矛盾した生活



僕は日本という国で暮らしている。都市の中での暮らしだ。今回は生活のことを少し考えてみたいと思った。朝、顔を洗った。トイレに行った。たくさん水を流した。スーパーやコンビニで食べ物を買う。割り箸は一回使って捨てた。飲み物を買う。お酒も買う。飲み終わったペットボトルや空き缶はゴミ箱に捨てた。家に届いていた某通販サイトの梱包ビニールを丸めて捨てた。段ボールも畳んで捨てる。生活用品が切れたので、その空き容器を捨てた。夕飯の食器を洗う。たくさん水が流れた。寒いので暖房をつける。いろんなものをたくさん捨てた。明日も多分、同じようなことをする。来週も、来月も、来年も、おそらくそういう生活を続けていると思う。街に出れば、お店には新品の製品が並んでいる。何かが壊れたら、直すよりも新しく買い換えた方が安い。そういう時代だ。これがいわゆる大量消費社会というものだ。一応、リサイクルはされるらしい。本当だろうか?これらがどこに行くのか、僕は知らない。

 

僕は90年代の生まれだ。物には困らない生活をしてきたと思う。小さい頃から画材や画用紙や、それを加工するための道具、粘土などのいろいろな材料が身の回りにあった。今はすごい。自分がやりたいと思えば、使いやすい素材、材料、技術がもう既にあって、しかも詳しい人がそれを教えてくれる。僕はそういう影響を受けて、美術に興味を持って、そういう仕事を選び、生活を続けられている。「ちゃんと」この消費社会の恩恵を受けて生きてきた。

僕はディスプレイの立体物制作の仕事をしていたことがある。クリスマスやバレンタインなどのイベントの時、お店やショーウィンドウの装飾をする。人の目をどう引くかとか、どうしたら楽しくなるかとか、そういうことを考える仕事だ。仕事柄自由な造形物が多くて、考えるのも作るのも楽しい。でも、それらが街に置かれているのはほんの数週間程度しかない。イベントが終わったら全て撤去する。造形物は大量に廃棄される(これを見ているのがなかなかにしんどい)。

もし僕が作品を作るとなれば、材料を加工することになる。材料はカットすれば端材が出る。作ってみてうまくいかなければ廃棄になる。使い終わった材料の容器や、買ったけど結局使わない、みたいなものもある。要するに僕はおそらく普通の人よりゴミを多く出して生きているわけだ。

こういうことをやっていると、もったいないと思うことが多い。パンパンになったゴミ袋を見ていつも胸が痛む。それを廃棄せずに、何かに使おうと思ってとっておこうかとか思うこともあるが、現実問題それは難しい。倉庫がいくつあっても足りない。そういうことを「やりたい」と思って楽しんでいる自分と、そうやって生活を「してきてしまった」自分がいる。できるだけエコな仕事をした方がいいんじゃないかと思ったりもする。全体で見れば僕の出しているゴミは微量かもしれないけど、そのせいで消費は明らかに進んでいるし、悪い方向に行っている事実はある。こういうことを考えてしまう。自分はなにかを作る資格なんてない人間なんじゃないかと思うことがある。ものを作る人の中には、そういうことを全く気にしない人もいるだろうけど、僕は違う。そういうことが頭の中をぐるぐるとまわると、何かを作ることが本当に辛くなる。作品を作れなくなってしまう。そう思いながら、ずっと作品のことを考えている。

 

近年、SDGsとかで、社会が急激に環境保全や社会問題に対する関心を集めようとしているのがわかる(個人的には色んな思惑も感じる)。多くの人がこの「大量消費」があまりよろしくないことをわかっていながら、実際のところ生活はずっと変わっていない。環境問題なんて、90年代からずっと危ない危ないと言われ続けていた。小学生だった頃、地球温暖化について自由研究をしたことがあって、その時「地球はこのままじゃまずいんだ、少しでも良くなるようにしなきゃいけないんだ」と幼いながらに責任感を持った。

