自分には無理

 

 

メンタルの状態が良くない。

 

人に見せる文章を書くなら、そしてそれをこうやって公開するなら、それなりに自分の感情をちゃんと整理して客観的にしなきゃいけないと思っている。というか、作品はそうあるべきだし、そうなければいけないとも思うし、そうであってほしいと思う。

というのは、学生だった頃に色々な作品を見て、思うところがあったからだ。自分のことを分かってほしくて泣くくらいなら、分かってもらうだけの努力はした方がいいと思う。自分の話を聞いてほしいだけなら居酒屋で気の許せる友人とでもすればいいのだ。それをわざわざ公開して見てもらったり、お金まで取ろうとするのは、物事の構造がおかしい気がする。…と思っていた。でも、今の精神状況でそういう理想を持ち続けることがかなり厳しくなってきてしまい、なんだかもう「どうでもよく」なってきてしまった。自分で自分が残念だ。あんなに芸術に志をもって、希望を持って生きていたのに。

というかまあ、芸術がなかったら多分僕はこんなに生きていなかったと思う。人には、一部の人にしか見せ(られ)ないようなメンタル爆死状態があるものだが、実際のところ僕は全然強い人間ではない。全くポジティブでもない。最近、文章は自分のために書くというか、自分を鼓舞したり奮い立たせるために書いているところがある。耳触りのいい言葉を選んでなんとか希望を残そうとしているのである。なんとなく考えとかが変わっても、「この時の自分はこんなに頑張っていたんだな」と思えるからだ。その落差を自覚させられて苦しくなっている節もあるのだが…うだうだと別に言うほどでもない話をしてしまっているかもしれない。不覚である。

例えば、「あるプロフェッショナルに密着する某番組」に出てくるような有名人だったら、なんかメンタルが終わっていたとしても「やっぱりすごいことをやってのけるような人は理解されない苦労があるのよね」と言って共感されそうな感じもあるが、自分の場合、まだ何ひとつ為し得ていないというところがちょっとおもしろいなと思う。このように、自分自身を客観的に見ている自分もいる。「いつかはきっと」と「破滅」とが頭の中で闘っているような感じ。ただし今は後者が2:8くらいで優勢である。

僕は、もうなにか自分の中に諦めみたいなものを持っているのだと思う。自分の作品が何かになるとか、どんどん高いところに登っていきたい、みたいな希望を持っていた頃というのは、そういう可能性がたくさんあったからこそ夢を見ていられたのかもしれない。でも、最近になって、自分の進む方向と、自分が実際に持っているものと(能力や性格的なものも含めて)、何を楽しいと思えるのか、それから自分の状況や環境なども変化していくということを実感している。世の中にはできることとできないこと、やれることとやれないことがある。何かを決めざるを得なくなってきた。決めるとは、何かを捨てることでもある。自分にはこれはできない、やりたくない、自分のやるべきことじゃない、などといったことを、一つ一つ冷静に見極める必要も出てきた。それに気付いてしまった。

 

小さかった頃、大人になるといろんなことを諦めなきゃいけないんだと思っていた。見てもよく分からないドラマとかを親の背中越しに見ながら、「もう若くないしさ」「いつまでも子供じゃないし」というような若い俳優のセリフを聞いて、「そうか、大人になるとダメになるのか」と、子供ながらによく分かってもいない知見を得ていた。最近になって、何がダメなんだろうかと考えてみた。自分がそういう年齢に片足を突っ込み、「何か」を諦めなければならない年齢に差し掛かるときに「でも割と自分は自由に生きているかもな」と思ったりもした。実際何かを諦めたという意識は今のところない。それは僕がまだこうやって美術にしがみついているからだろうか。

でも、交流がある人の中に、今の自分よりも歳が上でも、自分の何かを変えたり、何かに挑戦していたり、全く新しいことを始めた人がいたりするので、年齢っていうのは実は大した障害ではないのではないか、と思ったりもしているのである。多分、人生は縁とタイミングというものが非常に重要で、それによって人の運命みたいなものが大いに変わっていくことになるのだと思うが、人々がよく言う、いわゆる「始めるには遅すぎる」ような話だって、人にとっては「その人のタイミング」が一番最適なときってことになるんじゃないのだろうか。

 

