右腕の感覚

 

 

最近、やたらと右の肩から背中にかけての筋肉がごわごわして痛むので、近所の整形外科に行った。達人系のおじいちゃん先生(江戸っ子口調)に診てもらい、ひとしきり肩のまわりを押されたり回したりされた後、「まあ使いすぎだわな」と言われた。原因は右腕の酷使らしい。

酷使…。考えてみれば、制作で何かを切ったり、削ったり、研磨したり、塗装したりという加工の動きは全て、例えば音を与えるとしたらギコギコとかゴリゴリ、ゴシゴシ、ガンガンみたいなオノマトペになる反復作業だ。何度も同じ動きをすると、そこだけ筋肉が疲労して硬くなってしまうとのことである。痛いのは湿布貼るしかねェ、ということで処方してもらった。よくストレッチをするようにして、痛みがなくならなかったらまた来なさいとのことだったので家に帰り、とりあえず言われた通りストレッチしてみたら、本当に良くなった。達人系の先生は良い。患部の治療だけでなく、なんだか心理的にも、ものすごく安心感がある。

とはいえ、このままだと今後制作に入るたびに痛みと闘わなければなりそうである。僕は右利きなので、どうしたって右腕の精度の方が高いし、無意識のうちに右手ばかり使ってしまっている。その達人が言うには、人体というのは構造を持っているので、痛みは一時的にはなくなりこそすれ、筋肉や身体の使い方を変えないとまた同じ痛みがくる、ということだった。ウイルスのように、薬を投与すれば解決することができるわけではない。物理的な原因をどうにかしないと何度でも同じことが起こってしまうのだ。余談だが、整体なんかは理論上、全ての病気を治すことができるという話を聞いたことがある。骨がズレていると姿勢が悪くなる→筋肉が強張る→血流が滞る→内臓が悪くなる→病気、みたいなことで、姿勢を正しくして骨を本来の位置に戻せれば病気にもならない、という理屈らしい。

…ちなみに、僕は少し姿勢が悪いから、そのせいもあるのかと思って達人に聞いてみたが、「いやそういうことじゃない」と言われてしまった。

 

というわけで、このまま右腕ばかりを使って生活することが少し怖くなってきた。どう考えても、これから死ぬまで右腕の使用頻度の方が高いのは明らかである。だから、出来るときは左腕も使うようにしてみよう、と思った。制作だけでなく日常生活ほとんど利き腕でやってしまっている。でも、実際のところわざわざ利き腕を使うまでもないような動作も多い。そういうことをできるだけ左手でやるようにしてみようと思ったわけである。

意図してやってみるとこれが結構面白い。歯磨きの時とか、照準が合わなくて歯ではなくずっと歯茎のあたりをこすってしまう。ドライヤーする時なんかは、耳とか目に温風を当ててしまう。うまくいかない。缶ビールの蓋を左手で開けてみようとするが、開けた瞬間に盛大にこぼしてしまったりして全くだめである。いかに”利き手依存”な生活を送っていたかということが身に染みてわかった。

人間の身体は、左半身を右脳が、右半身を左脳が制御していて、右脳は感覚的で、左脳は理性的だとかいう。眉唾ものだ。だから左利きの人は個性が強いとか面白い人が多いとか言ったりするのだろうか。感覚と理性というものも、何を指してそう言っているのかよく分からないが、なにかそういう説を唱えさせるだけのなにかがある…ということなのだろうか。本当かどうかはわからない。でも左手を意識した生活をしてみると、まあ多分気のせいだとは思うが、脳の右側が活発になっている感じがする。頭の右側が拡張されて、渦をまくような感覚というか。両腕バランスよく使ったらボケ防止とかになるのだろうか。しかし、ビールをこぼしたときは結構落ち込んでものすごいストレスを受けた。これではいいのか悪いのか分からない。

手が上手に使えないのはなかなかに歯痒いものである。制作作業にしても、本当に精度を上げたい作業以外は左腕もバランスよく使うようにしているのだが、作業の進みや仕上がりに関わってくる。僕的には、最後の完成に向かって素材がどんどんかたちになっていく過程に気分が上がるというか、仕上がり自体よりも仕上げている途中の「形になってきてる感」が好きだったりもするので、最後だけ右腕にお願いしますと投げ、単純に満足できるものでもない。まあこれは言ってみれば、単純に自分の思い通りに手が動かせないストレスである。右ならできるのに、という悔しさもある。骨折なんかをして利き腕が使えなくなった時期のある人なら分かってくれると思う。

 

…それで思い出したことがあって、僕は以前、美術教室で小さい子に工作を教えていたことがあるのだが、そのとき、はさみを上手に使えなくて泣いた子がいた。確か5〜6歳くらいの子だったと思う。まず僕がデモンストレーションを見せて「こうすると上手に切れるよ」と教える。紙に線を書いて、その線をなぞるようにはさみで切る。大人ならまあ割と簡単な作業だ。…しかし、何度やってみてもうまく切れない。まだ手が上手に動かせないのだ。

昔のことなので忘れていたけど、自分もそうだったのだろうか?はさみと、あとセロテープなんかは大体多くの工作でも使われる道具だし、もう少し器用に扱えていたような気もするが、当時の自分も、彼のように「本当に表現したい線」を再現できずに、悔しい思いをしていたりしたのだろうか。彼は、僕が切った「きれいな線」を再現したがった。何度もはさみを持ち直して、上手いポジションを探して、何度も挑戦した。でも、切れるのは補助線からズレてしまったギザギザした線なのだ。ついに彼は「できない!」と言って泣き出してしまった。悔しい。僕も彼と一緒に泣きそうだった。分かるよ…。

子供の絵は確かに未熟ではあるし、例えば粘土なんかでも何を作ってるのかよく分からなかったりする。でも彼らはちゃんと分かっている…自分の頭の中でイメージしたものを再現したいと思っては、何度も描き直し、作り直し、”それ”を目指すのである。「本当はこうしたい」のに、まだ未発達でイメージ通りに動かせない手を、一生懸命動かして感覚をつかんでいくのである。自分の脳と手の感覚を接続しようとしているのだ。

僕は、自分の思い通りに身体が動かせない感覚を結構長い間忘れていた。いつの間にかなんでも上手にできるようになっていたから、できなかったときの記憶がない。でも実際にはそんなことはなかったはずだ。最初はお箸だってうまく持てなかったはずなのだ。僕でいえば左手の経験はまだまだ少なくて、多分これからたくさん経験することがあるのだ。色々なことができるようになった後では、未熟な運動はストレスになるが、そういう長い発達の時間があったあとに今の自分の感覚があることに気づくことができた。なんというか自分の中に、「経験と反復を積み重ねて発達した状態」と、「未熟で感覚が未接続の状態」が共存しているような不思議な感じがある。まるで木と木の年輪の関係のように、記憶として身体に感覚が刻み込まれているのだ。西田幾多郎の言葉を借りれば、それこそが「絶対矛盾的自己同一」であり、生きているという状態なのだ。人間らしさとは両面的なものである。そしてそういう自分の未熟さと向き合うことが健全な生き方であると、僕は想いを強くしたのであった。