芸術は希望だ

 

 

『世界を照らす者は、その身を焦さなければならない。』

僕の好きな映画監督の言葉だ。アレハンドロ・ホドロフスキー。御歳90を超え、今なお存命で、”現役で”作品を作り続けている。ホドロフスキーの映画は、お世辞にも一般大衆ウケしそう…とはいえない。だから、熱心に映画を見ている人以外、もしかしたら知らない人の方が多いかもしれない。過激な表現も多い。ただ、知識と教養と緻密に練られた構成で作られた映像は(僕は100%は理解できていないと思う)意味が分からなくても、時々強烈に琴線に触れるものがある。それこそ理解を超えた「良さ」があって、頭の中をこねくり回されてかき混ぜられるような、ぶん殴られるような衝撃があるのだ。思わず「にやり」としてしまう。僕は映像や写真作品に関しては非常に疎くて、いわゆるミーハーなものしか見ていない。だから、映画監督がどういう仕事なのかあまりよく分かっていないけど、僕は上のセリフを「作家が自身を犠牲にして初めて、作品というものは人の光になる」というような意味で捉えた。宮崎駿も「演出というのは加害者だから自分が頑張らないと話にならない」というようなことをドキュメンタリーで言っていた。作品の舵を取るのが自分だから、文字通り「死ぬ気で」作品に取り組まないといけない、ということなんだろうと思う。(『取り組まないといけない』というか、どうしたって人に自分のやりたい作品を作らせて作業させるわけだから=加害者になってしまうので監督業には自分を犠牲にする『責任』がある、というようなニュアンスだった)
似たようなことを村上隆も言っていた。表現とは治療行為であって、自分がその病なり不具合を受け負って、人の先頭に立ってその傷を治療し、その治療法を公開するのが作品、つまり「アート」の役割だと。傷を癒せるのは政治でも経済でも軍事力でもなく、血を流さずに革命を起こせる唯一の方法が「芸術」なのだと。僕が好きな作家の人たちはそういう「強い言葉」を話していた。僕はそれに同調して、彼らを心底かっこいいなと思い、憧れて生きてきた。

 

世の中、様々な表現方法があって、特に最近では技術に差があろうがなかろうが誰でも作品を公開することができるし、新しい表現も増えている。僕がこうやってエッセイを垂れ流しているのもひとつの「表現」である。ブログという形式をとって作品を公開しているわけだ。僕は別に文章の書き方を勉強していないから、見る人が見たら「この文章くそだな」とか思う人がいるかもしれない。もしかしたら技術的な批判もあるかもしれない。作品のテクニカルな部分は専門性の話だから、話し出すと派閥とか、流派とか、文脈みたいな話になる。世の中には系譜というものが存在する。特に芸術の分野では、誰から影響を受けたとか、誰に師事したとかいうことも重要になる場合もある(特に古典音楽)。漫画やアニメだって「漫画家が漫画家を目指すにあたって誰の模写をよくしていたか」みたいな議論もあったりして、系譜を辿るのも、作品理解においては重要になることもある。一方で、近年では、それが完全に独立したところから自分で情報を選び取って、自分が好きな表現を追求し、オリジナルの世界を作り上げる作家の人も多い。「アウトサイダー」とか言ったりもする。余談だけど、僕はいわゆるファインアートの文脈にいなかったから、あるコレクターの人にそう言われたことがある。(だからどうだという話はここではしないけど)

そういう考え方をすれば(自分が正しい文脈で作品を作れているのか)僕にはいまいち自信がない。でも、こういう文章に関してでも、ひとつ気をつけていることはある。どんな内容であっても一つの「明るさ」を示したいとは思っている。「明るさ」というのは、希望みたいなことかもしれないし、見てくれた人がなにか得られるかとか、面白いと思ってくれるかどうかとか、一つくらいそういう要素を入れたいとは思っているということだ。どんな形式であれ、どんな作品であれ、少しでも世界が良くなるように(実際良くなるかは別として)自分が信じたいものを世界に投げるのが大事なんじゃないかと思う。でも、残念ながら世の中には見た人を不幸にさせるような表現とか、ただ自分の愚痴を吐き出しているだけとか、自分が話を聞いてほしいだけのようなものも多少存在している。ただ傷の見せ合いをすることは全く表現ではない。怪我したのを「ほら見て、こんなに痛かったんだよ」と言われても、まあ個人的には心配にはなるかもしれないが、そうですかという気持ちにしかならないし、それを公開してどうのとすると言ったって、世界はそこまで人の受けた傷に関心はない。何度も言うけど心配にはなる。でもそれは「作品の評価」となると全く別だろう。人に見せてなんらかの評価を得たいなら、最低限「止血」くらいはしてほしいと思う。まあこれは僕の勝手な意見だ。

