世界は誰かの需要でできている

 

 

僕は作品制作のかたわら時々内装業をやっている。あるお店の壁面を塗装するとか、什器を納品するなどのいわゆる職人仕事だ。主に飲食店や店舗系の仕事が多い。こういう仕事をしていると、街にあるお店とか施設とかを意識して見てしまうのだが、都市のリズムというか、入れ替わりの激しさに驚く。ついこないだまでお店だったものがいつの間にかなくなっていて、すっからかんの状態になっていたりする。そうかと思えばすぐに工事が始まって、新しいお店ができたりする。人気のエリアであれば、毎日どこかしらでそういう場所を目にするだろう。建築的な言葉だとメタボリズムと言ったりする。ようは「代謝」のことだ。時代が変われば人が必要としているものが変わって、それに応じたコンテンツが生まれる。そうして今まで使われていたものが使われなくなり、世の中から姿を消す。内装業は特に入れ替わりが激しいから、需要がなくなったり、流行らないお店が残り続けることは難しい。最近の例で言えばコロナの折にも、愛されながらも客足が途絶えてしまい営業を続けられなくなったお店がたくさんあっただろう。僕にとってのそういう場所もいくつも消えた。そうなってしまったら、いくらこちらが「頑張ってください」とか「寂しいです」とか言っても、営業を続けることが損にしかならないのだから、そうする他ない。非常に切ないことである。
でも、僕らはそうやってなくなったお店の跡地にまた新しいお店ができてしまえば、「なんか良い雰囲気だね」などと言いながらしばらく通って、昔の思い出のことなんてだんだんと忘れていくのである。記憶は更新されてしまうものだから、新しい体験に弱い。時々そういう自分に気がついてため息が出る。それを薄情だと思う。仕方のないことだけど…

こうやって、色々なコンテンツが毎日のように生産・開発されては、日々消えていく。ふとしたときに「去年の今頃は〜」などと言い、振り返って色々なものが変わったと思ったりするが、変化は毎日のように起きている。人が気づくか気づかないかのゆるいスピードで世界は書き換えられている。多くの人が利用するであろうコンビニに置かれている商品は、一日に売らなければならないロット数が決まっているという。仕入れと利益のバランスが計算されて、店頭に出して利益のあるものを置いておきたいからだ。厳密に言えばそのコンビニがある地域や商品によっても違うだろうけど、一日に7つ売れなければ店頭から姿を消すと聞いたことがある。逆に考えれば今売られているものは一日にそれだけ売れていると考えることもできる。この世界は経済的な合理性によって日々変化しているのだ。そうすると当然、世の中的には「必要なものを作る」ようになる。消費する人がそれを評価しているからだ。消費者にとって必要なものだけが生産され、いらないものは淘汰される。この社会は生産者よりも消費者の優位性が高い。優位性の高い個体が生き残っていくというのは自然の原理でもある。生物においても、種として生き残ることが難しくなれば絶滅を迎える。今こうしているあいだにも、人間が発見していないだけで、人知れず絶滅した生物がいたかもしれない。

 

この社会を大きな一つの生物として捉えてみると、我々が毎日食事を摂り排泄をするように、こうした日々の代謝によって社会は「生きている」ことになる。身体じゅうに栄養を運んでいる血液のように、人間が車や電車に乗って色々なものを必要な場所に運搬して生命(社会)活動が維持されているとする。社会にある組織や施設などは一つ一つが臓器や細胞であり、それらが社会という身体を作りあげているのだ。

