迷って悩んで間違えて

 

 

先週、ある漫画を読んで、もう自分でも意味がわからないくらいに嗚咽してしまった。僕は映画を観たり音楽を聴いたりして泣くことは結構あるが、漫画を読んで泣くというのはあまりない。こんなに泣いたのはハンターハンターの”蟻編”を読んだ時以来である。

ほんの数巻で完結する話なのだが、最終巻が一番ヤバくて、涙で文字が見えないくらいだったので、最後の方はもう正直絵の雰囲気だけで泣いていた。だから内容があんまりちゃんとよく分かっていない。読み終わった後しばらく放心状態で口も訊けず、食事もちゃんとできなかった。なんか、こういうものを信じて世界に作品を残してくれたことに対して本当に頭が下がる思いだった。作者の方が、漫画の終わりにあとがきを書いていて、「大切な、美しいものを描きたかった」と書いていたのを見て「うわあ(感激)」と思った。なんか弱気になっていた僕の心に確かに届いた。

 

それで、まあ「影響を受けた」といえばそうなのだが、なにか物語を書いてみたい、と思った。もともと自分の作品用に構想していた”あるテーマ”があって、でも、自分の主な表現手法である立体やインスタレーションでは、自分が描きたいことを伝えきれないというか、手段が適していないような気がしていて、ずっと模索していたのだった。で、こうして今ブログを書き始めてみて、結構飽き性な自分が半年間(断続的ではあるが)文章を書くのを続けられているということもあって、小説を書いてみようと思った。志賀直哉を読んでみて「小説って良いかも」と思ったのも機会としては大きかったのかもしれない。

大まかなストーリーと、大体の構成だけ決めて、あと自分が描きたいテーマをはっきりさせて…まあこの辺は美術の作品を作るのと結構似ている。僕は美術作品の場合は、いつもどんなものを作るのか完全に決めてから手を動かし始めるのだが、それと同じようなやり方をすると自分が面白くないかもしれないと思い、やり方を変えることにしてみた。結末だけなんとなく考えておいて、あとは書きながら考えようと思った。

で、書き初めてみて、やっぱりめちゃくちゃ難しかった。考えながら文章を表現にしていくのはかなり頭を使う作業だ。このブログはいつも大体4000字程度を目安にして書いている。書きたいことが決まっていれば大体2〜3時間くらいで書き終わるのだが、小説となると全然話が違う。難しい。作家の本職の人たちは、大体ひと月くらいあれば長編(8〜10万字くらいらしい)を一本書いてしまうらしいが、ひと月では書き終わる気がしない。本当に終わらせられるんだろうか。まだなにも分からない。

でも、新しい制作に向かってみるというのは良かった。「書きながら色々決めていく」という感覚が僕にとっては新鮮だったし、書いたものを消して、新しい方向に向かっていくときが結構楽しい。例えるとしたら、植物が地面を割ってぐんぐん根を伸ばしていくように、少しずつではあるが力強く、幹は確かに大きくなっていく、みたいな感覚があった。そういうのが意外と生の実感なのかもしれないな、とも思った。失敗して止まっても、また別の方向に進む。その先でいくつも分岐して、うねりながら伸びていく。その「迷いながら進んでいく感」がなんとなく良い。間違いまくって、何度もやり直ししているわけだけど。

 

最近、映画を早送りで観る人たちがいるという。まあ別にそれは人の勝手なのでどうでもいいが、識者に言わせれば「コスパ」ならぬ「タイパ(タイムパフォーマンス)」を求めて、自分の限られた時間で一番効果や対価を得られる方法を選びたがる「失敗をしたくない」人たちが増えている、とのことだった。映画早送りのほかには、読書代行というのがあって、本を代わりに読んでもらい、人に要点をまとめてもらうというサービスなんかがあるらしい。

そして、その感覚が非常によく分かってしまう自分がいる。どうせなら最短距離で結果を得たいし、もし読み始めた本が全然面白くなかったら、観始めた映画が面白くなかったら、数時間は無駄にすることになる。今まで何時間もそうやって無駄にしてきた人間としては、もっとダイレクトに自分に必要なものを知りたいという欲がある。そうすれば時間をかければかけるほど自分の成長につなげることができるわけだし、やる気も出るだろうと思う。やればやっただけ確実に自分のプラスになるんだということがわかっていれば、人は結構努力を続けられる気がする。僕は努力が苦手で、思い立って新しいことを初めても大体3日で飽きる本物の三日坊主である。だから制作が続いていることが奇跡的だ。興味のないことは全然やりたくないので、対価のことはやっぱり頭をよぎってしまう。