いろんなことに興味を持ちすぎると、自分の中で集中力が分散してしまって、どれも中途半端みたいなことになる。何か考える上で、「あれは実際どうなんだろう、そういえば具体的なことをよく知らない…いや、あのことについて考えるんだったら先にこの本を読んだ方が…ア、そういえばこの前買った本、まだ途中までしか読んでないから多分完璧に理解できてない…あああ…」となることが多すぎるのである。だから、自分の中に軸を一本通しておかないと、本当にやりたかったことをやれずに、”興味はあるがそんなに情熱もないこと”に時間を使ってしまうはめになる。それは最悪である。
ある意味計画的に、戦略的に選択をしていくというか、「諦め」をうまく利用することができたらいいかもしれないと思った。自分の中で優先順位をつけることもそうだし、時間配分をするとかもそうだし、諦めることによって純度が上がっていくこともあるんじゃないかと思う。

 

僕はずっと、大人になることや歳を取るということが、何かを諦めることなのではないかと思っていたのだが、多分、実際はそうではない気がしている。テレビで見るスポーツ選手や、なにかを為そうとしている人たちに共通している「目」は、自分が持っていた可能性を自分で削り、人生の集中力を高めているからこそ輝くのだと思う。要するに、自分の目指す・目指したい方向がはっきり見えていて、それに必要なものは全て吸収して、そのためだけに生きる。別にスターやヒーローになる必要もなくて、自分の人生の優先順位みたいなものがあって、それが決まったらそのためだけに生きる。すごいことをやる必要も、なにか為す必要もないのだと思う。メディアはいわゆる「すごい人」ばかり取り上げがちだから時々勘違いしてしまうが、注目されなくても自分のやるべきことに集中している人こそかっこいいんじゃないかと思える。

何も決めない状態というのは自分の中に可能性を持っておくことでもある。お腹が空いた状態でメニュー表を見ているようなものだ。あれもこれも魅力的に映る。…で、散々迷って注文したとしても、食べはじめて「うわ、蕎麦にしとけばよかった」とか思うことはよくある。そうなったら、ずっと食えなかった蕎麦のことを考えながら、アジフライ定食とかを食うことになるわけで、なかなか蕎麦を諦めることはできなかったりする。まあこれはアジフライに失礼かもしれないが、アジフライを食べたことで、自分が本当は蕎麦が食べたかったことに気づいたりするから、とりあえずなにか食べてみるという意味はあるのだ。

分化細胞学関係の本を読んでいると、受精卵が胚分裂する過程で、分裂した細胞がそれぞれ心臓、肺、脳、腕、足へ…というふうに分化していくらしいのだが、はじめはどの細胞もどの臓器にでもなれる可能性を持っているのだという。それを途中、役割分担をして、自分が何になるか決めていくらしい。細胞は自分の可能性を否定し、自分の進化に向けて進んでいく。この変化は不可逆だから、例えば一度心臓になることを決めた細胞はもう心臓にしかなれない。数年前に話題になったES細胞というのは、この分化した細胞を培養して臓器の再生などに利用するということのようだ。なんだか分化というのは、自分の可能性を否定して目的に向いていくという点で、先述した「諦め」と同じような感じをうける。

 

諦めという言葉のイメージに自己否定感が強いので印象が悪いが、生きていくことは少なからず選択をすることだから、何かを諦めないといけないのだ。それはいいことなのか悪いことなのか場合によって違うと思うが、進んでいくなら諦めなければならないことがあるのだと思う。「やりたいことを考えるより、やりたくないことをやらないようにしよう」とか「嫌いなひとやものに構っていられるほど人生は長くない」とか言うが、自分の道にないものを否定することは悪いことじゃないかもしれない。

今まで僕は、あまりにも嫌いなものや苦手なものにも向き合おうとして(自分比)生きてきたから、この歳になってもうめちゃめちゃに無理が生じ、今は完全に亀裂が入ってしまった。僕的には、苦手でも嫌いでも、向き合うことは「誠実さ」であると信じていた。自分の中になにか煮え切らなさであったり譲れないものがあるときなら尚更である。嫌いだからといってすぐにシャッターを下ろして避けるのは寂しいとも思う。でも、それをしている自分に無理が生じる。このままだと橋もかけられないほど断層が拡がる。もう諦めるべきだろうか。選ばければ進めない…