鬱について

 

 

文章が書けなくなってしまった。文章だけでなく作品も全く形になっていない。原因はなんとなく分かっている。多分鬱だと思う。長い間自分の気分の浮き沈みに頭を悩ませてきたのだが、自分の発達障害を知ることになったタイミングで、躁鬱の気もあることが分かった。ああ、やっぱりね、という感じだった。

このブログはひと月くらい更新していなかった(前回の記事の日付を見て自分でも驚いた)のだが、決してやる気がなくなったわけではない。実は文章は毎日書いていた。携帯のメモ機能に、文章のネタにしようと思って何か思いついたことや気づいたことを書きためているのだが、それがついに先日150件を超えた。更新しようと思って書き途中の文もいくつもディスプレイに散乱したままだ。そういう状況が続いている。ふと思いついた時にパソコンに向かってみても、数行書いて「なんか違う」となり、書くのをやめてしまう。そうして、翌日になって書いたものを見直して、やっぱり続きを書く意欲が湧かず、書いた分をまるまる消す。なにか思いつくことは思いつくのだが、それを最後まで続けて完成させる・あるいは面白さを見出してアイデアを展開する、みたいなことに全く興味がわいていない。自分でやっていることを非常につまらないと感じてしまっている。ここ数週間はずっとそうだった。楽しくない。


僕の身の回りには、鬱を経験した人が数多くいて、そういう話をすることが多い。だから僕にとっては全く珍しいことではないというか、自分では平常運転のつもりだし、心は死んでいても身体の方は元気なので、時々運動をしたり、食事はしっかり摂っている。鬱という状態はいまだ他人の理解を得にくいと思う。理由なんて人それぞれだし、状況も人によって違う。それどころか自分でも何が起きているのか分からなかったりする。

例えば僕は知り合いと出かける約束をしていて、本当は家を出なければいけない時刻になっても荷物を準備することができず、足が全く動かないどころか身体を起こすことができない、ということがごくたまにあったりする。全く理解されないと思うが、自分の気持ちは「出かけたい」「外に行きたい」「約束をちゃんと守りたい」「時間通りに行動したい」であり、頭の中で何度も自分の声が反響してはいるのだが、身体が動かないのである。いや、動かないとか動かせないというより、一時的に”動かし方をそもそも知らない”状態になってしまい、涙だけぼろぼろ流れてくる、みたいなことがある。そして「最悪だ」と思いながら約束に遅れてしまうことや行けなくなったことを連絡する(そういう人を”遅刻魔”もしくは”ドタキャン”というのかもしれない)ことになる。

数年前から、自分の気分の周期がなんとなくわかるようになってきていて、そういう事態になりそうな予感がする時は初めから「人に会わない」という選択をとることができるようになった。昔はそれすら分からず大変だった。自分の気分が落ちたり死にたくなったりしているのは別にどうでもいいのだが、それによって人に迷惑をかけたり、怒らせたり不快にさせるみたいなことはちゃんと辛いし、悪いことだというのは分かっている。こういうことは、ちゃんと相手に説明できればまだ違ったりするのかもしれないが、経験者の僕でさえ、他の人の鬱の話を聞いても理解できないこともある。

肌感覚ではあるが、ここ数年は、多様な「人それぞれ」という価値観に寛容な時代ではあると思っている。だからこそこれだけ鬱であるとか発達障害とかいう性質みたいなものをいろいろなところで耳にするようになったし、それを仕方ない、自分の性質なんだと捉えることができるようになることについては、自分の視点で見れば少し納得感があるものの、やっぱり他人から見たら理解はできないだろうとも思う。結局のところ自分は自分、他人は他人なのであり、相手の立場に立っていかに想像力を働かせてみても…共感くらいならまあできたとしても、自分にその実感は得られないから「あなたはそうなんだ、まあ、自分はそうじゃないからなんとも言えないけど...」というような、なんの要領も得ない話に帰結するしかないのである。

 

聞いた話によると、精神医学の世界では鬱というのは本来は中高年になってから現れるもので、例えばそれまでずっと活発で元気に仕事をしていたような人が、4〜50代になって突然活力を失ってしまうようなことを指すそうである。これが精神医学でいうところの本当の「鬱」らしい。現代では若い人も普通に鬱になって、命を絶ったりするようなこともあるが、多くの場合これは鬱ではなくて、「適応障害」からくる鬱の症状、ということのようである。適応障害というのはその字の通り、環境や関係にうまく適応できずに悩んだりすることをいう。職場環境とか、人間関係とか、それはどこにでも誰にでも起こりうる。だから、過ごし方や関わる人を変えると途端に気分が良くなって病状が改善する場合も多い。

