。やっている本人は結構ギリギリと不安、あと小恥ずかしさと後悔、自分の表現が絶対に正しいのだという傲慢とそれを支える理屈、それから批判・批評、表現活動の裏にある現実的な問題と向き合っていかなければいけない。かと言って誰かの命を救って表彰されるみたいなこともまあ…ない。コロナウイルスが流行して多くの芸術や文化活動に携わる人が助成金や給付金を頼らざるを得なくなったことが、まさにリアルな部分そのものである。散々好き勝手なことをしておいて、いざとなったら自分たちは「救われる側」だったのだということを分からせられて、僕は自分のやっていることに疑問を持ったりもした。

なんか偉そうに書いているが、実際僕は表現活動だけでは飯を食っていないから、たまに金になることはあっても別で仕事をしないとこういうことを続けられないわけである…このようにちっとも褒められたものではない。たまたま好きなことが「こういうこと」だっただけで、別に表現が高尚な行為だとは思わないし、勝手に苦しくなって悩むし、鬱になっておかしくなったり…

書いていて結構辛くなってくる話ではあるが、僕の現実はそうだったわけである。それでも僕がなぜ、美術であったりこういう文章を書き、また、懲りもせず今度は「小説を書いてみたい」と言い始めたりしたのかといえば…それが自分にもよく分からない。理屈で「これがこうだから」などとははっきり言えないものである。やりたいことには大体理由なんかない。やりたいからである。

 

しかし動機となるものはある。熱、と僕は呼んでいる。何かを見た時・知った時とか、何かに”気づいてしまった”時に身体の心臓のあたりがカッと熱くなって、血が滾って吹き出してくるような…そういう”アツさ”である。それは誰かの作品だったりたまたま見たニュースであったり、出会った人の言葉だったり様々ではあるが、そういうものが世の中にたくさんあって、だから、その時に感じた熱を放出するというか…体温が上がったとき、なにかせずにいられなくなるのである。熱に動かされているからあんまり自分の意思とは関係ない感じがする。今だってこの文を書きながらそこまで頭を使っていない。自分でよく分からないまま、手が動くので書いている感じである。

好きな人とかがいたら深夜にラブレターを書きたくなるようなことに似ているかもしれない。僕は書いたことがないので分からないが多分そういうものなんだと思う。夜中に思い立って一気に書き上げ、朝見返して恥ずかしくなって破り捨てる。いわゆる「ラブレター現象」である。でもなにかを伝えたくて、書いては消し、また書いては消し…そんな感じだ。誰でもこういう衝動は持っていると思う。

 

10年くらい制作活動してみたところ自分の矮小さがよく分かって、実はそういう衝動を与えてくれるものの方が尊いじゃないか、ということを考えるようになった。ラブレターでいうところの「それを深夜に書かせてしまうような存在」である。身体の中に熱を感じさせてくれるような、そういうものの存在だ。だって、それがなかったら世の中にはなにも生まれ得ないからである。

この前電車の中で好きなバンドの曲を聴いていてなんだか泣けてきてしまい、久しぶりに世界が鮮やかに見える瞬間があった。僕は彼のつくる音楽を聴くとき、この人が生きていてくれれば、この人の作品が世の中にそして自分と共にあってくれたら、今後何があったとしても大丈夫なような気がする…とすら思うのである。少しだけ光って輝いた世界に、僕はなんとなく希望を見つけることができて、それでなにか、また胸の内が燃えるような感じがした。

考えてみればこれはめちゃくちゃ凄いことである。僕は確かに希望を感じている。彼の音楽に熱を伝染させられたというか…僕個人の主観ではあるが、確かに世の中に存在している、僕にとっての「それ」である。美術の作品をやっていたときにはいまいちそういう実感がなかったのだが、奇しくもこうして「なんとなく」始めたブログの…この吐き溜めのような文章を面白がってくれている人の「30」という数字が僕にとっては大事なものだし、どうしようもなく嬉しく思うのである。誰かは知らないが、こうして発信していることを受け止めてもらっていることに僕はものすごい熱を感じる。中には初めの方からずっと読んでくれている人もいる。

逆に考えればどこの誰かも知らないような、作家に片足突っ込んだ死に損ないの文章を面白いと思って読み続けてくれている。誰から勧められたわけでもないだろうに「なんかこれ面白い」と思った自分の感覚を信じている。売れているものについて騒ぎ立てることは誰にでもできる。世間の評価もないようなものに対して、自分の感覚を信じて反応をくれる人の言葉、態度や存在だって、紛れもなく一つの熱であり、それこそが世の中に何かを生みだす原動力にもなるのだ。

 

読み手を意識した感じになってしまったが、こういう媚びる感じのことはキモいからもうこれっきりにするので、それでも伝わって欲しいと思った。いつも読んでいただいてありがとうございます。