「タイパ」的な思考は、勉強とか、自分のスキル、財産みたいなことに対して働くのだと思う。ただでさえ競争が激しく、必要なものがどんどん変わっていって、みんな迷いながら生きている。「人それぞれ」とか「ありのままで良い」とか言って溜飲を下げてみても、相変わらず「人よりも優れていたい」と思ってしまうものである。学歴がどうとか、資格がどうとか、収入がどうとか、自分の旦那さんや奥さんがどのくらいイケてるかとか、みんな実生活では言わないけど、SNSはそんなもので溢れている。人より先に何かをやり切って…「ゴール」して楽になってしまいたい。近道があるなら通りたい。普通はそうだろう。楽な方が絶対に良いに決まっている。

じゃあゴールってなんだっけ、と言えば「それは人それぞれだから勝ち負けじゃない」みたいな話も出てくる。いや、そういう話じゃなくて、自分の育ってきた環境の中で”得たもの”を、なんとなく相対的に考えて「自分は優れている」とか「頑張った」とか判断して他人と比べ合っているのだから、「ゴールは同じじゃない」と言われたとしても、なんとなく納得できない。確かに判断基準は個々が持っているから、自分が満足していさえすればそれが一番だとは思うが、そういうこととはなにか違う気がする。第一、持たないよりは持っている方がいい。だから対価が必要なのだ。得をしたい。すごく分かる。

なんとなく、少しずつ前進している感、「生きてきた」という実感が大事なのかな、と思った。これだけいろいろなサービスやコンテンツがあって、日常の色々が技術の向上によって楽になって、生活がルーティンになりがちだと、「生きてきた」実感は「変化」…特に「向上」であって、ただ漫然と飯を食うということではない。社会全体がなんだか「やりがい」とか「生きがい」を求めるようになったのは、欲求の段階が向上したからだと思う。もはや人間の目的は「飯を食う」ことにはない。飯を食えることは当たり前になってきている。それより「どうやって生きるのか」が重要なのだ。
コスパやタイパは、自分の行動に対してわかりやすい対価を得るということが延長された末の考え方な気がするので、新しい知識や教養を得ること自体は大して重要じゃなくて、多分、なにか”変わった感”がほしい、みたいな感覚なんじゃないかと思う。やってる感、というか、こなした感というか。タスク処理の一環かもしれない。多分見ないであろう動画のサムネイルを「あとで見る」に登録するのも、多分買わない服にお気に入りマークを付けるのも、ほしいものリストに入れるのも。既読感覚に近いと思う。「みたよ」というマーク。チェックシートのような人生。

話がちょっと逸れたが、それでいうと、僕が始めた「小説を書く」というのは、コスパやタイパで考えると最悪な行為である。数時間かけて何行か書いてみても、読み直したら気に入らなくて消すことが多い。数時間が無駄になっている。要するに失敗の方が多い。タイパ思考の人が聞いたら発狂しそうである。しかも書けたところで多分自分の足しには一切ならない。日本語の能力とかは多少上がるかもしれないが、まあお金とかにはならないと思うし、自分が思ったようなものが作れない可能性もあるから、かえってストレスになるかもしれない。

 

でも、何かが進んでいる感覚がめちゃくちゃあった。一日かけて書いた文章を全部消しても、何かが進んでいるのだ。何が進んでいるのかは分からない(もしかしたら時計の針かもしれない)。分からないがしかし、頑張って書いてみた数行を消すとき、僕の中では確かに不思議なことが起こる。「これじゃダメ」と思いながら文字を消す。「ダメ」の中にあるのは、このクソみたいな文章を消せる、という清々したスッキリ感、それから「どうやったらいい感じになるだろうか」という先の見えなさ分からなさ、もやもや、「いい感じの言葉はどこにあるのか」という期待。実際は一行も前に進んではいない。しかし、なにかが進んでいる!

かの有名なエジソンは「実験の失敗」を「うまくいかなかったという発見」だと表現したそうだが、そういうことなんだろうか?これじゃなんか違うよね、ということに気づけたみたいな良さ?なんだか良く分からないが、得られている具体的なものだけが実感を得たり、人生を楽しくするわけじゃないんだな、と思った。僕は今までの制作が「物質100%、物理、質量」みたいな世界だったので、こういう経験ってそういえば今までなかったなと思った。失敗してポジティブを得られることが世の中にあるんだ、と思った。書いた文を消すことに生きがいを感じ始めると話が変わってくる気がするので気をつけたいが、なんかそういう世界もあるらしい。

もっと言うと、本当に書き上がるか自体怪しいわけだから、コストやタイムばっかりかかって、肝心のパフォーマンスの部分が得られない可能性があるということだ。なんなんだこの博打は。でも、何かが進んでいる気がするのだった。僕は実感を得てしまった。

 

ちゃんと書き終えられたら良いなと思った。いつになるかはわからないけど。