体験と実感

 

 

僕は屠殺体験をしたいと思っている。したいというより、しなきゃいけないような気がして、機会をなかなか得られずに数年経った(ビビりなので自分から調べるとかは特にしないのが自分でもおもしろい)。世界は誰かがいろんなことを代わりにやってくれていて、そのおかげで生きているんだ、と以前文章で書いたのだが、「しなきゃいけない」気になっている理由を自分で考えてみた。なぜやりたいのか?好奇心?生き物に対する罪悪感?罪の意識の共有?ただの経験好き?もしくは…心の奥底で、「話のネタになるから」とか思っていたりするんだろうか。考えているうちに、これに対するものとよく似た感覚を持つことが時々あることに気がついた。それは本を読んでいる時だ。

本を読んでいて、内容の八割くらいをちゃんと情報として読みながら、残り二割くらいは「本当にそうだろうか?」と疑っている自分がいる。その人が何を引用して文章を組み立てるのかにかかわらず、その情報を鵜呑みにしきれない自分がいるというか…僕の理解力のせいもあるかもしれないけど、多分、僕自身がしてきた体験とその人の言っていることが結びつかないから、信じるのが難しいんだと思う。これももう性格かもしれない。例えば「3×4=12です」とか教えられて「なんで?」と思ったことがある人は分かってくれると思う。「計算の方法」や「考え方」をいくら丁寧に教えられても、「どうして3と4をかけることができるのか」「なぜ12になってしまうのか」が謎なのだ。もしかしたら僕たちの知らないところで、本当は14とかになっているかもしれないのに。

 

この時代は、簡単に知りたい情報をインターネットや本で調べることができる。でも、自分で体験していないことの多くは、自分の中にリアルな経験としては積み重ならない。外に出て、呼吸をして、花の匂いがどんなだったかとか、日差しがどれだけ暖かかったかとか、そういうことが全て別の「ネットサーフィン」や「読書体験」という代替体験に置き換わってしまっている。僕たちはそうやって時々、超巨大なデータベースにアクセスして、自分のほしいところだけダウンロードして自分の生活に利用している。だからそこに至るまでのプロセスとか、紆余曲折、試行錯誤の類、たくさん情報を集めた中でどれを採用するか?みたいな思考の軌跡もすっ飛ばされてなくなっている。インターネットが僕たちの生活を変えたというのはまさにそこなんだと思う。これは、物理的に画面を見て過ごし、部屋から出ることが少なくなったから体験が貧しくなっている、みたいな話でもなくて、インターネットが作ったこの「知の新しい構造」に、もはや体験が必要なくなっているということだと思う。
それでいうと読書はまだ健全かもしれない。著者の言っていることがわからなければ、その本の参考文献なんかをさらに読んで自分なりに考えを深めることもできる。大事なのはこの「自分なりに」というところだと思う。それは、世間でいう「正しさ」とか「良さ」みたいなこととは別で、「自分が思った実感で物事を語っていく」ということである。
ちなみにインターネットと本で得る情報の違いは「匿名性」にあると思う。本は多くの場合著者の実名で出版されているから、「私はこの本の中に書いてあることに対して内容を保証し、また責任を負います」ということでもあると思う(作品と同じだ)。インターネットでは、まあ実名でやっている人もいるにはいるが、多くの場合匿名で情報が書き込まれているから、情報の出どころや、もっと言えば本当かどうか保証できるものが何もない。なので、情報のソースとしてはやっぱり今現在では紙の本の方が優位だと思う。

 

以前、彫刻をやっている友人に「俺は本物の”平面”を見たよ」と言われた。彼は作品で使うための岩を落としたかなんかしてしまい、岩が2つに割れ、綺麗な平滑面が出てきた。出てきたその割れ方が完璧だった、と言う。彼にしたら、定規や図面や、パソコンで打ち出したような直線よりも信じられる「面」だったのだ。彼の言葉のトーンに、僕は何も言えなくなってしまい、同時にとても羨ましいと思った。体験の本質はここにあるのだと思う。

人のした体験は奪えないし変えられないものだから、ある人が自信を持って自分の体験を語るとすれば、こちらは「そうなんだ」と言うしかない。こういうと「あなたにとってはそうなんでしょうね」なんていう返しもあるが、そういう体験を尊重するのがまさに読書体験なんじゃないかと思う。国語の授業では、藪から棒に「作者の気持ちを答えなさい」とかいう問題が出てきて、そんなの知らん、などと思いながら長文読解のテクニックを使い問題を解くことになるのだが、この問題の本質は「他人がした体験を尊重してそれを推し量る」ことにある。合っているとか間違っているとかが重要なのではなくて、それを想像して、自分で穴埋めすることが大事なんじゃないか。

 

屠殺の話に戻ると、誰かが代わりに動物を殺し、スーパーに肉が並んで、それを毎日食べている身として思うことは、「切り身になった誰かの屠殺体験」の余白を埋めたくなっている、ということなのかもしれないと思った。世界の裏側がどういうふうになっているのか、鶏は、豚はどんなふうなのか、どのように命はやり取りされているのかを知りたい。じゃあなぜ余白を埋めたいのかといえば、僕が屠殺体験を尊重したいからであって、追体験したいからだ。「命に感謝できるようになる」とか言うが、僕は生きていること自体は理不尽だと思っているし、屠殺体験を「命への感謝」に結びつけるのは正直グロテスクだと思っている。生きるために食べるしかないのだ。これは別に生きているから仕方ないとか開き直って言うつもりではなくて、本当に、それ以外ないと思う。その事実を理解したい。自分にとっての「リアル」が必要なんだと思っている。そういう複雑な感情の機微をうまく言葉にできないから、自分で一回、やるしかないんだと思う。まあ、しっかりちゃんとビビっているけど、死ぬまでにやらないといけない気がしている。