編集後期(2022)

 

 

文章を書き始めてから大体ひと月が過ぎた。作品以外のアウトプットを作ってみて、自分をより客観的に見ることができるようになった。よい習慣になりつつあると思う。まさかここまで続けて書く意欲が湧くとは自分でも意外だった。僕は作品を考えるときはスケッチなどのイメージからではなく、考えていることをひたすら文字にすることからはじめる。そうやってノートに書き殴った言葉のほとんどは、作品になりきらないレベルの「意識の断片」みたいなもので、うまく掴んで吐き出したはいいもののずっと長い間昇華されないままになっていた。それで、これまで自分が作品にしてこなかった自分の部分も一回全部洗い直して、新しく体系化できないか?と思って文章を書き始めたのだった。それこそノートの端っことかチラシの裏に書いておくレベルのくだらないものだったりもするけど、こうして人の目に触れるようなものとして残っていくとなると、結構頑張って他の言葉と結びつけたりすることが必要なので、かたちにしていく訓練だと思ってまだ続けたいと思う。まだまだ書きたいことはたくさんある。

今まで書いてきたことは、ずっと自分の頭の中にあったものを文章としてつなげているだけのもので、内容がおもしろいかどうかとかはわからない(一応自分はおもしろいと思っているものを書いてる)けど、自分が思っていたよりいろんな人に見てもらっているみたいで、それは嬉しいなと思った。こういうブログみたいな形式だと、あくまで文を「垂れ流す」だけだから気がかなり楽だ。誰かが反応してくれるかとか、見てくれているから書こうとすると、途端に媚びた文章になっていくのが自分でわかる。気を抜くとそういう書き方になっていることに気付いたりする。そういうものは大体ろくなものにならないので、書けない時は書かないで、自分があとで見返したくなるようなものを残したい。その方が楽しいから。

世の中がコロナでどうのこうのとするようになってから、多くの人が、自分のことを見つめ直す時間を取ることになったんじゃないかと思っている。仕事はリモートワークになって、会いたい人にも会えなくなってしまって、今まで以上に人の目線が気になるようになったし、「ある同調圧力」が生まれたり、世界の情勢が変わったり…色々なことがあった。僕は個人的にはもともとそこまで外出好きではなかったから、別にコロナによってそこまで生活は変わっていないけど(強いていうならふらふらと飲みに歩けなくなったくらいだ)、鬱が強くなっていた時期とコロナが重なったので、「バタバタしないでじっとしとけ」という”何かからのお告げ”だったのかもしれないなと思うことにした。おかげで良い意味でエネルギーを貯められたような気がする。自分のことを見直すきっかけにもなったし、冷静に自分の行動を見られるようになった。

もし、コロナの色々なんか起きなくて、あのまま世界でいろんなことが加速していったらどうなっていただろう。中国ではコロナで工場が閉鎖され排気ガスが止まり、「数十年ぶりに青空が見えた」とかいうニュースもあったし、みんながマスクをしているからインフルエンザの流行も例年より落ち着いたとかいうのもあった。悪いことも多かったけど、悪いことばかりでもなかったと思う。世界は少し急ぎすぎていたかもしれない。

 

人が自分の内側に意識を向けていくと、需要が増すのはやはりインターネットだろう。某大手通販サイトとか、某動画配信サイトとか…SNSとか。いろんなサイトを徘徊していると、ここ数年、色んな”スラング”やネットの「ローカル・ルール」が増えた気がしている。同調圧力が強くなりすぎたり、ちょっとの刺激にヒステリー反応を起こすみたいなこととか、今までだったら無視して素通りできたようなほんの少しの言葉のささくれに、「善」のもとに強烈なカウンターパンチを喰らわせる(『ジャスティスパンチ』という)ようなことなど。僕はこの、明らかにやりすぎな「善意の暴走」に強烈な違和感を覚えるので、これについては今度書いてみたいと思う。

