懺悔

 

 

SNSというのは恐ろしいものである。僕は大変に恐ろしいと思っている。とはいえ一応は僕もアカウントを持っていて、自分が制作をしているから、そういう関係の人をフォローしたりする。ギャラリーに属さなくても、自分の営業と発信次第で作品を多くの人に見てもらうことができるから、作品を作って発表していくなら使わない手はない…と思う。実際今まで何人にも言われた。「もっとSNS頑張った方がいいよ」「売れる気ある?」...など。

売れる気はなくはない。飯が食えたら一番いい。でも食う以上に、自分が納得したいという気持ちもある。だから金はやりたいことをやった後でついてくれば……いや、わかります。そんなこと言っているからイマイチ活動に勢いがないのだ。まあそれは自分で分かっている。

…という言い訳はさておき、僕の通っていた大学には大きく言って「金じゃねえ」派と、「いかに金にするか」派の2パターンがいたように思う。厳密に言えば「金じゃねえ派」もできれば売れたいと思っているし、「金にしたい派」も自分の世界を追求する意識を持っているから単純な図式にして表せるものではないが、それぞれが取るスタンスによって卒業後の活動が大きく変わっていくのである。特に大学卒業から10年ほど経った現在はそういう差が結果として現れ始める年代でもある。そしてそれは時に作風に影響を及ぼしたりもする。セールスの問題は美術だけでなく、例えば音楽のような、その他の創作の世界においても同じことが言えると思う。

 

僕は自分のテーマに向かって考えを深めていく過程を楽しんでいる節があるので、どちらかというと前者の立場を取っている、と思う。前者と後者が二分した構図で語られることが多いのは、「金=対価」という前提があるからで、世の中に価値を提供するか、なんらかの需要に応えた結果として対価が発生するわけだから、売れるものを作るというのは、つまり自分の個人的な欲求よりも他者の価値観を優先するということでもある。美術に限らず、市場の中にあるものは全てそういうルールの中にあるわけだ。

ある程度うまく自分でその塩梅をコントロールしなければ、作品の価値判断は常に世の中に委ねられていることになる。時には誰かが「欲しい」と言う形に作品を歪める必要が出てくるということだ。周りにもそのことで苦しんでいる作家もいるし、僕自身も悩む。これはどっちが良い悪いみたいな問題ではなく、自分がどうやって今後の数年〜数十年を生きていくのかということに直結するし、自分の制作の姿勢やテーマとも結びついてくる問題なのだ。極端な例ではあるが、反体制をうたうような作品をやっているのにめちゃくちゃ権力主義みたいなところで出展したら、言っていることとやっていることが全然乖離していて作品の説得力がなくなるわけで…だから「売れる・売れない問題」は生き方そのものなのである。

…まあ金というものは決して悪者ではない。あればあるに越したことはない。金があった方がいろんなチャレンジができる。めちゃくちゃすごい機材とかを入れて、制作に没頭できるかもしれない。時に誰かを支援したり、新しい表現活動を始めることもできる。僕も結構リアルな年齢になってきたので、金は大事だという考えになっている。夢で飯は食えないからである。コンビニの廃棄弁当とかをもらって食いつなぎ、身を削って作品を作るアーティストもいたりするが…正直僕にはそこまでの根性はない。甘いとか言われるだろうが、それも僕の選択であり、作家人生である。

 

SNS上にいるアーティストというのは、一言で「アーティスト」と言ってもいろんな境遇を持っている。みんな生まれた場所も見てきたものも考えていることも違う。だから当然作るものが違う。作品のかたちはもちろん、やっていることも、やろうとしていることも違う。サッカーとフットサルくらい違ってくる。いや、もしかしたらサッカーと野球くらい違うことすらある。もはや別競技をやっているに等しい。

クラスタ(あるいはコミュニティ?)というのは、ある思考の共通点みたいな似ている部分であったり、メッセージ性やら作品が持っている意味とかを分類して形成される。ギャラリーはそういう仕事をして所属アーティストを選んだりする。だからサッカーのチームに野球選手が入る、みたいなことはあまり見られないように思う。もちろんアーティスト個人個人でいえば、そういう分類やジャンルの違いを超えてコミュニケーションをとることはある(例えば音楽家と画家が、とか)。でも結局人は人を通じて知り合ったり繋がったりするものだから、同じようなものを目指して活動している人同士が強いつながりになっていくことが多い。これは別に芸術に限ったことではない。価値観とその共有がどうやってなされるか、みたいな話である。

ただし、SNSはそういうクラスタを分類しないから、あらゆるアーティストが同列に並んでくる。SNS上でわざわざ思想の違いや活動の仕方まで考慮して作品を見ている人はほとんどいない。理解の深い人とか芸術をよく見る人なら分別が効くだろうが、多くの人がそこで目にする差といえば「フォロワー」という数値のみである。そして大体の場合、そういう数値っぽい価値が優先される。…特に現代では。「フォロワーは戦闘力である」みたいなことを誰かが言っていた気がするが、全くまさに、だ。

そういう状況では作家の中でも”数値”の獲得を目指す人が出てくる。能力主義、エリート思想みたいなものが強くある社会の中ではいかに自分に能力があるか・優れているかを証明するために数値は重要な意味を持つ。いろいろな場合があるが、人に作品を見せて話題を得て展示の機会を得るとか、発言力を持つとか、自由にやりたいことをやるための影響力を得るためにそうするのである。何かを作る・あるいは活動する以上、人の前に出ていきたい、作品を見て欲しいと思うのは正直な気持ちなのだ。

