青春の輝き

 

 

年末年始に「全国高校サッカー選手権」というのがある。いわゆる「選手権」と呼ばれ、国立競技場で決勝を行っている”あれ”だ。僕はそれが結構好きで毎年楽しみにしている。オンラインで全試合中継・配信もされていて、予選の段階から注目選手や話題の高校に目をつけ観戦するのが恒例になっている。数年前インフルエンザにかかり寝たきり正月をおくっていたとき、たまたま決勝戦の中継をやっていて、元々サッカーは好きだったからなんとなく観始めたのが始まりだった。

 

その年は某強豪校がめちゃくちゃな強さで、決勝にもかかわらずかなり点差がひらいてしまったのだった。僕はもう一方の高校を応援していたのだが…残念ながら点差を返すことはできず、そのまま負けてしまった。たしかどちらの高校も優勝経験がなく、「どちらが勝っても初優勝」ということもあって会場の盛り上がりも印象的だった。負けた高校と僕はなんの縁もないのだが、テレビの前で見ていただけなのに試合終了のホイッスルが結構悔しく聞こえたから、感情移入するものがあったんだと思う。点差こそあったものの…いい試合だったのではないかと記憶している。

選手権というのは全国大会だから、出場するのだってそう簡単なことではない。彼らが全国のトップレベルの選手たちであることは言うまでもない。高校を卒業してすぐプロになる子だって当たり前にいる。だいたい、強豪校でレギュラーになるような選手というのは言ってみれば”エリート”ではあるが、そういう選手たちが毎日「それ」だけを目標に生活の全てを注ぎ込んで立てるか立てないかという舞台…想像するだけで険しい道である。

それが、決勝まできてあと一歩のところで優勝に届かず、高校3年間のサッカーを終える...どういう心境なんだろう、と僕は思った。「やりきった」という清涼感があるものなんだろうか。彼らの努力を知らない僕は、彼らがここまで積み上げてきたことがなにか音を立てて崩れていくような…そんな想像力でピッチに座り込む選手たちを見ていた。

終わった、と思い、僕はチャンネルを変えようとした。カメラはお互いの健闘を称える選手たちの姿をとらえていた。ところが、パッと画面が切り替わって負けた高校のキャプテンが映ったとき、僕は頭に電撃が走るような思いがしたのだった。音声は放送席の大会の総括コメントを拾っていたから声は聞こえなかったが、彼は相手の選手と握手しながら…確かに”おめでとう”と口を動かしていた。目からは涙がこぼれ落ちていた。悔しいに決まっている。彼はそれでも笑顔だった。相手へ最大限の賛辞を送っていた…

 

僕はたった一瞬…その一瞬に、なんだか凄まじいものを見た気がした。それ以来「高校サッカー」に心を掴まれてしまったというわけである。僕も一応はずっと運動部に所属していたが練習が嫌いで、大して上手くも強くもなく、飽き性で小・中・高と全て競技を変え違う部活に入り、試合にもほとんど出られないような人間だった。だから例えば「小学校の頃から大学までずっとサッカーをやっています」というような、一つの競技や世界に対して多くの時間と力を注ぎ込んでいる人に尊敬がある。一つのことに対して熱中できる才能…とでもいうのだろうか。僕には実感が持てないが、例えば試合に負けて悔しいとか、練習が面倒臭いみたいな気持ちも時々は抱えながらも、競技自体を好きだと思えなければとても10年も続けられないと思うのである。

振り返ってみると僕にはずっとそういう「アイデンティティにすらも代わる」ようなものはなくて、興味が散って好きなものも変わるため節操なくいろんなことをやってきた。興味が出てやりたいと思ったものは自分なりに体験したので、趣味と言えるようなものこそたくさんあるが、それは「一つの道を進んできた」というような強い実感ではないから、ずっと中途半端な…言ってみれば「所在」がないみたいな感覚で、なにかを通じて自分のことを語ることができなかった自分へのむなしさとして、今でも心のどこかに無意識に、そういうものを埋めようとしているのかなと思ったりする。

そう考えると、おそらく僕にとって「制作」や「作品」というのはいつの間にか自分のことを語るものになっていたのだと思う。誰かに会うときに自己紹介として「美術の作品を作っています」というふうに話すことも多かった。実際なんとなく作品を作り始めてからは、20代の熱量のある時間のほとんどを作品にかけていたし、誇張なくずっと作品のことを考えていた。だから…僕がなにか一つのことに心血を注いだ初めてのことが美術であり制作だったといえると思う。…まあ間違いなく、美術は僕の青春だった。

 

それがいつの間にか…作品を作れなくなって、美術館やギャラリーに行くのもしんどくなり、知らない人の活躍をSNSで見るたびにため息が出るようになった。自分が今までかけてきた時間も虚しく感じた。今まで生活の大部分を占めていたものがなくなったことで心に大きな穴が開いたような感覚があった。

真面目に制作をやっている人からしたら「心についた火を守れなかったお前が悪い」と言われてしまいそうだが、別に共感して欲しいとも思っていない。何か事件があって誰かにやる気を消火されたとかいうわけでもないし、感覚的には自分の意思で新しい薪をくべなかったと言う方が正しい。それも急に…なにかが切れたように冷めてしまったのだから自分で驚いている。今僕のもとに残ったのは大量の材料・素材、それから工具、わくわくしながら買った好きな作家の画集…

