雑記:信心のこと



考えていることが一日一刻と変化していくので、なかなか文章としてまとめられるほどのことを考えられなくなった。作品を作ったり、なにか言葉にしたり、形に残すというのは、自分の時間を少し止めるようなことなんじゃないかと思う。今は自分の時間を止めたくない。ので、結構頑張って週一ペースで書いてきたけど、無理しないことにした。無理はいけない。続けないと終わり。
どんなに凄いことを考えても、思っていても、それが自分の外に出なければ世界には無いのと同じ。そしてそれは自分の意欲でしか実現できない。やる気がなくなったら世界もなくなる。ゲームみたいに簡単にスイッチを押してシャットダウンできるので、スイッチをいかに押さないかが大事なんだと思う。今までは、そのスイッチは自分しか押すことができなかったけど、もう他人も自分のスイッチに触れるようになっている。自分もまた人のスイッチを触れる。自分のスイッチは自分で守らなきゃいけない。

自分の世界は、自分が認識できる感覚の中にしかなくて、例えば感覚器官である目・耳・鼻、あと皮膚とかが脳に送る信号通りにしか世界を認められない。どこまでいっても自分の感覚から抜け出すことはできない。自分が見ている世界は自分のものでしかない。人と感覚を共有できるようになったらもしかしたら、あなたの世界の僕は、僕がいつも思っている「青」の色をしていた、みたいなことになるかもしれない。でもなぜかなんとなくみんなどこかで自分が見ている色と同じ色を共有できているものだと思って生きている。自分の肌色とあなたの肌色は同じ色だと思っている。でもそんな保証はどこにもない。証明もまた不可能なのだ。
自分の目は前向きについているので、僕が見ている世界は僕の前方にしか存在していない。自分の後ろを見るには鏡とかが必要になる。僕の背後の世界はどうなっているのかわからない。この時僕は鳥肌が立って、背後になにか気配を感じて勢いよく振り返る。ちゃんと後ろに本棚がある。でも、もしかしたら僕が後ろを向いたからものすごい勢いで世界がレンダリングされただけかもしれない。もしかしたら今度は本棚を振り返ったことで見えなくなってしまった、僕が今まで見ていた頭の反対側にあるパソコンのモニターが消えたかもしれない。それは自分には永遠にわからない。見えるものしか見えないのだ。
ここで、僕は「あなた」と向き合ってみる。あなたからは僕の背後が見える。僕にはあなたとあなたの背後しか見えていない。でもあなたは、僕を含む僕の背後の世界のことを見ている。「ちゃんと本棚があるよ」とか教えてくれる。でも、それはあなたにしかわからない。もしかしたらあなたが嘘をついているかもしれない。本当は何もないのに、本棚があると言っているだけかもしれない。それは僕にはわからない。僕があなたのことを信じるなら、僕の背後にはちゃんと本棚があるということになるし、あなたのことを信じなければ、やっぱり僕の背後に世界はないことになる。あなたも僕と同じように、あなた自身の背後についてはやっぱり知ることができない。
そうするとこの世界は、ふたりが確認できる世界しか存在しているとはいえない。つまり誰かと重なった世界しか本当である可能性はありえない(そもそも世界が本当に「ある」かどうかすら証明することもできないのだが)。だから我々は時々会話をしたり、触れ合ったりしてそれを確かめる。そして自分の背後を見てくれる人を信じられる時だけ、背後にもちゃんと世界がある、ということにできる。...本当は、自分以外の全ては自分の世界には存在していない可能性の方が高い。

「私はこう思う」と発表することはある意味でとても無駄に思える。上に書いたように大事なのはその内容よりも、それを言う人のことを信じられるかどうかでしかないからだ。他人の言うことが信じられるから、自分の背後も信じられるのであり、「背後があるかどうか」という真理に自分ただ1人でたどり着こうとするとだいたいは途中で諦めるかいつか発狂することになる。究極言ってしまえば人のことを信じられないのならコミュニケーションの意味はない。僕が生活しているのは、生きているのは、歪みつつもどこかでやっぱり人のことを信じているからな気がする。そしてそういう「人を信じている自分」のほうが好きだからである。死にたいと言いながら死なない人は、どこかで人のことを信じていたい、望みを捨てない人なんだろうと思う。

