大人の境界

 

 

僕は一応30年くらい生きているわけなのだが、自分が大人になったという実感がない。感覚的には自分の精神は小学生の頃で止まったままである。木登りをして、虫を捕まえて、公園でサッカーや缶蹴りをして、車よりも早く走ろうと頑張って自転車をこいでいた頃のまま、時間だけ経った。自分の中にある記憶とか思い出の密度を考えたら、10年くらいだったら生きた気がするが、あとの20年分はほぼ思い出せない。そういうわけで、成人し、就職したあたりから、なんだかよく分からない色々な書類とかを書かなきゃいけなくなったりして(非常にめんどくさい!)、自分の年齢を書くときになって「え、こんなに生きてるっけ」と思わされるのである。

そんな実感があり、別に嫌味とかではなく、僕には周りの人がやたら大人びて見えている。街とか電車で自分と同じくらいの歳の人を見ると、スーツとかを着て、忙しそうに電話をしていたりして、しっかりしていそうだし、頑張ってる感じもあるし、なんとなく身体つきもしっかりしているように思ったりする。自分とは重ねた時間が違うのではないか?と感じることが多い。最近は後輩や歳下もなんだか頼りになる感じがする。

歳を重ねて、確かにお酒とかは飲むようになったし、たばこも吸うようになった。でも、子供の頃から感覚がほとんど変わっていないという自覚もある。もしも、急になんかの変な妖精みたいなのが目の前に現れて「突然だが、また小学生からやり直してもらいます」とか言われたとしても、虫取りやサッカーや木登りをすればいいだけなので、結構すんなり戻れるんじゃないかと思う。

で、ここで僕が言っている「大人」というのはなんなんだろうか。社会的に考えたときの大人っぽさ?のことだろうか。社会という集団の中で関係性を構築し、集団の一員として生きていくのを目的としたときに、例えば人に迷惑をかけないとか、人当たりが良い・悪いとか、他人を尊重できるかできないか…みたいなことか?と初めは思った。でもそれは小学生くらいの子にもある程度は可能なはずである。だから、物腰柔らかで許容が広いことを「大人」と表現して、なんとなくそういうイメージを持ってしまっているが、それは大人とか子供とか関係ない性格的な話だから、あんまり関係ないことなんじゃないか?と思った。しかし、大抵はそういうふうに表現してしまう。だとすると、経済的に自立しているかみたいな能力的なことなのだろうか。大人と子供の境界はどこにあるんだろう?と思った。

例えば、法律上の区分で大人とされる「成人」という概念は、20歳という年齢を境にしているが、20歳の誕生日の前日の23時59分59秒と、その1秒後の0時0分0秒で自分の中のなにかが変わるのかと言われれば、なにも変わらないだろう。ポケモンの進化じゃあるまいし、1秒くらいで劇的な変化が起こるはずはない。いろいろな尺度でものを考えれば、それぞれ子供と大人を分ける明確なものがあることはある。生理学的にいえば二次性徴によって身体的に大人になるということは確かにそのうちの一つである。もっと人文学的なことで言えば、上に書いた経済的な自立だとか、一人でバーとかに入って酒を嗜む・ブラックコーヒーを飲む(儀式的なこと)だとか、すっごい失恋をして大泣きしたら大人(精神的?)だ、みたいに言うことがある。そんな表現の例は世の中にいくらでもある。しかし、そのどれも「なんかそんな気がする」だけで、何かをする前・した後と、なる前・なった後で、何か自分の性質や性格がはっきり二分される、みたいなことはないように思う。あるとしてもそれは気分の問題でしかない。それでも、僕たちは知らない間に、自分のことを大人になったと思いこんでいる。それはいつ変わるんだろうか。

 

実際のところ、大人だとか子供だとか言い出したのは、ほんのここ200年くらい昔の話らしい。そもそも「子供」が近代の発明物で、教育という概念ができたから、人間の中に教育を受ける人間・教育を終えた人間という区分ができたそうである。昔は子供だろうがなんだろうが、ある程度の物心がつけば鬼滅の刃に出てくる炭次郎のように、ちゃんと集団の中で役割を与えられて働いていた。古代のギリシャでも、10歳くらいから職人として親方の見習いを始めるような当たり前の風潮があったらしいと何かの本で読んだ。そうして自分の技術を高めて、一人前と呼べるときになって初めて「大人」になるのだ。そう考えると、なんとなく子供っぽいのが未熟で、大人っぽいのが成熟なのだろうと思う。

