疲れたら、少し

 

 

昨年末に仕事納めをした直後に風邪をひき、寝込んでしまった。年が明けてから”まだ咳しかしていない”ような状況で、自分だけ2023年に取り残されている感覚でいる。

去年は厳しい一年だった。春ごろに精神をおかしくして心療内科に通い始めた。完全に作品を作る気が失せて、身体が痛んだり動かなくなったりもした。他の記事でもたびたび書いたことではあるが、大学を卒業してから「何かをやってやるんだ」という、数年前まで自分を突き動かして心の中を熱くしていたものが燃え尽き息切れし、いろいろなことを諦めかけてしまっている。
そんな気分になるのも仕方ないことなんじゃないかとも思う。だって空気が重い。足も手も上がらない。暗いニュースばかりで、なんとなく毎日に閉塞感があって先細りだ。状況を打破するような輝きや希望も見えない。芸術は寄り添ってはくれるが、本当に厳しい時に命までは救ってはくれない。そんなすごい力、無い。…無いと思う。

 

年明け直後から暗いニュースが続いているが、誰かの無事を祈れるほど万全ではない。というか、祈ったところで何もできない。某SNSに「千羽鶴を被災地に送るのはやめて」という、過去に被災経験を持った人の投稿があり、これがなかなかの共感と知見を生んだような反応があったのを見た。この場合「祈りが通じる」というのはつまり、現場での決死の他の誰かの仕事を自分の手柄に変えてしまうかのような話にも聞こえて違和感がある。リアルな話をすれば、無事な人が1人増えるというのは誰かの祈りといった神通力的なもののおかげではなく、現場で救助に当たった人の懸命な作業の結果であるはずだ。僕ができることといえば、ただ日常を変わらず過ごすこと、もしくは万全な装備をして実際に現場に参加すること。それができなければせめて救助作業や情報伝達に迷惑をかけないように振る舞うこと。それから寄付である。

(※追記 ちなみに1/6現在、石川県では個人のボランティア参加、支援物資の受け入れは態勢が整わないため行っていないようです)

 

10代の頃から自分が心に持っていた、こういう祈りの類か神通力にも似た(似てると思っていた)芸術の力みたいなものとか価値が崩れたことは、去年一番すごい変化だったと思う。ついにずっと見ていた長い夢から完全に覚めてしまった。疲れた時、悲しい時、辛い時に音楽を聴いて溜飲を下げ、胸を熱くし、作品を見たりして優しい気持ちになったり、愛のある世界のことを想像して少しだけ「世界が明るく見える」のだ、みたいなことではもう解決できない、リアルで差し迫った問題がいくつも目の前にぶら下がっている。…お前、まず仕事どうするんだよ…お金は?これからどうやって生きていくつもりだ?…まあ今はいいが、肉体労働だっていつまでできるのか…

「まあなんとかなるっしょ」と思えることは才能だと思う。大体はなんとかならない。なんとかするからなんとかなっているのであって、今その「やる気」が出ないから問題なのである。悩んでいる人を励まそうと色々言っている人はそこら中にいるが、「頑張れ」「やればできる」「毎日少しでもいいから動こう」などという言葉を見るたび、根本的に間違えていると思う。そもそも闘う気がないのだ。…いやそれ以前に、闘うって何?何と闘うつもり?誰と?…どうすればいいんですか?

何か思い立ち、行動した人に限って「あなたにもできる」と言う。「やらないからだめなんだよ」とも言う。やるって何?いや、そりゃあなたはそうだったんでしょうけど。いまいち言葉に説得力を感じない。人を励ましたり、元気づけるようなふりをして、自分に足りない何かを人から奪うために表現しているんじゃないか?と思わせるような人間もいる。

芸術人類学者の中島智氏は、こういった世の処世訓的な「こうすれば良い」みたいな言説が多く出回るのには、その発言者が「何に向き合い、何を克服したのか」ということを我々が正しく拾えないことによるディスコミュニケーションなのでは、というような考察をしていた。雑な引用をしてしまったが、つまるところ彼らは自分が得たもの、その努力を自分で説明し肯定を目指して発言している、ということのようである。言葉の説得力のなさがどうやらここにある気がする。人を励ます・元気づけるわけではなく、自分のことを語るためにアドバイスというテイをとっているのである。あなたにもできる、の裏には「まあ私はできましたけど」が、やらないからだめなんだ、の裏には「俺はやったけどね」という言葉が隠されているというわけである。

鋭い指摘のような気がしてしまう。仮に心の奥にあるそういったメッセージが明らかにされたとしても、いや急に言われても…こっちもそれなりに頑張っているんですけど…”褒めろ”ってこと?という気持ちになって噛み合わない。世の中には本音と建前というものもある。そう単純なことでもない。

で、昨年の末に、さすがに一文くらい挨拶を書いて年を締めくくろう、とかを一応思ったが、取り立てて書きたいこともなかったのでやめた。人に何か伝えるには相応のエネルギーがいるのである。労力もいる。心の中に「熱」が必要である。そういうものがないまま温度の低い生焼けみたいな表現をしても何も残らない。ちゃんと中まで火を通すか、表面だけでもじっくり焼くべきである。そうじゃないと「生焼けだぞ」とか言われて、キッチンに戻って焼き直すことになるのだ。

 

祈りが無駄だとは思わないが、自分の命の火も揺らいだりしているような人間に誰かを想い、無事を祈るようなエネルギーはない。そういうことを無理やりやっていると骨と皮だけになる。身を削るのは結構だが救われるべきはお前、である。そんな人間に心配されても困る。単なる自分の無気力を大きなものへの無力さへとすり替えてはいけない。メンタルを治す。これは今年の目標。

人のことを支えたり励ましたりできるような人間でいたい、と思って長いこと生きてきたつもりなのだが、僕はとんだ勘違いをしていたようである。できる人とできない人がいるのだ。かっこつけてもしかたない。息切れしながら全然大丈夫、と言おうとするのをやめよう。もういいから、一回給水所とか行って、パイプ椅子にでもかけて、靴ひもをほどいてみたらどうだろう。

頑張ることに疲れたら、もう何もかもやめたらいいよ。