非常に単純なことで、アーティストがすべきなのは、自分の言葉に説得力を持たせること、人を信じさせることだ。そこには自分の人間的な魅力とか、作品に対する真摯な姿勢とか、真面目に生きているかどうかとかそういうことも必要になったりする。アーティストの神話、素晴らしさなんてものは存在しないと思う。そういう意味では詐欺師と同じで、信じさせたら勝ち。ものすごい作品を作る人に徳があるかとか、人間的に正しいかとかは重要ではないし、必ずしもそうであるかどうかというのはわからない。鉄パイプとかで殴れば死ぬ普通の人間でしかない。アーティストはスーパーマンや神の類ではない。確かに矢沢永吉を「神」だと呼ぶ人もいるから、信じる人にとっては神なんだけど、だからといって本当にアーティストが神だということとは別だ。これについては学校のクラスを思い浮かべると早い。声がでかい奴、人気者、スポーツマン、クラスのアイドル、不良、いじめられっ子、不登校、静かだけど優等生、ガヤ役、不思議系、寝たふりそんな縮図が社会を出てもずっと続いている。やっていることが正しいかどうかに関係なく、人の信頼を勝ち取る方法はいくらでもあるし、先生にごまをすって人を貶めるような奴の方がうまく生きていることもある。前に出る人間がいつも好かれているとは限らないし、陰に隠れている人間のほうが実は真理をつく、みたいな漫画みたいな設定がいつもあるわけじゃない。神様の罰が降るとか言ったって、神様だってそんな暇じゃないので、悪行を働いたってなんの罰も受けない人間もいる。自分の正しさは自分だけのものでしかない。だから勝手にやる以外ない。

作品を作るというのは、「夢を実現する」とか「頑張る」みたいなこととは全く違うような気がする。僕にとっては掃除とか片付けしたりすることに近い。そうせざるをえないからそうなるだけ。眠い時に寝たくなるのと似たようなものである。多分掃除が好きな人と嫌いな人とでは、それらに対する感覚は大きく違う。掃除が好きな人からしたら、「汚いから掃除したい、しなければ気が済まない」となるが、掃除が嫌いな人からしたら掃除は「めんどくさいけど汚いから頑張る」ものになる。ムキになって、やらないと気が済まないから作品のことを考えるわけであって、頑張っている意識とかはあんまりない。というか、本音を言えばめちゃめちゃめんどくさい。色々言ってくる人だっているし、期待もされるし、本は難しいし何言ってるかわからないし、他と比べちゃったりしてかかるストレスの方が大きい。でも、そんなことよりも、片付いて綺麗になった部屋で過ごす時間の方が気持ちがいいから掃除をするのと同じように、作らずにいられないからそうするのである。

 

夢だけ食って生きていけないので、金を稼がなければならない。金を稼ぐためには、作ったものを取引しなければならない。取引のためには商品に価値が必要であり、僕は多分このネット社会では声が小さいので、多くの人に自分のことを信じさせることができないから、正しいっぽいことを引用しながら作品にしていくしかない。僕みたいなタイプの人間は自分の実感では勝負できない。合理のほうにできるだけ点を打って理屈を作る必要がある。「アーティストは詐欺師」と僕の先生は言った。多分本当にそうなんだと思う。自分勝手に自分のやりたいこととかいうのをやって、あまつさえそれを売って金儲けまでしようとしているんだから、なにか意味のあるものを作らないといけないだろう。と思う。自分が勝手にやったことに価値までつくなんて世の中にそんな都合のいいことがあってたまるかという気持ちにもなる。こんな単純なことに気づくのに10年もかかってしまった。あーあ。一生懸命にならなきゃだめだ。