涙の理由

 

 

...僕はとにかく泣き虫だった。幼稚園に通っていた頃、毎朝通園バスに乗り込むだけで大泣きしていた。母親と離れたくなかったり、クラスにいじめっ子がいたり、上手に友達を作れなかったりしたからだ。そういう子供だった。あまり友達と遊んだ記憶がない。多分親は相当心配したんじゃないかと思う。

小学生になってからは、友達も少しずつできていたと思うが、登校して毎日…大体2時間目が始まるくらいまでは、ずっとハンカチを顔に押し当てて泣き続けていた。そのときの感触が今も思い出せるくらい泣いていたから、ハンカチには子供ながらにこだわりがあった。当時、自分が持っていたハンカチ全ての吸水性を研究・分析していて、「このハンカチは一回軽く濡れてからの吸水性が高い」とか「このハンカチは朝一発目からでもぐんぐん水を吸ってくれる」とか考えながら泣いていた。だから大泣きしても涙を最後まで吸ってくれるハンカチが好きで、そればかりヘビーローテーションし、学校に持っていっていた。我ながら変な子供だった(『涙は出るもの』という前提のもとに行動していておもしろい)。今となっては、どうしてあんなに涙が出たんだろうか。よく分からなかった。

同級生に、同じように大泣きして学校に来ている女の子がいた。その子はお母さんが一緒でないと学校に来られなかった。寂しがりなのだと思う。その子のお母さんはとても優しそうな人で、いつも少し困ったようなようすで微笑んでいたのを覚えている。なんだか僕も「泣く気持ちが分かるなあ」と思っていた。だから自分も、もしかしたら寂しかったのかもしれない。

小学校もある程度まで学年が上がると、徐々に人と話せるようになって、友達も増えた。授業中にも積極的に手を挙げるようになって、泣くことはほとんど無くなった。それがだいたい小三くらいの頃だ。それからは逆に…ほとんど涙が出ることがなくなった。

 

僕はずっと自分の存在が客観的に見えていて、小さい頃は特に、自分がやっていることをいつも頭の上から見下ろしている感覚があった。飼っていたハムスターが朝になって冷たくなっていたとき、姉は大泣きしていたけど、僕は涙が出なくて「泣かなきゃいけないっぽいけど泣いたほうがいいんだろうか」と思って、無理やりなにかを考えて泣く、みたいなことがあった。テレビで映画を見ていて「この映画、すごく感動するみたいだよ」と親に言われたけどいまいち泣きどころがわからず「これは泣けるんだぞ、感動する話なんだぞ…」と自己暗示をかけ涙に至る、ということもあった。”人に共感する”ということに、いまいち実感を持てないので不発に終わることが多い。感情にブレーキをかけてしまうことも多かったような気がする。

特に「泣く」という行為に対しては、「男のくせに」という言葉を何度もかけられて生きてきたので、極端にリミッターが強かった可能性がある。幼稚園くらいの年齢だと、泣くとさらにバカにされたりすることが多いけど、小三くらいだと逆に心配されるので、心配される→迷惑→泣いてちゃいけないんだ、とも無意識に思っていたのかもしれない。

 

そういうわけで、人から怒られて泣くことはあっても、「感動」して泣くという体験はほとんどしたことがなかった。当時流行っていた漫画の、(おそらく)とても泣けるシーンを読んでも…まあ確かにいい話だなとは思うが、涙になって流れることはなかった。上に書いた映画のようなものでも同じだ。多分、これも発達障害とかそういうのが関係あるのかもしれないけど、当時は「なぜ泣けないんだろう」と本気で思ったし、感動して泣くということに憧れすらあった。他の人が自然にやっていることができない・それに至らない、というのは、感情の自認はどうあれ、結構辛いものだ。

で、その均衡が崩れることになったのが、宮崎駿の「風立ちぬ」を見た時だった。何度目かの「もう本当にこれで(監督業を)引退する」と言うから、なんか今度こそマジっぽいかもと思い、映画館に足を運んだ。