僕はSNSが苦手だ。個人の話をすれば、一応利用はさせてもらってはいるけど、できることならやりたくない。だけど、たまーに面白い出会いがあって、全く繋がるはずのなかった人がSNSを見て、僕の作品の展示に足を運んでいただけていたりする。だから僕はそのほんの少しの希望のためだけにアカウントを消すことができないでいる。ただ「面白いと思うことに出会える」ことは稀だ。大抵は日常で出会う必要のなかった(縁のなかった)ことを無理やり引き寄せてしまうようなものなので、多くの人がストレスを溜めている、ということが大いにあると思う。例えば小学校のクラスで、別に全員と友達になって毎日全員と遊ぶ必要はないし、自然と自分の居場所かコミュニティとか、そういう小さいグループに落ち着いていくものなんだと思う。それが1人なのか多人数なのかというだけの話で、気の合う数人がいれば十分に人生は楽しいものだし、別にそもそも1人でいたって楽しい時間はある。「世界中の人と繋がれる」とか言ったって、そもそも人というのは日常の中だってある程度の「カン」とか「直感」みたいなものを使って色んなものや人との関係を作っているのだ。ドライな言い方をすれば「必要じゃない関係」だってあるし、性格が合う合わないとか、所作がどうのこうのとか、日常の中のたくさんの細かい個人の判断の上で人間関係は作られている。

ところがそういうものがSNSによって無理矢理に”出会わされてしまった”ばっかりに、いつもネットのどこかで言い争いは行われている。「自分は勝手に言いたいことを言っているだけですので気にしないでください」という態度でいたって、ある日突然、全く知らない人から「いいえ、あなたは不快です」とかいって攻撃されたりするのだ。不快なものが存在してはいけないのだとしたら、世界は誰のためにあるのだろうか?人はもう自衛のために自己閉鎖に向かい、色々な可能性を諦めなくてはならないのかもしれない。少なくとも僕はもうこういうものにはとっくに愛想が尽きてしまった。そういうサービスに頼らなくても「縁」というのは絶対にあると信じて、無理に拡げて無理をするより、自分の身の回りにあるものを大切にしたい。

 

人の一生は限られている。人間はいつか死ぬわけだから時間は有限だ。(だからといって「生産性」とか「有意義かどうか」に向かっていこうとする現代の考え方は少し異常であって、意味のないものが存在していてもいい世界のはずだと僕は思っているから芸術という余剰の中にいる)もう、音楽も芸術も映画も飽和しているし、本や服も人もそうだ。一生かかったってもうすでにその全てを見たり聞いたりすることはできない。世界中にある全ての本を読むことは無理だし、今世の中にある音楽を全て聞くことも、生きている全ての人に出会って話をすることも、もう時間が圧倒的に足りない。だから僕たちは選ばなければいけない。それこそが「縁」だったりもすると思う。世界を広げることは大事だけど、人のために使える時間も限られている。自分が本当に見たい景色を見るなら、人に合わせていては時間が足りない。それは寂しいことだ。孤独な道でもある。だけど誰しも、少なからずいつかはそういう瞬間が来るものなのかもしれない。
自分は30歳になって「人生を一回やり直した感覚でいる」という文を書いたけど、(もうすぐ次の誕生日を迎えるので)赤ちゃんで言えばもうすぐ言葉を話し出すくらいの年齢だ。小さい子がよく電車の中でずーっと喋っているのは、今まで見てきたことをどうにかして人に伝えたかったけど言葉が追いつかなかったからなんじゃないかと思う。家族や周りの人に、自分の世界が「こんなにも綺麗で色鮮やかだ」ということを教えたくて小さい子はよく喋るんだろうか。自分も今こうして新しい表現媒体を得て、話したいことがたくさん増えてきたのかもしれない。世界は苦しいことがたくさんあるけど、諦めないで言葉を話し続けて、「よい縁があればいいな」と思って投げ続けたい。こうした「縁」という予感が本物かどうかわからないけど、できるだけ大事にして…