頭、そんなに良くない

 

 

ある“視える”という人に、自分のことをみてもらったことがある。去年のことだったと思う。そのときの僕は、かなりメンタルをやられてしまっており、将来のこととか、自分の仕事や作品の不安ごともそうだし、自分の性格や性質のことも相まって、ため息をつくことがどうにも増えていた。そういうときは世界に色が見えなくて、何をしていてもなんとなく気乗りしなかったり、楽しく思えなかったりするものである。そのうち好きだったことも楽しいと思えなくなるような気がして、そういえば、と思い出し、連絡して会いに行ってみたのだった。

その人が言うには、人には一人一人にオーラみたいなものがあるらしい。オーラの感じ?を見れば、その人がどんな状況にあるのか分かってしまうそうである。相談に行ってみて、用意された席について、何を話したいですか、と言われ…なんか怖いなと思いながら、もやもやしていることを話してみたら、「あなたまだ若いんだから、そんなこと考えるには早すぎます」と言われた。あなたのオーラは今いろんなものを吸収したり求めている段階だから、まだまだ思い描いたものを実現していく時期に達してない、というようなことを言われ、いやオーラって、ハンターハンターじゃん、と思いながら帰った。

人の中にはこういったスピリチュアルな話を全く信用していない人もいるだろうと思う。というか僕も、幽霊とかが視えるわけではないので、「そうなんだ」くらいで聞こうと思っていたのだが、その人との話の中で一点だけ、僕がそれについて一言も話していないのに、ぴったり言い当てられたことがあって…何というかそれが、その人のことを信じるには充分だったので、信じることにしたのである。

それで「まだまだいろんなことをやってみるのが良いよ」ということを言われ、こうやって文章を書いたり、言葉にすることもそうだし、小説を書き始めたこととか、他にもいろいろな表現方法をやったり、自分なりにもがいてみているのである。たいした成果はほぼないが、この一年は本当にいろいろなことをやってみた。音楽も作ってみたし(最悪な出来だった)、映画の脚本、文章、造形、小説、イラスト、家具…あと裁縫、刺繍なんかもやった。料理もがんばった。自分が思いついて「形にしよう」と思ったものは全部手をつけてみた。

結論から言えば、そうやって始めたことが、自分に必要であり足りないことだった。手を動かすということがこんなにも大切なことだったとは思わなかった。特に小説や文章を書くということがそれを気づかせてくれた。

岡田斗司夫氏が「絵画的・漫画的手法」と説明していたが、漫画のように初めからはっきりした輪郭線で描くのではなく、絵画のようにたくさんの色をキャンバスに少しずつのせて対象を描いたり、デッサンするように描き込んで、手数を用いて描きたいものを表していくやり方が僕には必要だった。「タイパ」の話じゃないけど、こういう時代では、すでにあらゆることに対するハウツーが公開されていて、一発で「そこ」にたどり着けることであるとか、狙いすまして得たい効果を得ていくやり方が重視されすぎているから、いつの間にか自分も誤解していたなと思わされた。数打ちゃ当たる、という気分でいた方が楽だし、実感が得られるな、と思った。

 

そのようにして作品を作ろうという気が復活した。いつの間にか開かなくなっていたノートを久しぶりに見て、なんかめっちゃ面白そうなことがたくさん書いてあったので結構楽しかった。こんなの自分いつ書いたっけと思った。多分その時はちゃんと自分なりに理解したんだと思うが、読み返してみると全然覚えていない。自分の感覚が変わったのかもしれないし、単純にあんまり自分にとって重要じゃないから忘れたのかもしれないけど、とにかく記憶から抹消されている。

一時期、自分の不勉強さと知識のなさを反省して、本しか読まない、みたいなときがあった。わかっているんだかわかっていないんだかよく分からないながらも読んだ。その時に結びついたものも多かったのだが、やっぱり忘れているものも多かった。本を読むと納得できることは増えるけど、同じくらい納得できないことも増えるものだ。かえって頭は混乱してしまった。