こういう意味で多くの人が、もう心が結構パンク寸前になっているから「人それぞれ」とか「ありのまま」という許容を求めているんじゃないかと思っている。それを推し進めるような人々の心の動き、世の中にたくさん溢れている「自分を許す」系の本、またそういう言説は、自分が自分自身にかけてしまっている心への圧迫や負担をできるだけ軽くするような意味合いがあるのだと思う。人間誰しも抑圧とか、うまくいかないこととかを抱えているものだし、その割に社会が求めることのレベルはどんどん上がっているような気さえする。こうしなければいけないとか、男はこう・女はこうあるべきとか、人がそういうものに反感をあらわにすることも増えたけど、そういう風潮は実際なかなか変わっていないし、今日も匿名で自分の理想論を押し付け合い、顔も知らない人に反論して生命力を不要に削っている。目にするだけで嫌な気持ちになったり、不安の共有や押し売りをしてくるようなコンテンツとかも増えたと思う。そういうものに限って「嫌なら見なければいい」とかいう常套句がセットで付いてくる。…いや、見ないで済むなら見ないよ…。一部の人たちのために制限が作られていくのは癪だけど、自分で自衛するほかない。非常に釈然としない気分になるのは、こうした自分の権利が奪われたような気がするからかもしれない。

 

「人それぞれ」や「ありのまま」という価値観は聞こえがよく、捉えようによっては良いことだと思う。でも、一部ではそういう自己防衛や負荷を軽くするという意味合いではなく、自分の権利主張のためにそういう言葉が使われることもある。なにかの発言とかコンテンツに対して「私は良くないと思う」と言われたら、「あ、そうですか、でも私は好きなんで嫌ならスルーしてください」というような人それぞれ論である。一見間違っていないようにも思えるが、この発言やコンテンツがもしも倫理観を大きく揺るがすものだったらどうだろう。モラルとか”善さ”みたいなことを無視したものだったら、この多様は必ずしも認められるだろうか。

一人として同じ人はないわけだし、人それぞれなんてのは本来当然のことである。ただ、そんな前提を持ち出されて、妙な説得力を覚えてしまうことがあるのも事実。確かに。不快だからやめてくださいというのもこちら側の勝手な視点かもしれない。みんながもうそれぞれ違う神様を見ているのだから、正しさのぶつかり合いか、もしくは水掛け論になるだけである。他の人を許容できない自分がものすごく人間として冷たく思えたりすることもある。

でも、そもそも違うことが当たり前だからコミュニケーションを取るのだし、何かを共有しようとしたりするわけだし、時々意見をぶつけて議論したりする。他者と関わることの意味がここにあるのに、人それぞれなんで…なんて言われてシャッターを下ろされたらそれ以上何も言えなくなってしまう。そしたら、あとはもう人はみんな自分の話を垂れ流すラジオ・プログラムであり、人の話を聴き流すだけのラジオのリスナーみたいなものになる。じきに世の中の作品は暇つぶしのエンターテインメントになって、作ったり公開する意味もなくなるんじゃないかと思う。すでにそうなり始めているかもしれないとすら思う。個人の性質の話を引き合いに出して「これが私です」「ありのままでいいんです」なんて言葉を見るたびに、逆説的に「ああやっぱり人間ってのは分かり合えないな」と思わされるのである。

話が逸れるが、「人間というのはこういうもので〜」というような、なにかの性質を語る社会構成主義っぽい言葉は最近多いが、その「社会論」みたいなものへの理解が相互関係の改善へと向かず、あくまで個人的な納得感にのみ向いているような気がすることに関してはすごく閉鎖的だと思っている。自分にとってはこうだからこう。白いから白い。正しいから正しい…。まあ表象的なことでいえばそれは確かにそうではあるのだが、人それぞれという言葉が示すものは、そういう自己都合を受け入れて生きていくことを許容しているわけではないと思う。

 

だから、鬱というのは難しい。どうして気持ちが落ちるのかというと、これが自分でもよく分からない。何かきっかけがあったとか、人から何かを言われたんだとか、特にそういうことがあるわけではないからだ。なんの前触れもなく急にくる。自分にも分からないし、相手にもなおさら分からない。自分と、それに関係する相手の時を止めてしまう。関係の中に突然現れるブラックアウトである。

僕は個人的には、というか、自分が体験しているから鬱については寛容(なつもり)である。「死にたい」と言われたらそうだよねと思う。その人の気持ちまでは全くわからないが、死にたくなる意味はわかる。時代のせいにしていいのかもわからないが、こういう世界で「生きていたい」と無条件に思える人と、根本的な何かの差があるんじゃないかとも思う。これだけ世の中に色々なことがあって心が負けそうにならない方がおかしい。僕だってまだ結構やってみたいことがあるから死にたくないだけで、別に生きていたいわけではない。

せっかくだから、別に目をキラキラさせるような感じじゃなくても、生きていたくない気分のまま、死なないでいてみようと思って、この気分でなにか書けることを書き残しておく。ここまで読んでもらって申し訳ないことだが多分全然面白い内容ではなかったと思う。ちなみに心配とかはいりません。もう慣れているので。