自分が一番わからない!

 

 

30年も生きて、ようやく自分のことが少しずつわかるようになってきた。というより、自分のことなんて、本当はほとんど分かっていないのだと思った。結論から言うと、僕は発達障害だった。「自閉症スペクトラム」というものらしい。

こういうのって公表すべきなのだろうか。別に言ったからといって、同情を誘ったりする意図は全くないし、今まで自分がやってきた(であろう)失礼な言動や態度が精算されるわけじゃない。...されるわけじゃないけど、もしも自分が新しく生まれ変わっていくことができるのだとしたら、ちゃんと人と話さなければいけないんじゃないかと思った。このブログは、そんなにたくさんの人が読んでいるわけではないと思うが、読んでもらえるとうれしいと思う。

僕は小さい頃から人とコミュニケーションを取るのが苦手だった。誰かの会話の中に入っていくのがとても苦手で、いつも話しかけられるのを待つしかなかった。打ち解けて仲良く話をしたりするまでにもかなりの時間がかかる。「どういうふうに相手に何を話したらいいのか」がまず分からない。「相手に不快じゃない言い方」「相手に不快に感じさせない態度」もあんまり分かっていないような気がする。わからないし、人が気を遣ってくれていたりするときも、それを感じたりはするけど、それに対してどうすればいいのかが全く分からないから、かなり無愛想な反応をしてしまう

学生の頃、飲食店でバイトをしていたが、自分は明らかに接客には向いていないため、いつも裏方の仕事を選んでいた。それでもお店が混んだりすると、自分がお客さんのところに行かなくてはいけなくなったりすることもある。その度にいろんな人から「仕事はめちゃくちゃできるけど、ちょっと愛想がないね」と言われてきた。しかも言われたあと、なんと返したらいいか分からないので、「はい」とだけ言ってしまうのだった。普通は「すみません」とかだろうか?こうやって文字起こししてみると自分のおかしさに気がつくこともあるけど、大抵の場合はあとになってから、「あ、あれもしかしてヤバかったかな」と考え込むことになる。

感覚的には、コミュニケーションについて考えたり言葉を発しようとしたとき、僕の脳の中はそれに関する部分だけ真っ黒で、相手がどう言ったか・それに対して何を返すべきか・これは言ってもよくてこれは言ってはいけないかもしれない、みたいなところがまるごと抜け落ちて"無"になっていて分からない。それからこの歳になると、例えばみんなが笑っている時に「どうすれば場の雰囲気を壊さず自然なのか」を、ようやく知識としては覚えたが、「笑った方がいいんだろうな」と思っていても、顔の筋肉は動かないみたいなことも多い。

今もよく覚えている昔の話がある。僕には姉がいて、僕と違ってよく喋っていた。小さい頃は少しうるさいくらい。家族で夕飯と食べている時に「今日は天気がよかったね」「ごはんおいしいね」と姉が言っているのを聞いて、僕は「いや、そんなことわざわざ言わなくてもみんな分かってるだろ」と本気で思っていた...(言ってはない)。みんな共有しているであろうことなのに、どうしてわざわざそんなことを話すのか、僕には意味が分からなかった。本気で、というか…ここ数年まで、そういう感覚が当たり前だと思っていた。僕以外の人も、みんなそうなんだと思っていた。僕にとって会話は、「知らない情報」をやりとりするため”だけ”のものであって、「あれは良いよね」「これはこうだよね」というような「知覚・感覚の共有」には、全く意味を感じなかったのだ。

どうやら自分がおかしいのではないか?と気づいたのは、人と会話をしている時だった。僕と話したことがある人ならなんとなく想像できると思うが、僕は話の途中でよく真顔になって、何も喋らなくなることがある。それをして「怒ってる?」とか、気を遣わせてしまうようなことがよくある。「今何考えてる?」と言われても…何も考えていない。言うなれば、脳が処理落ちしているような感じだと思う。だから、人の話にちゃんと合わせて相槌を打ったり、表情豊かに反応している人を見ると「めちゃくちゃ頑張っているな」と思っていた。「頑張っている」とは非常に失礼な言い方だと思うが(思い切って言う)、僕にとっては人に合わせて表情を変えたり、反応したりすることはものすごく体力を使う。だから、会話の途中でエネルギーが切れ、無表情になり、自分だけ”勝手に”会話からログアウトしてしまうのだった。
真顔になることについて指摘されて、初めて「そういえばどうして?他の人はそれを”頑張って(頑張れて?)”やっていて、僕にはできないのか?」と思った。考えて、人のことを聞いて、話してみて、初めて「自分にはそれが苦手」だったことと、他の人が別に「頑張っているわけじゃない」ことを知った。

人間は、なにかの外部刺激から感覚器官を通して信号を受容すると、感情が起こって、それに対して笑顔になるとか、涙が出るとか、怒るとかいう身体反応が生まれるものだと思う。感情から表情などの出力へリンクして、自然に反応が出るものだと思うのだが(多分)、僕の場合は、自分の感情に対してその表現手法が極端に少なくて、パターンもないから、出力が「真顔」になってしまう。自分が怒っているのかどうかもわかっていないし、でも顔は動かせないし、自分でも全く「自分がした感情表現」の本意がわかっていなかった。もちろん楽しい時は笑えていたけど。

 