都市の代謝は、生物学では「細胞死(アポトーシス)」と言うが、例えば人間の細胞は、生命活動を続けるために必要とされる場合あえて自ら自死する=消滅することで全体を良い状態に管理しているのだが、人間の社会も「より良い」状態になるために様々な「代謝」が行われている、と考えることもできるかもしれない。もし、本当に社会がひとつの生命のように機能しているとして、そうした「代謝」によって様々なものが老廃物となって社会の外に排泄されている(=あるお店や施設やサービスなどがなくなる)のだとしたら、社会における代謝は「より良い」方向へ向かうための変化、ということになるのだろうか?もしこの妄想が当たらずとも遠からずであるなら、生命が代謝を繰り返した先に向かうのは「老い」であるから、この社会も徐々に老いているということになる。でも…僕にはこの社会が決して良い方向に向かっているとは思えない。老いた社会がいずれ崩壊(=死)を迎えるのならまだいいと思う。本当に怖いのは、どんどん人の寿命だけが延びている今の日本のように、この経済システムが働き続け、限界を超えてもそのシステム「だけ」が回り続けて、やがてボロ雑巾のように人も使い尽くされ、みんなが深い絶望の中で生活を続けるしかなくなることだろう。

 

社会学者のボードリヤールは、著書「象徴交換と死」の中で『資本は賃金/収入によって、生産者に貨幣を流通させ、このようにして資本の真の再生産者となる役目を負わせる』と書いた。クラシックカーでおなじみの自動車メーカー「フォード」社は、20世紀初頭に車の「工場によるライン生産」を発明した。これが世界的に見て「車のメーカーが初めて大量生産のシステムを作った」事例であるという。

大量生産のそもそもは、南北戦争後のアメリカではインフラが整備され製造業が盛んになったが、労働者の数が足りなかった。仕事を求めた移民や季節労働者などが大勢入国していたけど、彼らは英語以外の言葉を話すため言葉も通じず、労働意欲も薄かった(自分たちの労働条件などの権利のための反抗もあった)ため、仕事のクオリティにもかなり差があったようである。そこで、どの地域でも・誰が作業しても製品の質に差が出ないように、機械によって生産を管理するというねらいでこうした工場生産が発明されたのである。(だから本当は大量生産と企業のシステム自体「個人の能力にかかわらずできる仕事」という、みんなにやさしいはずのものだった)
そしてフォード社は自分たちの製品を売るために、まず従業員に当時ではかなり割高の賃金を与えたそうである。生産したものは必ず消費させなければならない。まず従業員に自社の製品を購入させ、彼らが広告塔となることで、自動車の便利さ・魅力をアメリカ全土に伝えた。フォード社のおかげで、一家に一台マイカーを持つという新しい常識がつくられ、多くの人の暮らしが変わったのである。しかし、こうした欲望は他人と比較されることでこそ、その力が発揮される。「持つ者」は「持たざる者」よりも優位に立つ。人々は、自分が他人に劣らないように、こぞって品物を求め、人よりも良い暮らしを望み、そして労働するようになった。こうして、労働をすることで品物を購入し消費する「貨幣を流通させる役目」を労働者は負うことになった…

こうして生産の目的は「必要だから」ではなく「消費させるため」へとすり変わって、その価値も大きく変わっていったのだった。生産よりも消費が優位になり、生産者は同時によい消費者でなければならない。今や工場のような機械装置が毎日動いているから、労働者は自分が働きたい/働きたくないにかかわらず、働かなくてはならなくなっている。生活は完全に資本に従属しているから、働かなければ生活ができない。製造しないと生きられないから製造せざるをえないのである。世の中に「何のために働いているのかわからない」という人がいて当然だ。なぜならその生産の意味は「生産すること」自体だからだ。(これを経済学では再生産という。)

 

もはや生産行為自体に意味はなくて、いかにして消費されるか?ということに製品の価値はうつりかわっている。だから私たちは「消費されている」ものが大好きだ。どのくらい売れているか、どうやって消費されているかという価値を判断している。つくられたものの有用性ではなく、どんなストーリーがあるのかということを消費しているのだ。有名人が使った・着たものは「あの人が選ぶんだからいいものに違いない」という理由で売れるし、ブランドのバッグはブランドがブランドたり得る製品の信用によって売れている。もはやアーティストも作品もそうである。例えばアンディ・ウォーホルがやっていたことは、19世紀までの絵画が作者のサインによって完成し価値をつけられていた(=サインというアイコンの記入)ということに対して、時代のアイコンとなるもの(ただしそれはシルクスクリーンによって大量に刷られる希少性の低いイメージ)をあえて描くことによる「アーティストがやってることってこういうことと同じになってるよね」という皮肉も含んだものだったんじゃないか…と僕は勝手に考えているが、ウォーホルは有名になりすぎて、彼自信が消費の対象になったと思う。それ以降のアーティストも、この生産と消費の関係の内側に潜り込んだ結果ブランド化(作家のタレント化)され、作品よりも個人として消費され、作品は投機の対象になっている。資本の価値は強すぎる。そこに金融商材としての需要があると作品の意味は食われてしまう。それが良いのか悪いのかは個人の見解。

