苦手だけど好き



得意だから好きなものがある。僕にとってそれは絵を描くことだったり、造形をすることだったりする。ここでいう得意というのは「誰かと比べて上手い=得意」という意味ではなくて、自分の頭の中に思い浮かんでいる微妙な線を、僕の手が思った通りに上手に表現してくれるという運動神経的な話。そういう絶妙な仕事をしたとき、やってやったという気持ちになるし、自分に対して「さすが」と思う。これは小さい頃から「そういう」形が欲しくて、何度もやり直して、納得いくまで作り続けてきた積み重ねからくる自分の腕への信頼だ。もちろん、他の人と比べてしまったら、僕よりも器用な人はたくさんいると思うし、技術の優劣の話には終わりがない。多少上手いとはいっても、毎日造形している人に比べたら、僕なんて本当にたいしたことはない。
苦手だから嫌なものもある。僕は基本的に苦手なことは一切しない人間なのでパッと思いつかないけど、例えば、ハロウィンの渋谷にいきなり一人で転送されるとする。もしそんなことになったら、多分嫌な顔をして、イヤホンで音楽を流し、できるだけ人のいない路地から早歩きでそのエリアを離れると思う。知らない人にハイタッチなんか求められたら、もしかしたら舌打ちしてしまうかもしれない。多分これは僕がその人たちと仲良くなりたいと思っていないからで、心の門戸の問題なんだと思う。ものすごくハッピーな気分の時に転送されたらハイタッチくらいならできるかもしれない。意外と行ってみたら楽しかったり溶け込めたりするのかもしれない。自分が苦手なイメージを持っているだけで…


好きや嫌いには理由があるものだ。感覚で「何となく」そう思う場合とか、自分の知識とか経験に裏付けられるものの場合、ある論理構造に対して自分が納得をして、それを受け入れる場合などがある。好意的に思うから好き、否定的な気持ちになるので嫌いとか、かなり単純な因果関係を持っている場合が多いと思う。

でも、こういう感覚と評価には、時にちょっとしたズレが生じると思っている。嫌いだけど好き、みたいな恋愛ドラマにありそうな矛盾した愛憎というのも世の中には存在する。白か黒かのグラデーションの中に、「苦手だけど好き」なこともある。今回はそのことについて。



僕にとってそれはスポーツだ。僕は、正直言って運動が苦手だ。「体育」の成績はそんなに良くなかった。足は遅くなかったけど、速くもなかった。学校の授業やクラブなどで今まで得てきた評価は決して良くない。こう見えてずっと運動部に入っていたけど、あまり充実していたという記憶はないし、一生懸命試合に向かって努力するみたいなこともなかった。義務的に練習に参加して、「いやだなあ」と思いながらランニングをして、やりたくもないシュート練習とかをやって、一応ひと仕事終えました、みたいな顔をして汗だけかいて家に帰る。でも、評価は全くされなかったけど、身体を動かすのは好きだから、個人的にランニングとかはする。今でも時々スポーツをしたりする。制作仕事をしていると結構体力が必要なのだが、寝てばっかりいると身体が動かなくて、そっちの方が自分にはストレスなので。

 

学校に通っているとやっぱり足が速い方が褒められるし、みんながみんな得意なわけじゃないのに記録を伸ばせ、などと言われる。人が運動嫌いになってしまう原因の多くは、画一的な評価軸をもつ教育制度によるものなのではないか。別にこれを否定しようとしているわけではない。僕がいた大学は美術や音楽などの文化が好きな人が多くて、その中ではやっぱりどこかで「体育」に見切りをつけた人がいた。そういう人と話していると、意外とみんな「運動は苦手だけど好き」と言う。好きなのになんで苦手なんだろうね、と話していたら、もしかして「体育」のせいなんじゃないか、という結論になって、面白いなと思った。

「体育」というのは、いわゆる軍隊教育の名残りらしい。列を揃えて、声を出し、みんなが同じ行動を強制される。兵隊の訓練みたいなところがある。当時はそんなこと不思議にも思わなかったけど、考えてみれば「前へならえ」なんて、運動に全く関係ない。そういう教育の当たり前の中で、自分のフィジカル能力を否定せざるを得なかった人は結構多いんじゃないだろうか。最近の子供たちがどんな授業をしているのかはわからない。結構自由になってきているという話もたまに聞くから、時代によって変化していくみたいだ。

僕はもう随分前に自分のフィジカル能力に見切りをつけたから、自分の中で運動は「楽しむもの」になった。下手でも楽しかったらいいと思う。最初は誰でも初心者だし。記録が良くなくても、だらだら長い距離を走ったりするのは気持ちがいいし、最近はフィットネスブームとかで、自分の身体をデザインするみたいなことも流行っている。(個人的にはこれに関しては思うことがあるけど、別の機会に)

 

スポーツには競技的な側面もあるけど、同時に個人的なものでもあるというのは、実はかなり重要な考え方なんじゃないか?と最近思ったりする。だからこそ、プロとして運動を続けることを選んだスポーツ選手には素直に尊敬を持つ。本当にすごいと思う。テレビでスポーツを見たりするのは好きだ。今ちょうど、カタールW杯が放送されている。タイミングがいいなと思って、考えていたことを書いた。苦手だけど好き、みたいなことがもっと自分の中で認めれらたら、意外と「自分にはやれない」と思っていることを克服して、充実感を得られるかもしれない。
ちなみにこの記事の投稿日は日本の初戦。ドイツ戦。リーグ突破は難しいんじゃないかといろんな人が言ってるけど、僕はもしかしたら…があるんじゃないかと思っている。勝ったらうれしいから普通に応援します。ロシアの時だって「おじさんJAPAN」とか散々揶揄されたけど、いい試合をしたじゃないかと思う。ネットの意見は参考にならない。今のうちに逆張りしておきます。


最近、「サッカーはファウルになった時、いつまでもピッチにゴロゴロしているからセコい」とか、「スポーツマンシップもくそもない」という声を聞く。個人的にはあれもひとつの技だと思っている。(確かに行き過ぎな選手もいますけど)
まず大半は普通にめちゃめちゃ痛い場合が多いと思う。それで無理して立ち上がって逆にパフォーマンスが落ちてしまうことの方が問題で、試合中に接触して倒れれば、プレーが中断されて、味方がフォーメーションを整えたり、意思疎通を取れる時間を稼げる。サッカーはコートが広いので、声が届かない場合があったりもする。
あと、接触して倒されたら、味方は一人少ない状態で戦わなければいけないわけで、現代のシステム化されたサッカーでは、一人足りない状況がかなり不利に傾いてしまう。いかに連携するかが大事。そうやって悔しい思いをするくらいなら、正直得られるものは得た方がいい。というか、個人的な能力でいうと一部の超一流の選手以外みんな上手いので、そのくらいの小さな差が勝負を決めてしまうことがあるわけで。日本には敗者の美学というのがあるので、セコい手を使うくらいなら潔く負けた方がいい、というのもあるけど(自分もめちゃ分かる)

「勝ちにこだわった」の結果、不満に思う人が増えていて、誤解を解けないかな…と思いました。今日11/2322:00からです。