自閉症スペクトラムというのは、「アスペルガー症候群」とか「高機能自閉症(※こちらは医学的な診断名ではない)」とか言ったりもする。それらの症候を総称して「ASD(Autism Spectrum Disorder)」と呼ぶ。「人との関わりが上手く作れない」「表情が乏しい」「興味関心の幅が狭い」「感情の読み取りが苦手」「行動や数字にこだわりがある」「注意の切り替えができない」などがある。自分の興味あること以外興味がなく、気遣いもできないので、色々な対人の問題を抱えるものらしい(自分で書いてて落ち込んできた)。

その代わり、人が気にしないような部分に異常なこだわりがあったりして、それは僕の作品の「手癖」によく現れているように思う。以前、作品の加工について「なぜここまで丁寧に加工することにこだわるのか」と指摘され、言っている意味が全く理解できなかった。なぜと聞かれたら「そういうものだから」くらいしか答えられない。作品を見てくれた人が、かなりの割合でやたら「手作業の綺麗さ」を褒めてくれるのだが…なぜそんなことを言ってくるのか、全然意味が分からなかった。自分にとっては何の意図も企みもない、「そうしなければならない」と思い込んでいた無意識の仕事だったから。そうすることに何の疑いも違和感もなかった。

仕事をしていても、クオリティの保証はできるのだが、逆に「これはそんなに頑張ってやらなくていいです。適当で…」みたいなことを言われると、ものすごく困る。良い感じの手の抜き方がわからないし、頭では納期のこととか、全体のバランスを考えた時間配分や集中力のことも一応分かっているつもりなのだが、身体はそういうふうに動いてくれない。「気に入らないからこだわってやるんだ」とか「意地でも仕上げる」みたいな次元を超えている。

…また非常に厄介なことに、そういう自分の中でのルールは「他人にも共有されているはずだ」ということになっていて(これも特徴の一つらしい)そこから違う行動を取られたり、反応を返されたりすると、脳がパニックになってフリーズ、もしくは不機嫌になったりもする。感情のコントロールもできないから、トラブルになる。

できれば社会には出ず、ずっと部屋で作業するような仕事をすると良いらしい。職人や研究者などが向いていると言われた。本当にその通りだと思う。今、半分はそんな感じのことをやっているので、水は流れるべきところに流れるというか…良くも悪くもそういうことになっていくものなのだと少し感心した。ASDの人は社会に100人に1人くらいの割合で存在していて、近年はネットでそうした自分の特徴や性格をわかりやすく説明しようとしている人も多い。僕の今回のこれもそれに含まれることになるだろう。

...一つだけ弁明が許されるとしたら、こうした態度、言い方などは、決して人に対して攻撃しようとして起こしていることではない。断じてない。できれば普通に、人と仲良く、良好にコミュニケーションを築きたいと思っているし、自分にそれができないのだったら、せめて孤独に生きていくしかないとも思う。できれば人に迷惑はかけたくないし、トラブルになるのも避けたい。僕は小さい頃から自分が言ってしまったこと・やってしまったことで傷ついて反省するたびに「もう誰にも会いたくない」と思った。どうしても上手にできないからだ。「甘えてる、やらないだけ、できないなんてありえない」と思う人もいると思う。また、こういう懺悔みたいな文章を書いたところで、例えば僕のような人に過去に暴言を言われ傷つけられたことのある人が、「そうか、しょうがないんだ、わかりました」ともならないと思う。これは他のすべてのことにも言えると思うが、理解と感情は全く別だと思うし、どうしたらいいのか僕には分からない。

 

これからの自分を考えていくにあたって、自分はどうするべきかと考えたとき、あまりに自分の中で「当たり前」になっていることが多かったなと思った。普通は(...もはや何が普通で何が異常なのかすらもあいまいだが)どうするのか、自分の態度は他の人にどう思われているのか、それをどのようにほどいていくべきなのかを、人と話して、自分なりのコミュニケーションを作らなければいけないんじゃないか、と思った。

発達障害だからといって「認めてくださいよ」と言うんではなくて、できないことはできないでもいいけど、その代わり何かでカバーするべきだと思う。表情が乏しいなら「面白い」とか都度言葉にするとか、興味がもてなかったら自分が質問して、気になるところを聞いてみるとか、ひとつひとつ、少しずつ解けないかと思った。

できないことは多いが、できることもある。僕の場合は、美術をやっていることで、そういう特徴を才能に変換することもできる(また美術に救われている…)。特に、自分の興味のあることであれば集中力と記憶力が高いようなので、自分のことを理解して、自分のやるべきことだけに集中できたら、変わるものもあるかもしれない。

 

自分の周りで美術や芸術に興味を持つ人は、ADHDなどの発達障害の率がかなり高いと思う。だからそういう診断を受けて特に驚きはなかったし、「やっぱり」と思ったのが正直な感想だ。でも、言葉にして言われると、少し安心もした。僕は幸い、自分の能力を多少は生かせるような仕事ができている。だからちょっと自分の個性みたいなものだと思い、付き合ってやっていくしかない。その代わり、人に不快な思いをさせることもあるので、上手なやり方を見つけなければいけない。診断を受けて、はっきり言葉で言われると、なんだか少しだけ救いがあった。自分のことが一番わからない。いい方向に変わっていけるだろうか?少しだけ自分に期待が持てるようになったかもしれない。