ただ、それから社会のなにかが変わったという実感はない。多少、エコだの再利用だのと聞こえはするけど、色々調べてみるとほとんどは変換か転用しているだけで、「もう一度新しく素材を素材として生まれ変わらせる技術」は、今のところほんの一部の製品にしか応用されていないようである。それでも相変わらず毎日どこかしらで新しいビルが建つ。だから川は汚れて、木は切り倒されて、動物は死んでいる。小さい頃の僕はそういうことに対してずっと心を痛めていた。どちらかといえば外で遊ぶのが好きな子供だったから、木登りしたり、虫を捕まえたりして、雑木林や草むらで遊ぶことが多かった。それが、少しずつ歳をとって時間が経つにつれて、遊んでいた雑木林は切られてなくなった。原っぱは駐車場になった。自分の好きなものがなくなっていくようだった。とても悲しかったし、悔しい思いをしたのを覚えている。

 

でも、今にして思えばそれは自分の視点でしかない。原っぱを駐車場に変えた大人たちはそういう仕事をしていて、その仕事でもらったお金で生活をしているだろう。新しいビルを建てた大人たちは、様々な人が便利に生活をできるようにたくさん色んなことを考えて街を作った。そして僕はそういう街に住んで、この歳まで寒さで凍えることも飢えることもなく生きてきた。こういう社会だからこそ色んな人が生きられるのだと、大人になってから気がついた。

消費社会というのは裏を返せば生産の社会でもある。僕は今までに魚や鶏や豚や牛の肉をたくさん食べてきた。でも僕自身は1匹だってそれらを殺したことはない。僕がすることといえば、誰かが代わりに屠殺をし、血抜き、解体した安全な肉をスーパーなどで買うことだけである。世界は誰かの仕事でできている…という缶コーヒーのキャッチコピーがあったが、本当にその通りだと思う。この社会では誰かが代わりに「やってくれている」のだ。だから、誰かにその責任を押し付けて自分だけエコだ、クリーンだのということは口が裂けても言えない。僕らは共犯者だ。そして僕は「もう作品を作ることをやめて、環境に優しく、自然と共生するべきじゃないか」…というようなことを考えながら、消費社会で生きている。もし僕が本当にそう思っているなら、今すぐこんな生活をやめて、自給自足して生きる準備を始めればいい。でも、そうしない。これが自分の中にある大きな矛盾…

 

例えば、僕がもう近代的な生活から遠ざかって、山奥とかで自給自足生活をするとなったらどうだろう。電気は自分でつくり、水は汲み上げ、有機物だけを使用して生活をする。使ったものは全て分解して捨てる。そうすれば動物や微生物がちゃんと自然のサイクルに返してくれる。自分が必要なものだけを自然から借りて、それをちゃんと返して生活をする。とても「エコ」な暮らしだ。確かに個人的にはとてもクリーンに「なれる」けど、果たしてそんな人間が「近代的な生活はもうやめましょう」と働きかけたとして、何人の人が耳を貸すだろうか?「俺には/私にはできません」「自分とは違う世界ですね」とか「あなたは好きでやってるんでしょう」と言われるだろうと思う。そんなもの所詮、自分が思いついた自分勝手な思想を人に押し付けようとしているに過ぎない。それがどんなにいいことであったとしても、反対の立場にいる人からはきっと理解されないだろうと思う。そもそも、この歳までしっかりぬくぬくと社会に守られて生きてきたのに、あるきっかけで急に立場を変えるということは、自分自身のそれまでを否定することにもなるんじゃないか。