頑張って情報をたくさん入れても、結局ほとんど理解できないし覚えてすらもいないということである。何らかの外部記憶(書き起こすとか)に頼って、ちゃんと入力に対して出力のバランスも考えないと、特に他人の言葉なんかを自分の血肉に変えることは難しいんじゃないかと思う。それに、一回聞いた・見ただけの話を咀嚼して完璧に理解し、自分の言葉にできるほど頭の良い人間が、この世に何人いるんだろう。そして少なくとも自分はそっちの人間ではないだろう、と思った。もしも自分がそこまでの秀才だったとしたら、多分今もっと違うことをしているはずである。

こういう実感が、自分に過度に期待をかけるのをやめた。言ってみれば”諦め”ではあるが、だからこそ手数を絶やすわけにはいかないのだとも感じた。

 

東浩紀氏が、「人間ってそんなに頭いいっけ?」と言っていて、興味深く内容を聞いていたけど、結局人間というのは数十年で個体が寿命を迎えて無になるという「肉体の脆弱性」を持っている上に、そこには「参照の脆弱性」もあるという。

先日、大学で数学科を出た人と話していて、数学に「解析学」という分野があることを知った。それは何をやるのかというと、一般的に言われているような前提とかに対して、「それって本当にそうなんだっけ?」というのをいちいち疑ってみようとするような分野らしい(非常にざっくりした説明だったので厳密には違うと思う)。理系の学問というのは基本的に、人間が一人で死ぬまでに辿り着けるようなものをゆうに超えるような「真理」を目指しているので、知の構造が積層的であるが、解析学においては、前の人が残したものが本当に正しいのか精査することを目的としているらしい。つまり、知は参照されることで深みを得てきたわけだが、先人が残したリレーのバトンのようなものを受け取ったときに「いやこれ本当にバトンなのか?」と一回やってから走り出すってことだろうか?とか想像して、それはなんかちょっと人間らしくて良いな、と思った。(※追記 解析学を調べてみたところ、僕が書いたような内容のことを考えるのは解析学部分であって、解析学という分野がまるまるそういうことを考える分野、というわけではないっぽい)

インターネットがこんなにも流行るようになって、ネットの中でどこの誰が書いたか分からないような、嘘かもしれない言葉を参照して、そのまま走り出してしまえるということが、実はだいぶおかしいことなんじゃないか?とも思えたりした。そうだとすれば、情報の信頼度こそが本当の意味での真理になり変わるような気がする。うまく人のことを信じさせさえすれば、何でも本当になりうる。SNSとかを見ていても、もはや人は正論なんか求めていないのがよく分かる。自分が信じられるものが一番正しいということになっている。だからこそ神は死んでしまったわけで。

 

スピノザのように、神様が作ったこの世界の法則(それを解き明かそうとしているのが理系の学問)が導いてくれる真理を目指すのか、それとも自分が信じたいように物事を信じるのか、それによって人類がこれからどうなっていくのか大きく分かれていくような気がしないでもない。機械的なものを目指すのか、不完全なものであることを認めるか。そして、自分たちがそういう、不完全な人間であることを愛せるかどうか。そこに人間が人間であることの全てがある気がする。

真剣に、自分に飽きるまで悩んでみたところ、自分の「悩む」という行為に対して、なんか違うなあ、と最近は思うようになった。それは「考えててもやってみなきゃ分かんなくない?」というようなポジティブなものでもなく、僕は「ちゃんと悩んで考えたら分かることもある」と思ったので、悩むこと自体に対して信頼を置きつつも、それをして、ある答えにたどり着こうとする万能感や、それをすれば「なにか分かる」と思っている傲慢さを一回捨ててみたら、やっと人間になれるのでは?と思った。

本当はもっと動物的な存在なんじゃないか、と思ったりする。だから時々理屈に合わないことをしてみたくなるのだと思う。そしてそこから得られるものが、実は一番人間らしく、自分らしい部分なんじゃないかとも思う。そういう、自分の非合理な部分を否定せずに、自分で自分のことを少し不満に思いながらも共に生きていくことを許せたら、なんかそれはとても愛らしいような気がしてくるのである。