僕は何も知らなかった

 

 

インターネット黎明期。ちょうど10代の多感な時期を過ごした自分にとって、ネットで見るいろんな人の体験や考え方というのは非常に興味深かった。僕の世界は小さかった。10代のうちなんて大体は家族とか親戚、学校、習い事や部活動の関係、あとバイト先の付き合いくらいのコミュニティしかない。テレビで聞いた面白い話とか、昨日学校であったこととかいうのはだいたいほとんどの人が共有している…その話知ってる。やばいよね。うん、やばかった。学校ではそんなことくらいしか話すことがない。話が上手な人だったら、もう少し切り込んだ返しをしたり、話を膨らませて盛り上げたり、ジョークを言ったりできるんだろうか。僕にはそんな話術はなかったし、人の噂話にも興味はなかった。ただ、そういう話をしていると人と仲良くなれるような気がして、人と話を合わせることしか考えていなかった。ひとりはさみしいし退屈だから。

 

話をするのが苦手で退屈なら、ずっと本でも読んでいれば良かったのだが、残念ながら当時の自分にはそんなことをする意欲もなかった。まず僕は小説が全く読めない。…読めないというのは、文章をいくら目で追っても、情景や登場人物の感情を察するのが難しいことがあり読んでもほとんど理解できないからだ。しかも自分が何に興味があるのかもわかっていないので学術書や古典も当然読めなかった。今は多少マシにはなったが、長文を読めるほどの集中力もなければ好奇心もなかった。大学に入って、やっと自分の興味のあることがなんとなく自分で分かるまで、自分の世界を広げようという考えに至らなかった。

だから、インターネットで世界を覗けるようになったことはとても楽しかった。自分と全く違った環境で育った人とか、人に言えないような悩みを持っている人がいて、そういう人がどこかで同じ時間を生きているんだなと思えた。

ネットの掲示板はよく覗いていた。今でこそネットスラングを当たり前のように使う人も増えているが、少なくとも僕の周りでは、そういうネットの世界というのは当時はものすごく一部の大人しい人だけが知っているような世界だった。ラノベ、アニメ、オンラインのゲームとか、そういうものに興味のある人だけが利用していたと思う。言葉は悪いけど、なんだかちょっと陰気な感じがあったのかもしれない。学校の友達にネットの話なんてできなかった。え、そんなの見てんの、ふーん…そういうの好きなんだ、へえ…。一回だけクラスの人に「なんかこいつはもしかしてオタクというやつなのではないか」という視線を向けられ、僕はそんなことをいちいち気にしてしまうような人間だったから、「あ、これは喋っちゃいけないやつかも」と直感した。しばらくはそういう世界のことを誰にも言えなかった。

 

成長していくにつれ世界がちょっとずつ開いていって、歳をとるごとに出会う人も増えたけど、相変わらずやっぱり僕の世界は小さかったと思う。そもそも世界には認知の問題があって、世界を持っている自分の視点は自分が中心だから、自分が見ていないものは存在し得ないのである。世界の存在・不在を認識しているのは観測者である僕ら一人一人なわけで、「知らない世界」のことなんてわからない。だからこそ哲学者たちは長いことずーっと「世界は在るのか」ということを考え続けてきた。

僕は見たいものだけ見て生きてきたし、その範囲もかなり狭かった。好きな映画や漫画だったらセリフを全部暗記できるほど何度も繰り返し見てしまうが、興味がないものには全く興味が持てない。「知らない世界」との境界がかなりはっきりしている。…いや、思い返すと、自分が見ていたものは本当に自分が見たかったものなのかどうかも怪しい。あのマンションとこのマンションのタイルの色が似てるとか、近所のドブ川の水面にペットボトルが浮いてたとか、道路の真ん中で干からびているミミズのこととか、そういうくだらないことばかり思い出す。それは「見たいから見る」というより、ただ退屈だったから、ぼんやり世界を眺めていただけだと思う。世界が狭いというより、世界を見ようとしていなかった。新しいものに目を向けず、自分が今いる世界の範囲の中で、たまたま目に入ったものだけを注意深く見続ける。そこに意図はない。自分の人生に当事者としての感覚がなかったのだろう。

僕らは自分の意思で見たいものを見て、会いたい人に会って、行きたいところに行く。それが当たり前だということになっている。高校やら大学やら、就職する会社とかも、自分が行きたいから選ぶ。「やりたいことをやる」ということだって、自分が選びとって少しづつ進んでいくわけだが、どうも僕にはその感覚が欠如しているような気がした。…何年か作家活動をしていたくせに、今更「実は好きなこととかなかったのではないか?」と思い始めてしまったのだ。

