弱者という個性

 

 

僕は人と話すのが苦手だ。学校でクラス替えするたびにひとりになっていた。人に話しかけられない。身構えてしまう。何を話したらいいのか分からないからだ。

会話が詰まって気まずい雰囲気になることがなによりも嫌なので、人に話しかける前に、一応色々脳内でシミュレーションをしてみる。頭の中にもう1人の自分がいて、自分がこれから話しかけようと緊張している話題の添削をしてくれるのだが、かなり厳しい声が聞こえてくる。「…だから何?...それを聞いてどうする?...その話、面白くないと思う」…こんなことをしている間にタイミングを失う。頭の中は騒がしく言葉が飛び交っているのに、僕の口からは一言も発されない。黙ってしまう。

だから気配を殺す。急に話しかけられても困る。うまく反応できない。顔も強張る。つまんなそう、怒ってる?と言われる。なんで?普通に楽しく話したいだけなのに、どうしてうまくいかないんだろう…そんなことを、思春期の頃はずっと悩んでいた。

 

大学を卒業して社会人になる頃、自分のそういう性格にも諦めがついた。全ての人と打ち解ける必要はない。無理して話をする必要はないのだと、処世術のようなものを身につけた。僕が陰気だとしても、そういうところも好きでいてくれて、何年も連絡を取り合うような友人もできた。だから、別に自分の性格に気後れすることもなく「まあいいか」と思えるようになった。…それでも、やっぱり人と会話することにはずっと苦手意識があった。

ところが、最近話をするようになった人に「よく喋るね」と言われた。…ん?ああ、まあ、多少は…。またある人にはこう言われた。「話すの苦手って言ってるけど、普通に話すのうまいと思いますよ」…え?いやほら今のは面白い話題だったし…。また別の人にはこう。「知り合いとかお友達、結構多いですよね」…あれ?...そうなのか?

本当に「そう」だったのか?僕は人と話すのが苦手だった?ずっとそう思って生きていた。…いやでも確かに、知らないおじさんに酒を奢ってもらったり、道で知り合った人と友達になったり、仕事で世間話するのもそうだし、後輩と飲みに行って色々な悩みを聞いたりするみたいなことが、果たして本当に「コミュニケーションが苦手」な人間がすることだろうか?

「多分、”話すのが苦手”なんじゃなくて、話す前に相手をよく見てある程度知らないと話せない、ってだけなんじゃない?」...こんな言葉をもらった時、僕の今までの全てが腑に落ちた気がした。言葉の解像度を上がれば確かにそうだったような気がする。思い返したら、僕が苦手なのは新しい環境だけだった。クラス替えしたばかりの空気。新しく知り合う人がいる場所。友人の知り合いの人と遊びに行く時…相手がどういう人なのかが分からないから、何を話していいのかが分からないのだ。

いつか誰かにかけられた「あなたはこうだよね」という呪いのような言葉によって、僕はずっと人のことが嫌いで、一人でいるのが好きで、話下手で…そうやって自分自身で勝手なイメージを作り、そう思い込んで生きてきた。自分は黙っていたほうが良い。…気まずい?どうしようもない。だって自分は話が苦手なんだから。話ができないのは、自分の性格だけど、自分のせいじゃない。だって、仕方ないから…

…ちょっと待て。いやこれ、コミュニケーションがうまく取りづらいときの、硬直した空気に耐えられない自分を肯定するために当てはめた属性が心地良く作用していただけで、めちゃくちゃ間違ったアイデンティティなんじゃないのか?

 

例えばコミュニケーションが下手であること…いわゆる「コミュ障」という言葉は内気な自分の”隠れ蓑”として機能していた…いや、機能して「しまっていた」。周りを見ればめちゃくちゃ話が面白い人とか、思慮深くて誰かに安心感を与える人、人と簡単に打ち解け、周りを明るくさせ楽しませる人…全てコンプレックスの対象だった。そういう姿に憧れを持ったりもするが、なにせ同じにはなれないもので、なぜこんなにも違うのか?と思い悩むこと自体が自分の劣等感を刺激した。

