「仲間がいるよ」

 

 

最近おもしろい人(funnyではなくてinterestingのほう)と話をすることが多くて、自分の世界がどんどん広がっていくのを感じながら過ごしている。そもそも僕は人付き合いが得意ではないため、僕にとってそれは”とても”貴重な出会いだ。例えば「なにかを一生懸命に研究している人」や「人の10倍くらいの速さで生きている人」とか、「僕が知らないような世界で生きてきた人」「尋常じゃない量の知識を持っている人」など…そういう人たちが僕に興味を持ってくれて、話を聞いてくれて、自分の話もしてくれることはとてもありがたいし、ものすごく勉強になる。面白い世界がたくさんあるなと思う。

僕は共感性が薄すぎて、今までどういうふうに人とコミュニケーションしていいのかが分からなかった。...正直今もあんまり分かっていない。人に興味を持って、相手の話を聞くことが「もしかしたら楽しいかも?」と最近になってようやく気づいてきた感じがある。それはもちろん今まで話してきた人たちに興味がなかったというわけではなくて(僕のリアルな知り合いも何人か読んでくれているらしいため一応)、僕がどういうふうに相手の懐に踏み込んでいいのかが分からなかったために、上手に会話ができなかったのだ。今まで出会ってきた人の中にもそういう「おもしろい人たち」はいたが、上記の理由で、初対面で相手のことをガンガン聞き出したり、すぐに相手と打ち解けて仲良くなれる人がずっと羨ましかった。今以上にもっといろんな出会いがあっただろうと思うから。

 

そういうわけで、学友や知り合いの人たちと、自分なりにそれなりに仲良くやってきたつもりなのだが、僕個人の実感としては、人と話していてもなんだかいつも孤独感があった語弊があったら申し訳ないが)。自分の興味のあること…趣味なんかでも、例えば同じミュージシャンを好きだったとしても、他の人と僕の音楽の聴き方は違う可能性が大いにあるし、感動の仕方も人それぞれ多分違っている。…と思う。だからなおさら、自分が興味のある「世界」のことなんて、共有できている方が変だと思うのだ。

自分がこういう世界で作品を作っていこうとしたときに、「なぜ作品を作るんだっけ?」とか、「自分にはなにができるんだっけ」みたいなことを考えだすと、自分の内側にある記憶とか、体験とか思想みたいなものを掘り返さないといけないため、どんどん個人的になっていくし専門性も増すし、話を共有できなくなってくる。たびたび話に出している僕の恩師が「作家は孤独と闘わなければならない」と言っていた意味が、あれから何年も経ってようやく分かってきた気がする。人と話をして、「これって良いよね」みたいに"共有できる"次元をとうに超えてしまった。自分だけが行ける、自分にしかたどり着けないようなものを目指す、そういう世界についに足を踏み入れてしまったということなのかもしれない。

昔に読んだので記憶が曖昧だが、ショーペンハウエルか誰かが「対話をせずとも、哲学することで私はひとりでも真理に辿り着ける」というようなことを書いていたのを見て、当時そういうものにめちゃくちゃに影響されやすかった僕は、「そうだ、自分が頑張りさえすればひとりでもどうにでもできる」と、どういう意味でそういう言葉が残されたのか、よく理解しないまま言葉だけ信じきっていた。だから僕は誰かと一緒に作品を作るとか、誰かと一緒に仕事をするとかいうことをあまり選んでこなかった(自分の性格と状況を鑑みれば、うまくコミュニケーションを取れない自分を肯定したかっただけだと思うが)。

でも、最近になって、実際はそうではないんじゃないかと思った。僕はひとりきりで生きてきたわけではないし、僕が芸術を志すようになったきっかけを作ってくれた、たくさんの先人たちの存在があった。僕がこういうブログを始めようと思ったのも、僕が感じている、こういう連綿とした「人間の営みの良さ」みたいなものを書き残しておきたいと思ったからである。

ネットをサーフィンしていると、時々、とてもニッチな研究をしている人を見つけたりする。世の中には「こんなもん誰が読むんだよ」というようなことを、バカみたいに真面目に調べたり、一生をかけている人がいる。でも、そういうものがちゃんと残されて、誰かにとってものすごい輝きを放つことがあるのだ。僕は、特に「こんなもん誰が聴いてんだよ」という"変な"音楽に、時々どうしようもなく救われてしまう、というような体験を何度もした。だからそういうものの輝きを、多少なりとも分かっているつもりである。いろんな本を読むようになって、まさにそのことを実感させられている。多くの場合は、1冊読んだらそれに関連するものを2・3冊追加で読まないとそれに関することはほとんど理解できないようになっている。それを書いた人も何かを参考に思考を広げていて、頭のいい人たちだってそういうふうに知恵を繋いでいるからだ。僕は僕ひとりで生きていたわけではない、と以前別の文章で書いた気がするが、僕の存在は、僕に両親がいたからで、両親も、またその先祖から受け継がれてきたものをもっている。つながって生きているわけだ。我々はその末裔にあたる。だから僕たちにもまた、なにかを繋ぐ使命があるかもしれないと思う。