ストーリーを目で追い、上映時間が過ぎていき、「なんだ、泣ける泣けるってみんな言ってたけど、そこまでじゃ…」と思っていると、「ひこうき雲」が流れ、エンドロールを眺めながら…気付いたら、僕は号泣していた。息ができないほどに。顔が上気し、泣き声すらも上げそうになるのを荒い呼吸で必死に堪え、自分がどうして泣いているのかもわからず、ただ涙をこぼしていた。エンドロールが流れ切り、館内に電気が灯っても、立ち上がることができなかった。座席に縛り付けられたように、激情が全身を貫いていくのをただ感じていた。

まさか泣くと思っていなかったのでハンカチは持っていなかった。汗を拭くために持っていたデカ目のタオル(”超”吸水である)で顔をぬぐいながら、映画館を出たあとで「あれは何だったんだろう」と考えていた。今まであんなに泣いたことはない。それよりも、自分がどうして泣いているのか分からないのに、涙が出ることがある、ということも初めてだった。「風立ちぬ」がいい映画なのかどうかは、いろんな人の感想があると思うし、別にここで論じて書くつもりはないが、僕にとって、それが何らかの”きっかけ”になったことは間違いがなかった。

それからというもの...僕はあらゆる作品、音楽・映画・漫画・アニメ・文章…さらにはなにか空とか川とか、その辺を歩いている小さい子を見ているだけで涙が出るようになってしまった。音楽を聴いているときは特に酷い。電車の中でも泣いていることがある。まるで、小さかったあの頃に戻ったように…

 

正直なところ、なぜ自分が泣いたのか、風立ちぬを見たあと少し考えて、すぐにわかった。あくまで自分の中での答えではあるが、僕が泣く全てのタイミングに共通していることがあった。それは「愛」であった。

作品を見たときに、例えば作品に描かれている対象物に対する作者のまなざしがある。それを描いている時のことを想像する。あるいは、その作品を作るために、世界に対して向けている「希望」を想像する。世界がどんなふうにあってほしいか、そのためにその人がどれだけ誠実にあるのか想像する。音楽だったら、それを演奏して楽しんでいる姿を想像する。何かを伝えようとして、それに真摯に向き合っていることを想像する。それはきっと愛だと思う。世界に対して向けられている愛だ。

誰かが誰かを見守る視点であるとか、どうか理不尽な目にあわないで、せめて、笑えていなくても、できれば穏やかにいてほしいと思うことも愛だ。小さい子が、お母さんやお父さんと手をつないで歩いているのも愛だ。夕焼けとかを見て、昔に友達とか、誰か大切な人と見たことを思い出すのも愛だ。きっと、家族を、友人を、誰かを、動物を、世界を、そういう時間を…愛していたということに気づかされるのだと思う。だから泣くのだ。と思った。

 

自分がそういうものを作れるか?とか、自分の作品を見た人にそういう気持ちになって欲しい、とかは全く思わないが、僕が見てそういう作品はかっこいいし、間違いなく”良い”し、そういうものが「いい作品」だと思っている。そうじゃないものがどうとか、そういう話は別にどうでもよくて、僕はやはり、芸術のなかにそういうものを求めているし、求めたいと思っている気がする。それは間違いなく自分自身のためではなくて、他の誰かに向けられているものであってほしいし、そうした活動がもしも自分のためにあるとしても、その対象は誰か他の人に向いていてほしいと思う。

自分自身がコミュニケーション下手なのもあって、もしかしたら、自分はそういうことに飢えているのかもしれない。できれば誰かのために。あんまり上手にできないけど。
そういうものが言葉を超えて、風立ちぬを見た時の僕のように理解も超えて、強烈に心の琴線にふれる。ガーンと、うるさくて優しい音を響かせる。だから芸術は良い。