プログラム的な動物

 

 

この前、出がけ先で、トンボが一匹、飛んでいるのを見た。

僕が小さい頃…ほんの20年くらい前までは、僕の家の周りは田んぼだらけで、夏の終わりから秋にかけて、近所の空いっぱいにトンボが飛んでいたのだった。子供心ながらに、スタイリッシュなフォルムと、なんとなく知性を感じさせるような顔に心を奪われ、もうずいぶん虫取り網を振り回した。ただ、トンボというのは昆虫界でも随一の飛行能力を持っており、空を舞う一面のトンボに狂喜・そして錯乱した子供が一人、がむしゃらに網を振り回したとしても、簡単に捕まえられるような虫ではなかった。だから時々、”たまたま”捕まえることができた時は嬉しかった。

カゴに入れて家に帰ると、羽音のあまりのうるささに母親に怒られたりした。「ブーン」と飛ぶセミやカナブンがかわいく思える。飛んでいる時は優雅なものだが、トンボは「バチバチ」という音がする。しかも彼らは肉食で、とても獰猛なのである。捕まえたは良いものの、いまいちトンボが何を食うのか小学生の自分にはわからず、しばらく強制断食をさせてしまって、一層気が立っているトンボに指を噛まれたりした。噛まれるとめちゃくちゃに痛い。個人的な体感ではあるが、今まで数々の昆虫に指を噛まれた経験をもつ虫取り少年だった僕個人の見解では、トンボの顎の力は昆虫界でも上位に入るんじゃないかと思う。

ちなみに僕が噛まれて一番痛かったのは「クビキリギス」という緑色のバッタみたいなやつである。日本中どこでも草むらとかによくいる。ぜひ写真を検索して調べてみてほしいのだが、もうめちゃくちゃに牙が鋭く、顔は細長くて目の焦点は合っていない。そして己の危険さを知らせるかのように、なぜか口の部分だけ赤い。非常に悪意のあるデザインだと思う。こいつに噛まれると当たり前に血が出るうえに、掴んで引っ張っても全然離れないほど顎の力が強い。あまりの痛さに少し泣かされたりしたので、僕はあいつのことを悪魔と呼んでいた。

 

噛まれ話でめちゃくちゃ脱線したのでトンボに話を戻すと、そのトンボが、地面にしっぽをちょん、ちょんとつけながら飛んでいる。卵を産んでいるのだ。

トンボは水面に卵を生み落とす習性がある。卵は水中で孵化し、ヤゴ(トンボの幼虫)になって、ミミズとかオタマジャクシとかメダカなんかを食べる。そして水草などを伝って、水上に出て、羽化する。彼女らは、自分らが産卵すべき「水」をどうやって見分けているのかというと、光を反射するものに反応しているらしい。僕が見たその地面がツヤのある塗料で仕上げてあって、光を反射していたのだった。だから水と間違えて卵を産みつけていたのだ(車のボンネットなどに産卵するケースもあるらしい)。当然、コンクリートの上で孵化などするはずがない。彼らが一生をかけて繋ごうとした命は繋がれなかった。僕はその光景をずっと見ていた。なんだか切ない感じがした。それが、小さい頃とは少し違って見えた。

 

トンボは、自分が今産卵している場所がまさかコンクリートの上だなんて思わない(もし分かっていたらしないだろう)。目の前のそれが水面である、と認識して、大真面目に自らの責務を全うしている。僕たち人間は、トンボよりいくらか物分かりがいいので、トンボに「そこは水面じゃないですよ」などと言うこともできる。場合によっては「分からないんだね」と小馬鹿にしたり、あるいは虚しさを感じて「やめなさい、命が無駄になってしまう」などと言うこともできる。しかしそれはトンボにはわからない。彼らはきっと「光が反射するもの」に産卵することで種を存続させてきたはずだから、「光を反射するもの」の中に、自分の子供たちを”受け入れないもの(例えば防水塗料で仕上げてあるコンクリート)がある”、ということを知らない。

しかも多くの昆虫は、我が子が成虫になるまで生きない。自分の卵が無事に孵化して、大人になったかどうかを知らないまま一生を終える。これをもし知ることができたら…自分の産んだ卵が孵らないことを、トンボ自身がその目で見て「間違えた」などと思えるとしたら、今後ちゃんと「そうでないもの」を見分けることができるようになったりするのだろうか。「ここ前回卵産んだとこだ」などと、進研ゼミの感想みたいなことを思ったりするだろうか。

トンボに少しの想像力を持ってその小さな世界を見たとき、人間の意識であれば学習して避けるようなことを、彼らを含めた昆虫やその他小さな動物たちは平然とやってしまっていることに気づく。カマキリの近くを平気でひらひら飛んでいるチョウとか、わざわざジャンプしてクモの巣に引っかかりにいくバッタとか、にわか雨に地中から出てきて、そのままアスファルトで干からびてしまうミミズとかがいる。そういうものを小さい頃に見て、あまりにも一瞬で奪われる命の無機質な冷たさや呆気なさを知った。「馬鹿だなあ」と思ったりもした。