うまくできない…今にして思えば、人と明るく打ち解けられることが至上なんだとする考え方自体「狭い世界だな」という感想をもって終わりなのだが、当時の僕にはそれしか見えていなかった。どうして人ができることが自分にはできないのか。できないならせめて「どうせなら異常者でありたい」という免罪符としての「コミュ障」という言葉。自分自身にかけた呪いであった。

実際は決して異常ではないのである。平均的な生活を送って、友達もいて、なんとなく趣味もあって、仕事もめんどくさがりながらこなせていけて、税金を納め、贅沢はできなくとも毎日暮らしていけている…マシであるどころか、むしろ恵まれている。弱者でもはみ出し者でもない人間が、なにかを語るために異常者のふりをしているだけだ。「弱者は無条件に守られるべきだ」という善の価値観。弱者になりたがる人の存在だって当然ある。

あらゆる競争のなか、自分より優れている人を色々見てしまったときはそもそも「自分は棄権したのだ」と思わないと、自分の無能や不才を認めることになる。自分の無価値は認めるわけにいかないのでハンデを負った振りをして、先に競争から降りる。他の人と違う。そんなふうに考えないと自己を保てない。社会の競争が激しすぎてもうついていけないから。参加しなければ負けることもない。そういう人は僕よりも若い人に多い気がする。

それは「発達(障害)」や「社不(社会不適合者)」という言葉にも現れる。医者が言うには僕は発達障害の気があるらしいのだが、自分自身のコミュニケーションの不具合について考えるに「だからか」と妙に納得してしまう節もあった。だってあんなに悩んでうまくいかなかったことが「あなたが人と違うからですよ」と言われたら、なんとなく肯定を受けた気持ちになってしまう。まるで神から赦しを得るようなものだ。メンタルコーチやスピリチュアル系のスピーカーが宗教じみてくるのはこういう理由なんじゃないか。なにかに救われたいのだ。

 

ただし、仮に存在を赦されたとて「自分は弱いから、仕方ないから」と諦めてもいいことにはならない。赦しというのは「いいよ、しょうがないからそのままでいなさい」ということではない。社会に属して生きていくなら振る舞いを正すほか、無い。その辺で自分の境遇にふてくされて生きたって、実際は誰も助けてくれない。自分のことは自分でやる。掃除に洗濯、炊事、洗い物…放っておいたら自分が困るだけである。自分の性質や性分が悩み苦しみの原因なら、それと向き合わなければいけない。

僕は誰かと生きることを選んで、自分が負った傷で出た血を固めた醜いエゴを、少しずつ剥がしながら生きている。まだ新しいかさぶたになったばかりの部分もあって剥くと血が滲むこともあるが、開き直った卑屈な弱者として生きていくのはいやだ。そんなの、格好が悪すぎる。

 

僕はあくまで「ちょっとお腹痛くなりやすいんですよね」くらいの軽いノリで発達だの鬱だの言うが、「いや、もうそういう弱者アピールいいから」という反応をひしひしと感じることもある。お腹が痛いのは事実であって、だからといって優しくしろみたいなことは別に何も求めていないというか、お腹をあたためるとかそういうのはこっちの責任だからあくまで世間話みたいな感覚なのだが、まあ確かに面白い話ではない。聞かれたら答えはする、くらいでよい。

弱者アピールに対する抵抗感の正体は優しさなんじゃないか?と思っている。大丈夫か、と心配する気持ちがまずありながら、でも難しくてどうすることもできないから、言われた側に無力感がうまれるというか、だから何?どうしてほしいの?となるのもわかる。

自分にとっての特異な体験を書くこと、そしてそれによってこんなに辛い思いをしてきたんだ、ということの発表会みたいになりすぎていて、助けて、困ってる、どうしよう…こんな声ばっかり聞こえてくるような感じだ。人間は長年の道徳教育のおかげで、困っている人や弱っている人がいたら「一応知らない人でも優しくしなきゃ」という暗黙的な心理的圧力が加わる。自分だって相当息切れしているのに、その上困っている人の手までとって肩を貸すなんて無理だよ。多分もう、みんなそういうものにうんざりしているんだと思う。自分がどれほど傷つきながら頑張って苦しんで、それでも生き抜いているか、我慢して語らない人のほうがむしろ助けは得られない。「甘えるな」という言葉も、こういう理屈で出てくる。