 

...で、表題の言葉は、僕が最近ある人に言われた言葉だ。それを書き残したかった。その人はとても自由な人だった。レゲエをやっていて、カッコ良くて、誰にでも同じ笑顔で笑う。人を決めつけたりしない。穏やかに、真剣に、まっすぐ僕の目を見て話してくれた。心の中に愛を持っている人だと思った。

作品を作るときは、もし誰かと一緒に制作していたとしても一人になるものだ。だから、世の中にあるいろいろな問題や矛盾を知ってしまって、「どうしよう」「このままじゃこの世界はやばいぞ」と思った時に、いつも一人でやるしかない。話を共有できるような人は確かに周りにいるが、酒を飲んで大事なことの話とかをしても、結局、家に帰って「さあどうしよう」と考えだす時には一人になる(酔ってあんまり覚えてさえいなかったりするが)。向き合わなければいけない問題は一つではないし、それこそ人によっても違う。ウイルスや戦争、飢餓、差別、あるいは...もっと個人的な問題ということもある。特に、自分の作品は自分が「勝手にやりたいこと」であって、自分がやらずにはいられないようなことだから、誰かの手を借りるなんて良くないと思ったりもする。自分のやりたいことを人にやらせるのはあまり良くないと思うし。

できれば、理不尽に悲しむ人がいなくなったらいいと思うし、万が一そうなったとしてもそういう人がひとりきりにならずに、誰かとそれを共有できて、心が救われるような、救いのある世界であってほしいと思う。椎名林檎が「この世にあってほしいものをつくるよ」と歌っていたけど、僕もそう思う。…でも、そういう問題と向き合おうとすると、あまりにも強大なものに立ち向かわなければいけないことに気がつく。ひとりではどうにも無理な気がしてくる。勝てないんじゃないか?

 

その人と話している時、思い切って、そういう自分の心中を打ち明けたのだった。いろいろ考えすぎて弱気になっていたんだと思う。彼は、いやー俺もそういうの、超えたんだよね〜と前置きした後、真剣な目をして「大丈夫、俺たちには仲間がいるよ」と言った。一人では勝てなくても、協力すればいいんだ。みんなが"その気"になったら、明日にでも世界は変わるよ、と言っていた。…仲間か。ずっと考えたことはなかったけど、誰かと一緒だったらできることもあるかもしれない。そうだ。言葉に不思議な説得力があって、僕はものすごく救われたのだ。

痛みとか悩みとか苦しさとか、あまりにも人と共有できることが少ないから、多分僕たちは少しくじけているんじゃないかと思う。ネットを見ていると、一生懸命何かを共有しようと、毎日たくさんの人が世界に救いを求めている。それは孤独を埋めたいとか、ひとりが寂しいからとか、そんな理由じゃない気がする。なにかと闘う力が欲しいんじゃないのか。先日、中島みゆきの「ファイト!」を聴いたときにそう思った。あの曲はまさにそういうことなのだ。近頃は「頑張りすぎない」とか「ほどほどに」みたいな言葉をたくさん見るが、それが答えなら、どうして人は相変わらず救いを求め、他人の承認を必要とするのだろうか。本当は、闘わないと、向き合わないといけないのに...頑張れ、やろうぜと、「背中を押してくれるなにか」を求めてるんじゃないのか。

 

もし、自分の人生に真剣に向き合うとしたら、人は必ず孤独になる。自分の問題は自分にしか分からず、それは他人にはどうしようもできないことだから。ひとりで膝を抱えるしかないこともある。どれだけ泣いても待っても、助けてくれるヒーローなんか来ない。それどころか残念ながら、向き合った結果負けることもある。

でも、彼が言ったように、この世界のどこかに必ず仲間はいるんだと思う。今はまだ出会っていない人かもしれない。まあ実際その人も具体的に何もしてくれない可能性もあるが、「いいんだ、闘え、ひとりじゃないから」と言ってくれたら、それだけで救われるような気がしてくる。死んでも多分誰か骨くらいは拾ってくれるだろう。人の目的はそれぞれ違うし、向き合わなければいけないことも違う。だからこんな文章を書いたくらいでは、誰かを救うことはできないと分かっているが、僕はとりあえずこの文章をもって、誰かに「一緒に闘おう」と言いたくなったというわけだ。

僕も、自分にできることを頑張っているよ。