だから、僕が抱えているこの矛盾こそが全てなんじゃないかと僕は思う。こういう生活を続けながらも、そこで生活している人や役割をできるだけ尊重したまま、静かに反発や反抗を続けることはできないだろうか?消費社会が良くないと言っても、それはシステムの話だ。誰か狂った個人がいて、その誰かが始めた悪行みたいなことだったら別なのだがそうではないから、消費への反抗心が特定の個人に向くのは間違っている。だから、僕は時々やるせない気持ちになるのを覚悟して、これからも街で生きていくと思う。もちろんできるだけできることを自分で考えながら。

 

そもそも、環境を守ることは誰にとっていいのだろうか?人間が「自然」と呼んでいる森や木や川は、人間によって「反発しないように」デザインされている。日本の森はほとんどが山崩れしないように間伐してあるし、川には氾濫を防ぐためにダムや堤防が作られている。人間の手の加わっていない「自然」はもう残っていないだろう。誰も立ち入ったことがないような鬱蒼とした原生林なんて、今じゃ東南アジアかアマゾンの奥深くのほんの一部くらいしか残っていないんじゃないだろうか。いや、それすらももう残っていないかもしれない。それを今更どうのこうのとして共生とか環境保護とかいうのはなんだかおかしい気がする。仮に環境を守ってある生物が救われたとして、それは「その生物に生きていてほしい」と考える人間の「生態系をコントロールしようとする傲慢」にもなり得るかもしれない。もちろん、希少種を保護する活動は素晴らしいと思う。そういうことを否定しているわけではなくて「シロクマはかわいいから生きていてほしいけど、ゴキブリは気持ち悪いから叩き殺してもいい」というような都合がほんのわずかにでも見え隠れしている感じがすると、歪に思えてしまう。極端な引き合いだけど、ゴキブリに対して向けられる殺意というのは、単純にゴキブリの希少性(たくさんいるから)の問題ではない気がする。まあ、確かに僕も苦手だけれども…
大きい目で見れば、地球の環境を破壊している人間もその環境の一部といえるし、「ある活動や行動が地球に対して害かどうか」みたいな視点は、結局「人間が種を存続したいと考えた場合にどういう意味を持っているか」という話でもあると思う。つまるところ「人間が生きていくために」森林伐採はすべきじゃないとか、「人間のこれからの生活のために」自然に還元できる生産システムを考えるべきだ、みたいな言い方になっている。ものすごく人間本位だ。それでもし、いつか限界がきて淘汰されるならされるんだろう。恐竜みたいな古代生物の中には、体躯が大きすぎるために生存が厳しくなった生物だっているのだから、人間はその発達しすぎた知能によって絶滅するということもあり得る。人間の中には、人間社会の環境に適応できず自死するものもある。自分たちの「欲望」または「善」を選んで絶滅することになる。

 

僕は農家やエンジニアの類ではないし、医療従事者とかではない。生活を便利にしたりすることはないし、世の中の役には立たない。ただ作品を作ることしかできない人間である。そういうものに興味を持たない人にとっては何の意味もないものを作っている。多分僕のおかげでは大体の人が助からないと思う。
人類のために何かができるかと言われたら無理な割にこう偉そうなことを言ってしまっている。でも、できるだけこの矛盾とうまくつきあってやっていきたいとは思う。一番はやっぱり自分が納得するためだし、失敗でゴミを増やしたくないからでもある。
僕は基本的にはこの世界が好きなのだ。生きている生き物、草や木、川や海、山、そこにあるいろんな営み全てが好きだ。僕はそういうものと触れ合って生きてきたから、この世界が綺麗だということを、できるだけ綺麗なまま、後の世代にも残したい。自分たちがやったことのせいで後ろの世代が苦労するのは嫌だ。(これは自分のエゴ)
哲学者のヘーゲルは、止揚アウフヘーベン)という概念を提唱して、対立する命題(テーゼvsアンチテーゼ)をうまくすり合わせて、さらにその上の概念に到達するということを説いた。いろんな視点をできるだけ鑑みて、新しい方向へ止揚しないといけないと思う。きっと、今まで誰かが考えたようなことではない、新しい解がある気がするんだけど