反動

 

 

僕は旅行が苦手である。旅行にあまり前向きになれない。旅行に行く目的は人それぞれだと思うが、大体は大きく言って、観光地を見て楽しむ事、アクティビティに参加する事や、普段の自分の生活範囲から離れてリフレッシュすること、知らない土地で出会う人や何かとのコミュニケーションを楽しむ…というような事に分けられると思う。

正直なところ、僕は上記のどれにもそこまで魅力を感じない。僕は環境が変わると落ち着かなくなってしまうからだ。予定を立てるのは結構面倒だし、電車とか飛行機の出発時間が気になってソワソワしてしまうし、観光中でも落とし物やなくしものをしていないか何度もポケットを叩いてずっと気にしている。しかもなぜか家に帰ったあと高確率で風邪をひいて寝込む。このように、旅行が嫌いな理由を挙げるとキリがないが、一番は…帰るときに寂しくなるからだ。

 

まず旅行が企画される。知り合いや友達の人と、どこどこに行こうよ、などと話をする。予定を立てて、◯泊◯日の旅行です、というのがあって、荷造りをして(できるだけ小さい荷物で行きたいのでかなり頭を悩ませながらパッキングをする)、何日にどこに行ってどこで食事をして…というのを決める。酒とかを飲み、夜は少し深めの身の上話なんかをし、この人こんな一面あるんだな、と少し関係が深まって…ここまでは良い。こういうのは楽しいと思う。…ところが、全ての行程を終えると「お疲れ様でした」と言って空港や駅で解散することになるのである。さっきまでの楽しかった時間はなんだったのか?というくらいに、一人、また一人と、さっさと違う方向にスタスタ歩いていってしまう。あえなく自分も帰りの電車に乗る。そして数日間の疲れと充足感で全身がぼーっと暖かくなり、自宅の最寄りの駅に着いた時…”帰ってきてしまった”感に襲われる。この瞬間が一番最悪である。なぜ帰ってきてしまったのか。なぜ帰らなければいけないのだろうか。あと一泊くらいできなかったか…いつもこんな感じのことを思う。

 

30を超えると旅行どころか、遊びに行く予定を立てるのも大変である。友達を含め自分も、色々周囲を取り巻く環境も状況も変わっている。10代やそこらのように突然「今から飲みに行こうぜ」などと、あまり気安く人を誘えなくなってくる。自分にも都合があるし、相手にも都合があるからだ。しかもなにか理由がないと誘い辛い。分かってはいるが、しかし先の予定を立てるのもめんどくさかったりする。何を着て行こうかとか、どんな話をしようか楽しみにするのも、まあポジティブな感情ではあるが、結構心が疲れる。僕の場合は、できるだけ心を穏やかに、良いことでも悪いことでも、とにかく波を立てないようにしないと、生活の中で突然心のコップの水が溢れてメンタルの調子が狂ってしまう。

僕のここ数年はコロナのこともあって、もうできるだけ静かに、身の回りの小さな感動だけで生きて行こうと思っていた。まるで精神だけが老いて乾いてしまったようである。心の過剰な波が怖いから、それを遠ざけている。別にそんな意識をしていたわけでもないのだが、結果そういうふうになっている。人と言い合いをしたりするのも嫌だ。ゲラゲラ笑ってあとになって恥ずかしくなるのも嫌だし、大声を出したりするのも嫌だし、イライラしたりするのも嫌だ。悔しい思いもしたくない。そうやって人との関わりを極限まで避けて、慣れたことだけを選ぶようになった。

そうすると、感情の起伏がなくなって、いつの間にか楽しかったことも忘れて、目の前に押し寄せてくるタスクと将来への不安だけがあるような感じで、はっきり言えば…生きているのが全く楽しくなくなってしまっていた。

 

なんでこんなことを書き出したかというと、つい先日、少し遠出の旅行をする機会があったのである。人に呼んでもらって、最初はありがたいと思った。いろんな準備や企画の話があって楽しそうだなと思った。でもだんだん、色々なことが重なって精神状態が良くなくなってしまったりして、心が揺れて動いて、やっぱりめんどくさいなとか、こんな状態で行っても迷惑だろとか断れないかとかそういうことを考えていた。前述のように、旅行にはいろいろな理由があるだろうが、多くの人は楽しみに、思い出を作りに行くのであり、イライラしにいくわけではないはずなので、そういうところに楽しくなさそうな人間がいたら良くないんじゃないかと思う。そういう勝手なネガティブ・トリップをして、ア〜という気持ちになりながらも、時期が迫ってきてしまい、キャンセルにも踏み切れず、参加する事になったのである。

結果から言って旅行自体は非常に楽しかったし、結構ゆとりを持っていろいろなことができたので満足だった。僕は和食派なので、ホテルのバイキングで白米と味噌汁、納豆を食い、改めて納豆を克服したことを感じたりした(納豆のくだりはこちらの記事を参照)。人と一緒に行動する時間と、1人で過ごす時間のバランスが非常に良かったため、疲れすぎず、かといって寂しくもなく、充実した数日間になった。都会の喧騒からも離れて、耳がじーんとするほど静かな場所で、心を落ち着かせることもできた。

 

これまでの自分なら、ハメをはずしすぎて疲れるか、それを恐れて終始低空なテンションを保ち、結果心が旅に入っていけないみたいな不完全燃焼で帰宅する感じだっただろうが、うまくその切り替えができた。…ここまで読むと薄々気付くかもしれないが、僕は旅行が”苦手”なだけで、実は割と好きだったんだと思う。楽しすぎるため「はしゃぎすぎて」疲れるのである。風邪をひくのも多分そういう理由である。今まで斜に構えて「別に旅行とか、好きじゃないし…」という態度を取っていた自分と、「いやお前実は結構好きだろ」という二面性を自分の中に捉えたような感じがあって、そういうところに自分の人間っぽさを感じることができて良かったと思う。

思えば日常の中でも、なんだか楽しそうなイベントとか人に会うこととかも、「疲れ」というものへの抵抗感が強すぎるあまりに避けすぎていたように思う。確かに人が多すぎる場所が苦手なのは事実だし、それで調子が悪くなったりしてしまうのも本当のことではあるが、一方でそれを受け入れている・受け入れたい自分というものも、確かに存在しているわけだ。


こうした”反動”のような、楽しさのあとにくる虚無感とか、寂しさ・悲しさみたいな副作用のような感情だって、間違いなく自分の一部だし、こういう波風を嫌いすぎるあまりに少し心が無機質になりすぎていた気がする。怒りや悲しみはあまり良い感情ではない、とされることも多いが、それらのバランスだって必要なんじゃないのか、と思ったりした。怒ること・寂しいこと・悲しいことだって大事な自分の一部だ。自分が何に腹を立てて、何が嫌で、何が辛いことなのかが現れる部分なのだ。心の針がふれて、自分でも認めたくないような汚くて醜い感情が出てくるとき、それが一番自分らしいというか、人間らしくなれるというか…

自分の行動に対して、対価でものを考えるようになると、「これをしたらあとで反動がくるな」とか、ついつい考えてしまうが、それは仕方のないことである。だって楽しかったんだから仕方ない。終わったら寂しいに決まっている。どちらも自明である。自明だから避けるのか、あるいは受け入れるのか…


ちなみに今回も、やっぱり寂しくなって、帰り道少しだけ泣いたけど、それでも行って良かったと思った。