 

僕は芸術作品にそういうものを見ている。学術研究として制作されたような由緒ある作品、カウンター・カルチャー、文脈もの、落書きみたいなもの、程度の大小はあれど…そこは重要ではなくて、大事なことは自分が表現でいかに「世界を明るくできるか」みたいなことなんじゃないかと思っている。作品は自分のために作った方がいいけど、自分が思う「良い世界」のために表現を投げる。それが返ってくるかどうかはわからない。返ってくることを期待して作る作品ほどくだらないものはない。だって、人の反応を期待して何かを作るということは裏を返せば「誰かが喜んでくれるくらいのものを私は作っている自信がありますよ」という奢りのようにも聞こえるからだ。結局そういうものを判断するのは自分じゃない他の人なのだ。僕は自分にできることをやり続けるしかない。僕は昔は我欲にまみれた考え方ばかりしていて、人の評価に一喜一憂していた。自分の何がダメなのかとか、どうすれば見てもらえるのかとか。反応がない状態で何かを語り続けるというのはかなりしんどい。自分の作品に価値はないんじゃないかと思ったりもする。

…でも、そもそも自分が面白いと思って作っているのに、価値もくそもないだろうと思う。自分にとって価値のあるものだから作っていたはずなのに、いつから人の評価が必要になったんだろう?そういうのが心底嫌になって、これでは自分は、じゃあ仮にもう一生「評価されない」と決まっているとしたら、作ることを一切やめるのか?と自問してみた結果、作ることが好きだから、誰かに見せないとしても続けるかもしれないという結論に至ったのだった。だから人から作品が評価されなくても…言い換えれば、誰にも愛されなくても、その自分の寂しさを語ることはもうやめよう、と思った。リアルな話をすれば、もし評価されないとしたら…その時になってみないとわからない。もしかしたら作品は作らなくなったりするのかもしれないけど、自分で使う棚とか、自分が好きでやる粘土細工とか、服を作るとか、そういう喜びはあるだろうと思う。そもそも、こっちは3歳の頃から工作をやっている。あの頃は純粋に自分が好きだから、欲しいものを作っていた。それで幸せだった。自分が"いつの間にか"やっていたことがものすごく不純な制作に思えた。それで愛されないだのと思うくらいなら、僕は芸術を愛して良かったと言えるように、そうやって生きていったほうがいいんじゃないかと思った。作品だけじゃない、仕事だって、楽しんでやることができれば僕に生きるエネルギーを与えてくれるのだ。好きなものを好きでいるために、余計なことはもう考えない方がいい。あくまで芸術は誰かの希望であってほしいと思う。寂しさを埋めるためのツールにしてはいけない。


まあ上の話はホドロフスキーが言っていたこととは少し違うけど、僕は少なくとも作品を作るようになってから考え方が大きく変わって、色々なことに興味を持つようになったし、人の話もまだあまり上手じゃないけど、聞けるようになった。どこか他所の国の、知らない人のことを想像できるようになった。話が合わない人を否定せず、適切な距離を探そうと考えられるようになった。わからないことをわからないままにしないで、自分なりに調べるようになった。自分がどういう人間で、今まで世界に何をして生きてきたのか、自分の罪も知った。自分比なので、まだできていないかもしれない。僕にとって表現するということは、明らかにこういう「自分の世界と外の世界」を繋いでくれるものだった。僕が芸術や制作行為から受け取ったものはあまりにも大きい。大袈裟でもなんでもなく「人生が変わった」のだから。だから僕も、そのワールドにいて、その大きな光の一部になりたいと思っている。人からもらったものをできるだけ丁寧な状態で返したいと思う。芸術は自分だけのものではない。微力でも、偉大な先人や、先輩たちのあとを継げるような、そんなものになれたらいいなと思う。「夢は世界を変える。世界を変えるんだ!」ホドロフスキーは"にやり"と笑ってそう言った。僕は彼のように熱く、声高に語ることはできないけど、静かな闘志をもって、心に火を燃やし続けていたい。