 

必要とされるシステムや製品やサービスが(人の意思や理想と関係なく)必要だから生き残っていくとして、その合理性は、例えば経済学のようなものに組み込まれて、利潤を追求するためにより特化したものに変わっていく。儲かるから・売れるから・人気だから選ばれ、そういうものが世界をつくっていくのである。またそれら自体もいろいろな実証またはサンプルとして扱われ、その次に生まれてくるものはより高利潤なものになる。経済学は論理的に資本の動きを究明するから、どうすれば利益が出るのかもある程度理論としてわかってしまうだろう。そうなるとまるで答え合わせをするみたいに「こういうものが人にウケるはず」という確信のもと世界は作られていくことになる。予定調和的な世界だ。我々はそうした理論をシミュレーションして生きるのである。初めからいろいろなことが決まっていて、その通りにしか物事が進まないのに、それを確かめるように現象を「なぞって」生きていく。全てがプログラムされたゲームの中のような世界だ。

この世の中は、どんどん無駄が省かれ、最短距離で答えにたどり着くように計算されているのだろうか?資本と需要がある限り、世界が向かう方向は合理性の一点だ。哲学者の千葉雅也は「費用対効果ばかり考えても経済は成功していない」と指摘している。そうしたコストパフォーマンス思考がものすごく閉塞的な社会を生んでいる、とも言っていた。確かに無駄なことは良くないことのような感じがするし、最短距離で目指すところにいけないということは多少の損をしているわけで、できれば小さいコストで大きなリターンを得るのが一番の「得」のように思う。そうして我々は大きな焦りの中にいて、ネット通販で少しでも安くて良いものを血眼で探し、よりたくさんの情報を得ようと早送りで映画を見たりしてしまうのである。人が誰かのおすすめしか選ばないのも、自分にそれを確かめる余剰がないからだ。合理によって真っ先に死ぬのは芸術などの情緒を感じる心である。芸術は余剰そのものだから。

千葉さんは「豊かになるために合理性を追求しているようで、実はふるい落とされないようにするので精一杯なのではないか?」と分析していた。ものの購買に限った話ではなく、自分のスキルや能力の向上においてもそういう合理性の追求というのはある。小さい労力で大きな対価を得ようとするのは、自分の時間をできるだけ有効に使いたいということでもあるけど、同時に誰かに劣らないためでもある、というわけだ。これも消費社会の影響なのかもしれない。まるで自分たちがコンビニの店頭に並んでいて、ふるい落とされないように、ずっと棚に生き残り続けるために、自ら社会に消費され続ける道を選んでいる…。

話は変わって、そういえば丸の内のあたりはもうイルミネーションで賑わっているそうだ。ストリートピアノが置いてあったりして、道ゆく人が突然ピアノを弾きだして、誰かが拍手する、みたいなことがあるらしい。イルミネーションに関しては、電気の無駄だとかいう声もあるだろうが(正直自分も気になるから複雑だ)僕はそういう余剰がたまにあるほうが良いんじゃないかと思う。道端でピアノを弾いたってもちろん金になんてならないだろうけど、誰かが感動したら良い。何の役にも立たなくても自分が良いと思ったものを愛することができれば。…というか、こういうものが時々街に現れるということは、みんなも実は余剰が好きなんじゃないか?世界は誰かの需要でできているんだから、こうした余剰が世界にありつづける限りは、世界を少し明るい気持ちで見ていられるような気がした。