人間でいえば、車道に突然飛び出すようなものかもしれない。僕たちは幼い頃に保護者からの教育・学習、そして記憶によって、こういう危険を日夜回避して生きている。常にそうである。道路の端を歩くのは車に轢かれないようにするためだし、肉や魚に火を通してから食べたり、靴を履いたり服を着ることも元をたどればそうである。それらはなんの疑いもなく、コンピュータプログラムのように日常の行動に組み込まれていて、特に意識せずとも多くの人が「ルール」であるとか「常識」として、それらに則り生きている。そうして時々、そういうプログラムの噛み合わせが悪くなって、外で裸になって逮捕される人間が出たり、生で肉を食ってみたり(実際はこういうのが人間の食文化を発展させてきたりもした!)、交通事故が起こったりしている。

僕が「馬鹿だなあ」という感想を虫に対して思うということは、人間が多くの場面で「それはさすがにやらないだろう」と思うようなレベルのことで、自覚があって行うことができることだからであると思う。それに対して彼ら虫たち(ヘビとかカエルとかミミズみたいな小動物も含む)は、状況判断や刺激の受容に対して、あまりにも機械的で単純な反射をしていると思いがちである。光を反射しているからと言ってコンクリートや車のボンネットに卵を産むトンボは、産卵を実行するにあたって、種の存続を成功できてはいないからである。目的を達成できなかったのだから「馬鹿」なんだ、ということになってしまう。

実際はこの「Aに対してBをする」というような単純なプログラムの実行と、それによって守られる自明性(=言葉にするまでもなく明らかなこと)を忠実に守ることによって社会は正しく回っているのであり、でも、それによって時々損をしたり、失敗したりする場合もある。そうして生まれるエラー(失敗)によって、プログラムのコードを書き換え、実行→エラー→修正を繰り返して生きている。ただそれだけのことで、そういうふうに見れば虫も人間も同じようなものかもしれない。

 

虫やその他の動物は寿命が短いから、一生のうちに得られる学習が非常に少ない。単純に脳だって小さい。身体スペックは人間よりも高かったりするが、処理速度と容量などの能力は人間の方が高い。だから虫はコードの書き換えを種全体で行う。環境に適応した個体が残る。そうでないものがサンプルとして絶える。人間は一生が80年くらいあってわりと長い。言語を獲得したので、意味の共有や学習などが可能になって、個体の中でもコードの書き換えができる。「以前は失敗したから、今度はやり方を変える」という、前提を修正して改善、向上する、ということを、僕の短い30年の歴史の中でも何回か行っていたりする。たくさんのサンプルを記憶して、その中から一番良かったものを選んで生きている。

こう考えてみると、虫は言うなれば、その「適者」の生態によって結果が語られる。今生きている虫の生態こそが正義であり、正解であるということになる。失敗が許されていない。失敗は存在しない。というか存在できない。これは命が短いからである。しかし人間は、選択と決定によって結果が語られる。世の中にいるのは、「こういう選択をした人」「こういう決定をしてきた人」だけである。失敗とか成功とかいうのは”ある価値観”によるただの評価づけであって、もっと物事を拡大して考えてみると、人間はそんなに死なない(亡くなっている人は確かに世界中にいるが身の危険という意味ではそんなにない)から、生きることが前提にあって、そのトライアンドエラーは残る。虫たちのエラーは存在できない。一方ではこういう違いがあると思った。

 

誘蛾灯に誘われてバチンと死んでいく羽虫を「自殺行為だ」と揶揄したりするが、彼らは別に死のうと思っているわけではない。これは挑戦である。命をかけて誘蛾灯に触れたらどうなるのか、という学習をしている。触れた個体は死ぬ。学習して「今後は触れないようにする」ことは虫にはできない。たまたま触れなかった個体が生き残る。全体で種が残ればいい。

このとき、死んだ個体に対して「犠牲」と呼ぶのは間違っている。犠牲というのは還元性がある。…虫にはそれすらない。学習しないからである。それを伝えられないからである。失敗と一緒に生きている。なんて世界に生きているんだろう。彼らのことを、どうして馬鹿にできるんだろう。これがあの切なさの正体かもしれない。

「人間は社会性の動物だ」というのは、まさにこういう意味なんだと思う。学習、そして向上、還元なんのために生きているのか?人間の方がよっぽど種のために生きている。自分らしさとか、自分の人生を生きるとか言っても、もし人間も機械的であるとしたら、ますます人間は自分ただ一人のためになんて生きられない。人間は助け合う道を選んでいる!選んでいるというかそれ以外ないような、そんな感じがする。