表現の世界で、自分の不遇や負った傷を肯定されたいがために作品化して同情を得るような、そういう作品も増えてきたような気がする。どれだけ苦しく辛い思いをしてきたかなんて発表してお金を取るべきではないのだ。こんなエッセイにしたって、僕がいままでどんな思いをして生きてきたかなんてどうでもよくて、それは本当に仲の良い人と個人的に居酒屋でやるので、ここには「もがき」を残したい。自分なりに頑張って生きてるんだということを書きたい。僕は自棄にならずに、生きている限りは自分の弱さや未熟さと向き合っていたいと思っている。それがどんなに自分の精神を削る道でも。

傷は生きている限り無数に負うものだし、そして、いつの間にか治ってしまうものでもある(たまに致命傷もあるが)。ある時、自分の身体を鏡で見たりして「こうやって生きてきたよな」と振り返り、重ねてきた歳月のことを自分なりに振り返ったりする。傷は、社会との関わりそのものであり、人との軋轢であり、自分の未熟さである。躱す術を知らなかったからなにかと接触してしまって血が出たのである。だとすれば傷がたくさんあるのは、それだけやり直して乗り越えたということだ。死ぬときに傷だらけになってくたびれた自分のことを見て「やり切ったな、もういいだろう」と思えたらいい。「きっと少しは成長できたよな」と思って目を閉じたい。別に笑顔とかじゃなくていいから、自分に納得して死にたい。まあ、自分なりに頑張ったんじゃないか…そう思って死ねたらいい。

 

「弱者」という間違ったアイデンティティの根本は自分の人生に対する見積もりの間違いなんじゃないかと思う。(僕の大嫌いな)自己肯定感という言葉があるが、要するに自信がないのだという。しかし僕が自分の経験から思うに…これは自信がないとかそういうわけではなく、自尊心が高いあまりに他者からの評価が正当に得られていないと感じていて、「自分は本当はもうちょっと素晴らしい人間なんじゃないか?」という名誉欲があって、そのために他者評価を必要としているような…そんな気がする。つまり本当は真逆で、自信がありすぎる。必要なのは自信ではなくて、客観的な他者評価だ。…本当に自信がなかったら、SNSに自分の顔や身体なんて投稿したりしないだろう。少なくとも僕は嫌だ。

名誉欲や自己顕示はSNSとめちゃくちゃ親和性が高いというか、人間の持つ見栄と俗物根性がここまでSNSを成長させたと言ってもいいと思う。これ自体は別にそこまで悪いことではなくて、なぜなら「自分をよく見せる」というのは憧れへの投影であり欲求であり、明日への希望になりうる動機だからである。

ただ、憧れや投影も度が過ぎると、理想ばかりを見て生きることになる。「頂上を見ながら登山はできない」みたいに言うが、見ている世界のレベルが高すぎると挫折しがちである。普通は「地元の少年団の◯◯くんよりも上手くなりたい」とか「レギュラー争いに勝って試合に出る」とかそういうところから地道に始まって、自分が今いる、挑戦している環境の中で少しずつできることのレベルを上げていくものだ。サッカーを始めたばっかりでいきなり「メッシみたいにドリブルができない」と泣くのは馬鹿げている。当たり前である。なぜならメッシは人間ではないからだ。

 

僕は、人間にいちばん必要なものは希望だと思っている。その人の目がなにを捉えているか、なにに希望を見出しているか。人のことをどういう目で見るか。属性で語らないことだと思う。どんな格好をしていても、過去になにをしていたとしても、今なにを目指しているかを見ること。何をかっこいいと思っていて、どんなところに行こうとしているのかを見ること。それに対して「あなたはこういう人なんだから」とかいう呪いをかけてはいけない。

それから、自分が明日も生きていたいと思えるように、希望を探して生きること。小さなことでもいいのだ。自分がどれくらいダメで、なんてのは一回置いといて、夕飯をどうしようかとかを考えておけばいい。真剣に食べたいものを考える。そうすれば、とりあえず夕飯までは生きていたいと思えるかもしれない。そういう地味なことの繰り返しだ。