いつか大きなギャラリーで度肝を抜くような面白い展示をしたい、と割と本気で思っていたし、いろんな人と話をしてどういう作品を作るべきかとか、何を残すのかとか結構真剣に考えていた。本当にたくさん考えた。そういう熱も去ってみるとあっけないもので、終わるときは早い。追いかけても待ってくれない。でも、なんとなくそれも分かっていたというか…だからこそ「やめたら終わり」だと思って食らいついていたのだ。一回やめたら…もし”終わった”ら、もうダメになると思った。だからやる気に頼っている場合じゃないんだ、と…

しかしノイローゼみたいになってしまってたから、どの道そう長く保たなかっただろう。あのまま食らいつくように精神的に無理をしても、もしかしたら…まあ良い作品ができた可能性もあるが、絶対にどこかで糸が切れてやっぱり終わってたんじゃないかと思う。巷ではいろんな人が自分なりの成功を語っているが、世の中には挫折とか失敗だって当たり前にあるわけで、SNSを見ていたらまるで世の中のすべてがうまくいくかのような錯覚を覚えたりもするがそんなはずはない。リアルとはこういうことだ。「夢を持て」「やりたいことを探せ」としきりに言ってくるモチベーターみたいな人間は多いが、叶わなかったり途中で挫折した後のことは誰も教えてくれない。実際そうやって失敗して死を選ぶ人だって世の中にいるのだ。できれば転ばない方がいいに決まっているが、まあうまくいかない。転んだ後、どうやったらまた起き上がれるんだ。どうやって奮い立つべきなんだ。「辛いならやめてもいいんですよ」じゃない。辛いのなんてわかった上で、本当は..できるならやめないで頑張りたいんだよ。

 

何かを成しえた人だけを「成功者」として取り上げられると、それに純粋に感心したり尊敬を向ける一方、そうでない自分がものすごく惨めに思えてくることがある。この人たちと自分は違っていて、自分にはなんの能力も才能もないのではないかと…。でも、比率で言えば世の中では明らかに何者でもない人の方が多い。スポーツの現場で言えば、優勝以外はすべて失敗だということになってしまう。一握りの栄光以外、全て「無駄」?...だとしたら僕みたいなのは「失敗」ってことになるのか?

失敗なのか成功なのかはまあ置いておくとして、やっぱり何かが得られるためにとか、成果や目標のためだけの行動ってあまりにも辛すぎるというか…そういう勝負の意識も必要なんだろうが、僕は”あの涙”がどうしても心に刺さったままずっと抜けなかったわけで…何かに対して打ち込むとか命を燃やすということの意味が、あの一瞬にすべての答えを見たような、そんな感覚があったのだ。

成功とか失敗とかではない。そもそも「描くこと」「作ること」を「商売にする」と同義で捉えられることはとても多い。作家をやっているみたいなことを話すと、まず第一に飯を食えてるかみたいなニュアンスを受け取ることがあるが、売れてる=職業作家、という図式があって「飯を食えて一人前」みたいな暗黙の認識は確かにある。いや、飯なんか食えてなくても良い作品作ってる人はたくさんいるだろう。それができて初めて「作家」や「アーティスト」のはずなのに、なぜこんなにも資本的な価値観と結びついてしまっているのか…。

やめなきゃいいのだ。売れなくたって、自分の好きな絵を描いて、額に入れて部屋に飾っておくだけでも、絵を描く意味がある。創作活動が資本と簡単に結びついて語られることの方がおかしい。そもそも芸術は成果のためになんかない。人の命なんか救えないし、病気も治せないし、デカくて邪魔で難しくて、よく分からなくて…無駄だ。無駄なものだ。でもそういう無駄がなくなったら、僕たちはどうやって生きていけるのか?人生を結果で考えるならどうせ死ぬんだから(それだけは絶対に決まっている)今すぐ死んだ方が経済的だし合理的である。でも死はあんまり良くないよね、ということになっていて、死なない。記憶は残らない、金も名声もあの世には持っていけない、と言いながら、それを求めて生きていることそもそもに矛盾がある。なら人生の意味はなんなんだ?人生そのものが無駄…非合理じゃないか。

決勝で負けた彼らは「失敗」だっただろうか?競技に負けたことは事実であるがしかし、何も根拠はないが、彼がサッカー人生でなにか大きなものを手にしていることは直感で分かる。無駄や失敗はあり得ない。僕たちはそういう経験をするために生きていると言ってもいいだろう。やったことはなくならない。たとえ無駄だったとしても、一生懸命になにかに向かったことは、絶対に嘘ではないと思う。作品を考えている時間、美術館で感動して鼻息を荒くしながら帰った道、アイデアを思いついて頭に電流が走る瞬間、どうにも作品が展示に間に合わず泣いたこと、批判されて怒ったりしたこと、難しい本を読みながら寝落ちしたこと、明日が明るくて輝いていて、楽しみで仕方なかったこと…全部、楽しかった。幸せだった。

僕が僕なりに人生かけた時間あの青春が正しかったのかは知らないが、間違っていたとも思わない。今はそこまで悲しい気持ちはない。だってまたなんとなく僕は文章を書き始めている。なにかまだ話したいことがあるんだろうと思う。だから、次のやりたいことに向かっていくだけである。人生は巻き戻らない。進むしかないのだ。