 

概要…というか前置きが非常に長くなったが、そういう作品を広めるため・そういう宣伝を担うサービスやコンペティション(または”アートウォッチャー”と呼ばれるような個人の場合もある)が今、世の中に多数存在している。作家にとっては非常にありがたい話ではある。うまくいけば自分の認知度を上げられるからだ。SNSにおいては特に顕著に見られていて、そういうものをチェックしておくと、今”ノってきている”作家がわかるし、面白そうなアクティビティにも敏感になれるから、多くの人が利用したりフォローしたりすることでプラットフォーム化していくのである。人が集まるメディアは…強い。

僕のような弱小アカウントでも、少し作品の写真を投稿すると「展示しませんか」というDMが来る。まあ正直こういうのは内容はほとんど決まっていて、少し話を聞こうものなら「金を払うなら宣伝してやるよ」ということを、ものすごく耳障りのいい言葉で言われるだけである。アーティストというのは広告的に成功している一握りの人以外は金に余裕なんかないのに、どうしてそこからさらに金を毟ろうと考えるのだろうかと疑問に思ってしまう。広告して作家を支援したい、と言いながら金は取る。アートなんてよくわからないとか誰にでもできそうだとか馬鹿にされてもいたのに、アートの持つ力、みたいなことを急に社会が語り出して、いつからアートがそんなに期待されるようになったのか、違和感すらある。金になるからか?

まあ別にSNSに限った話でもない。今までもいくつもそういうチャンスがあって、何度も期待して打ち合わせに行っては話の途中で落胆し、帰りの電車の窓から流れる街を眺めながら自分の非力さに打ちのめされる。これは誰かが悪いわけではないと思っている。この文章は誰かを糾弾したくて書いているわけではないということも分かっていただきたい。あえて言うなら強くて価値のある作品を作れない自分が悪い。あと、こういう世界で勝負すると決めたんなら、いちいち文句を言わないことである。フェアじゃないから。「作家は社会の底辺である」とは村上隆氏の言葉だ。

 

もちろん世の中そういう人ばかりではなくて、正しく芸術の価値を見ている人がいるし、公平に作家の立場を守ってくれる人もいる。作家1人が尋常でない頑張りをして世の中に作品を浸透させることは、はっきり言って難しい。だから役割と協力なのだと思う。そしてその協力がちゃんと得られる世界はある…出すところさえ間違えなければ。

でもSNSは僕が言うところの「世界」ではない。作品を利用して数値を稼ぎ、個人的な承認を得ようとする人間は山のようにいる。何度も言うがそれが悪いとか許せないとか、弱っちい告発のつもりはない。SNSの仕組みからいえば作品がそういうふうに扱われていくであろうことは自明である。リテラシーの問題がどうとか言っても、それを観る側に求めるには限界がある。どうしたって考え方の違う人間はいるわけで、それをいちいち指摘して正すみたいな義理はないし、正義感だけでそれに付き合う体力もない。

作品が金にしか見えず、他人の創作物の無断転載で承認欲求を満たし、無償で働かせ発想だけ頂こうとしたり、足下と評価を見て対応を変える…こういう人間たちが芸術に飛びついてきて、なにか言葉で言い知れないものを踏み荒らしていく。そんな印象を持っている。

 

僕は一度だけSNSで作品が拡散された。僕ではない、誰か他の人が投稿した僕の作品の写真が、である。僕の名前は特に投稿に書かれなかった。回り回って僕の作品が急に僕のタイムラインに表示された。僕も一度は、その数字と拡散力を見て、少しだけ浮かれてしまった。広告してくれてありがとうございます、と思った。その人のアカウントに飛んだら、アート界隈にいるらしい人だったから、能天気に「評価してくれる人いるんだ」とかを思った。別に写真撮影が禁止だったわけではないし、「紹介や広告の意味で作家の名前を一緒に投稿しましょう」みたいなルールがあるわけでもない。その人は別に悪いことをしたわけではない。

…でも、なんなんだこれは?と後になって思った。その投稿を見た人はただ「なんだかよくわからない変なもの」に、なんとなくハートを押して、夕方のニュースを見るような感覚で流して…多分忘れたと思う。当然僕になんの反響もあるはずもない。自分でもよくわからないまま、軽い気持ちでそれを許して、安い感情に委ねてしまった。作品を叩き売りしてしまったような気持ちだけが残った。なんであんなことをしてしまったのだろうか。どうして自分の作品を自分の手元に引き寄せようとしなかったのだろうか。どうして自分の作品が勝手な切り取られ方をするのを許してしまったんだろうか。確かその人に「紹介ありがとうございます」的なDMを送った気さえする。馬鹿。何やってんだよ。僕は自分で自分の感情を粗末にしたのだった。最悪な気分になった。

僕でさえいろんな人に会った。今最前線で活動している作家の人はもっとそういう経験をして、悔しい気持ちを堪えながら制作したりしているのかもしれない。踏み荒らされるのは作品ではなく、作り手の心と感情である。なにかを世の中に生み出しているんだから作家は偉い、とか言いたくないが、利用されたくはないし、騙されるのも嫌だ。二度とこんな気持ちになりたくないと思った。

SNSをやるようになってから、作品でなにをやるかより、作品をどうやって管理していくかを悩むことが増えた。いや、まあ確かにそれも大事なことではあるんだが、なんか