世の中には、小学校に通うような年齢でもものすごい大人びて老成した価値観を持っている子もいるし、老齢になっても子供っぽく自分の感情を押し付け、喚き散らし暴れるような人もいる。だから、前述したような年齢の区分が大人と子供を分けるものではないように思う。

 

僕が僕なりに出した結論としては、自分が大人っぽいなと思える人に共通しているのが「自覚」を持っていることだったので、それがある人、ない人という見方で大人っぽい・子供っぽいを区別している、と考えた。僕が言う「自覚」というのは、「自分はこういうふうに生きていくんだ」というのを、自分の中に自分だけの指標を持っている人のことである。「自分を持っている」「芯がある」「ブレない」みたいに言ったりするが、スポーツ選手などのインタビューを見て、自分よりも若いのにかなり”大人びて”見えるなあ、という感想を持つのは、彼らが自分の時間をその競技に注いで、命を燃やしているように感じるからではないか、と思った。

こういう論でいくと、価値観が社会通念的なものであるとか、誰か他人が言ったことを守り、しかもそれがものすごく漫然とした「なんとなく」によって参照されていると感じる場合に「子供っぽい」という感想を持つことになる。他の人の語る価値観を受け入れるということに、教育における指導や学習っぽさをみるような気がするのだ。弓道の言葉で「守破離」というのがあるが、初めは指導や教えを受け入れ守り、発展させて、いずれはその教えを破り、師から離れていく。修行して自分の実感として理解をして、自分の言葉で語る。こういうのはさっきの修練の考えとも結びついてくる。子供っぽいというのは学びの途中であるということなのだろうか。

子供っぽい子供っぽい、と言うと小馬鹿にしたような感じがするが(そもそも今回はそういうふうに感じてしまう原因がどこからくるのか考えようとしているのだが)決してそういうわけではなく、多分、人の人生には縁とタイミングがあって、価値観の形成は人それぞれ起こるので、早い遅いとかいうことではないんだと思うし、大人だ子供だという見方は「日本人だ」とか「背が高い」みたいなのと同じような、ただの性質に過ぎないともいえる。

ただ、そうは言っても、僕はさっきから「大人に憧れている」ような文を展開している。人生の基本性質は向上していくことにあったりもすると思うので、成熟か未熟かと言われたらやっぱり成熟の方が聞こえが良い。僕は自分の成熟していない部分、子供っぽさを負い目に感じているのかもしれない。できれば大人っぽくなりたいと思っている。

 

僕が個人的に憧れる人は、自分の技術や人間性を向上・研鑽しようとする姿勢を持っている。そういう人をかっこいいと思っている。人間は完全や完璧になることは難しいのかもしれないが、目標とする姿を目指して自分の弱さや甘さ、未熟な部分、上手にできないことに向き合って、少しでも自分が自分自身に納得できるように向上することは意義があるんじゃないか。…と僕は思っている。だから僕は僕に自分なりの課題を課している。まあそのおかげで息苦しくなって病んだり、自分って駄目だなと思って落ち込むこともある。その割に自分ができるようになったことは、もうその瞬間から「自分にはできて当たり前」になってしまって無自覚になるくせに、できないことや失敗には過敏になってしまうから、精神衛生上よくないときもある。

文章を書き始めて大量の失敗や修正を肯定できるようになったのは、自分の意識が「良いものにしたい」という向上ただ一点に向かっているからだろうと思った。書き上げたいという目標がはっきりしているので、そこに向く行動なら肯定できる、というか。失敗は一歩後ろに下がることじゃなく、強いていえばゴールが一歩分遠くなるようなことである。もしかしたらゴールの位置が変わらない場合もあるのかもしれない。確かに一歩は進んでいる。進みさえすればいつかは書き終わるはずである。

少し話が逸れたが、そう考えると、大人なんて概念はそもそもあり得ないのかもしれない。何かできるような気になっている自分と、でも実際のところ完璧ではない自分の能力を考えたら、僕は常に発展途上なわけで、やっぱり未熟で「子供っぽい」のだ。完璧というのは理念とか理想の類だから実現しないだろうが、一応それを目指す。大人になりたいという感覚は別におかしいことじゃないのかもしれない。大人をひとつの理想だとするなら憧れそのものなんだろう。

 

時々、昔に流行った曲や映画なんかを見て、発表された年に驚く。え、◯年前…?もうそんなに経ったの…小さい頃に周りの大人がよく言っていた言葉を、いつの間にか自分も言うようになっている。違う、僕はそういういうことを言う人間になりたかったわけじゃない。過ぎてしまった時間のことは、もういいじゃないか。

クリスマス以外にもケンタッキーを食えるぞとか、そういうことが大人なんだ、ということにしておこうと思う。