作品制作は自分を掘る行為でもあるから、なぜ自分がそれをするのかとか、制作を続けているのかとか考えた時に、どうしても自分の内側に立ち返らないといけない。でも、それを突き詰めていくと結局「好きだから」みたいな、強いようでものすごく感覚的・抽象的なことを言わざるを得ない”言葉の行き止まり”みたいなものを感じる時がある。好きだからやってるんです、と言われたら納得せざるをえないというか、自分もその気持ちに寄りかかってしまうというか、本当はどうなのか考えづらくなるというか、じゃあ嫌いになったらやらないのかとか、そもそも好きとか嫌いとか考えてやってるっけ、とか…そういうめんどくさいことばかり頭をめぐる。

 

自分は、美術を志すようになって「これは結構面白い世界だぞ」と思い、わくわくして過ごすことが増えたので、一層「知らない世界」とは距離を置いたと思う。というより「見たいもの」だけ見続けて生活していた。心が躍るようなもの、面白いもの、わくわくするもの、感動するもの…僕の周りにはそういうものがあった。意図してそういうものに囲まれようとしていた。だから、ずっと「世界は綺麗だ」と思って生きていた。他に何も知らなかったから。
大学を卒業してから、ずっとユートピアのように閉じられてきた、自分の嗜好によって心地よく作られた世界が開いてしまった。少しずつ輸入品や外来種みたいなものが自分の中に入ってきた。いろんな人、価値観、世界…自分の考え方や信じてきたものが揺らぎはじめた。その時は人を受け入れることが必要な気がしたし、人に興味も出ていたし、好奇心もあった。自分が知らない世界のことを知りたいとも思った。でも、そういうものを受け入れていったときに、自分が今まで持っていたものが揺らいでいくような感覚もあった。「こっちへいけばきっと光がある」と信じてきた方向に、実はそんなに希望がないのでは、とも思ってしまった。自分が見ようともしなかった、見たくなかった世界は結構実はすぐ近くに、しかもそれが当然のようにあるということに気づいてしまった。30年も生きてきてなにを今更、という感じだが、平気で人を騙したり、貶めたりする世界があることを僕は知らなかった。善意で生きている人間は必ず報われるものだと信じ込んでもいた。頑張っても報われないことがあることに全く気付いていなかった。悪人が罰せられるとは限らない、ということも知らなかった。本当は身の回りでもそういうことは多少起きていたはずなのに。

いや、正しくは知っていたけど、「自分とは関係ない世界」で行われているようなものだと思っていて、それこそ画面の中・本の中・自分とは地続きでない別の世界軸の話だと思っていた。昔に某掲示板を見ていた時も、「自分とは関係ない人が、関係ないところで苦しんでいて、ある程度何かに守られた自分がただ人の苦労を消費しているだけ」だったに過ぎないと思う。なぜなら僕が生きていた世界ではそんなこと起こっていなかったから。対岸の火事みたいなものだ。本当は僕の知らないところで当たり前に、ずっと「それ」は行われていた。自分に本当は何が起こっていたのか、その色々に気づいてしまった。

目が輝いていた頃は「世界が綺麗である」という希望を共有するような話を人に対していたし、自分にもそう言い聞かせていた。その時の自分の言葉に全く嘘はなかった。本当にそう思ってたから。何も知らなかったからである。無垢は無知だ。「お前はピュアすぎる」と友達にも言われた。確かにそう。知らないから希望が持てる。

理不尽とか暴力とか苦しいこと辛いことをたくさん知って、世の中のなんかそういう汚さみたいなものも知った上で、それでも綺麗だと言えたり、それを語り続けるために作品を作り続けることはできるんだろうか。それはかなり難しい気がしている。多くの人は多分そういう、自分を苦めてストレスを与えるものから距離を置くだろうし、何か作品を作る人なら尚更、自分が信じられるものだけを集めて、そういうものを目指して生きていくと思う。なぜか最近になって、そうじゃないものを見る(というか目に入ってくる)ことが増えてしまって、非常に精神がブレている。芸術には才能がいるとか言うが、僕個人の実感で言えば芸術に才能は全く必要ない。必要なのは盲目性だけだと思う。自分の好きなもの以外見ない。それだけ信じる。自分のやっていることに疑いを持たない。ある意味機械的に情報をミュートすること。自分の感性を守るために必要なことだ。そういう意味では僕に才能はない。好きなものに狂い続けられる熱が足りてない。

人から見れば、多分余計なものに目を配って勝手にやる気をなくして、こいつは何をしているんだ、バカなのか、となる気もする。というか自分でも正直それを思う。ただ、別に才能がないからやめますとか、そんなくだらないことを言いたいわけではない。というかそんなのずっと昔に自分で痛いほど分かっていながらやってきたわけで。
ただ、僕が思っているのは、人と同じ目線で希望を語る必要があるとして、目の前になんとか手を取りたくなるような、絶望している人がいて、その人と全く同じ体験を僕がしていたとしても「世界は綺麗だ」なんて言えるのかどうか、それこそリアルだな、と思ったのである。

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週間引っ張ってこんな駄文しか書けないのもまたリアルなものである。