鬱について

 

 

文章が書けなくなってしまった。文章だけでなく作品も全く形になっていない。原因はなんとなく分かっている。多分鬱だと思う。長い間自分の気分の浮き沈みに頭を悩ませてきたのだが、自分の発達障害を知ることになったタイミングで、躁鬱の気もあることが分かった。ああ、やっぱりね、という感じだった。

このブログはひと月くらい更新していなかった(前回の記事の日付を見て自分でも驚いた)のだが、決してやる気がなくなったわけではない。実は文章は毎日書いていた。携帯のメモ機能に、文章のネタにしようと思って何か思いついたことや気づいたことを書きためているのだが、それがついに先日150件を超えた。更新しようと思って書き途中の文もいくつもディスプレイに散乱したままだ。そういう状況が続いている。ふと思いついた時にパソコンに向かってみても、数行書いて「なんか違う」となり、書くのをやめてしまう。そうして、翌日になって書いたものを見直して、やっぱり続きを書く意欲が湧かず、書いた分をまるまる消す。なにか思いつくことは思いつくのだが、それを最後まで続けて完成させる・あるいは面白さを見出してアイデアを展開する、みたいなことに全く興味がわいていない。自分でやっていることを非常につまらないと感じてしまっている。ここ数週間はずっとそうだった。楽しくない。


僕の身の回りには、鬱を経験した人が数多くいて、そういう話をすることが多い。だから僕にとっては全く珍しいことではないというか、自分では平常運転のつもりだし、心は死んでいても身体の方は元気なので、時々運動をしたり、食事はしっかり摂っている。鬱という状態はいまだ他人の理解を得にくいと思う。理由なんて人それぞれだし、状況も人によって違う。それどころか自分でも何が起きているのか分からなかったりする。

例えば僕は知り合いと出かける約束をしていて、本当は家を出なければいけない時刻になっても荷物を準備することができず、足が全く動かないどころか身体を起こすことができない、ということがごくたまにあったりする。全く理解されないと思うが、自分の気持ちは「出かけたい」「外に行きたい」「約束をちゃんと守りたい」「時間通りに行動したい」であり、頭の中で何度も自分の声が反響してはいるのだが、身体が動かないのである。いや、動かないとか動かせないというより、一時的に”動かし方をそもそも知らない”状態になってしまい、涙だけぼろぼろ流れてくる、みたいなことがある。そして「最悪だ」と思いながら約束に遅れてしまうことや行けなくなったことを連絡する(そういう人を”遅刻魔”もしくは”ドタキャン”というのかもしれない)ことになる。

数年前から、自分の気分の周期がなんとなくわかるようになってきていて、そういう事態になりそうな予感がする時は初めから「人に会わない」という選択をとることができるようになった。昔はそれすら分からず大変だった。自分の気分が落ちたり死にたくなったりしているのは別にどうでもいいのだが、それによって人に迷惑をかけたり、怒らせたり不快にさせるみたいなことはちゃんと辛いし、悪いことだというのは分かっている。こういうことは、ちゃんと相手に説明できればまだ違ったりするのかもしれないが、経験者の僕でさえ、他の人の鬱の話を聞いても理解できないこともある。

肌感覚ではあるが、ここ数年は、多様な「人それぞれ」という価値観に寛容な時代ではあると思っている。だからこそこれだけ鬱であるとか発達障害とかいう性質みたいなものをいろいろなところで耳にするようになったし、それを仕方ない、自分の性質なんだと捉えることができるようになることについては、自分の視点で見れば少し納得感があるものの、やっぱり他人から見たら理解はできないだろうとも思う。結局のところ自分は自分、他人は他人なのであり、相手の立場に立っていかに想像力を働かせてみても…共感くらいならまあできたとしても、自分にその実感は得られないから「あなたはそうなんだ、まあ、自分はそうじゃないからなんとも言えないけど...」というような、なんの要領も得ない話に帰結するしかないのである。

 

聞いた話によると、精神医学の世界では鬱というのは本来は中高年になってから現れるもので、例えばそれまでずっと活発で元気に仕事をしていたような人が、4〜50代になって突然活力を失ってしまうようなことを指すそうである。これが精神医学でいうところの本当の「鬱」らしい。現代では若い人も普通に鬱になって、命を絶ったりするようなこともあるが、多くの場合これは鬱ではなくて、「適応障害」からくる鬱の症状、ということのようである。適応障害というのはその字の通り、環境や関係にうまく適応できずに悩んだりすることをいう。職場環境とか、人間関係とか、それはどこにでも誰にでも起こりうる。だから、過ごし方や関わる人を変えると途端に気分が良くなって病状が改善する場合も多い。

こういう意味で多くの人が、もう心が結構パンク寸前になっているから「人それぞれ」とか「ありのまま」という許容を求めているんじゃないかと思っている。それを推し進めるような人々の心の動き、世の中にたくさん溢れている「自分を許す」系の本、またそういう言説は、自分が自分自身にかけてしまっている心への圧迫や負担をできるだけ軽くするような意味合いがあるのだと思う。人間誰しも抑圧とか、うまくいかないこととかを抱えているものだし、その割に社会が求めることのレベルはどんどん上がっているような気さえする。こうしなければいけないとか、男はこう・女はこうあるべきとか、人がそういうものに反感をあらわにすることも増えたけど、そういう風潮は実際なかなか変わっていないし、今日も匿名で自分の理想論を押し付け合い、顔も知らない人に反論して生命力を不要に削っている。目にするだけで嫌な気持ちになったり、不安の共有や押し売りをしてくるようなコンテンツとかも増えたと思う。そういうものに限って「嫌なら見なければいい」とかいう常套句がセットで付いてくる。…いや、見ないで済むなら見ないよ…。一部の人たちのために制限が作られていくのは癪だけど、自分で自衛するほかない。非常に釈然としない気分になるのは、こうした自分の権利が奪われたような気がするからかもしれない。

 

「人それぞれ」や「ありのまま」という価値観は聞こえがよく、捉えようによっては良いことだと思う。でも、一部ではそういう自己防衛や負荷を軽くするという意味合いではなく、自分の権利主張のためにそういう言葉が使われることもある。なにかの発言とかコンテンツに対して「私は良くないと思う」と言われたら、「あ、そうですか、でも私は好きなんで嫌ならスルーしてください」というような人それぞれ論である。一見間違っていないようにも思えるが、この発言やコンテンツがもしも倫理観を大きく揺るがすものだったらどうだろう。モラルとか”善さ”みたいなことを無視したものだったら、この多様は必ずしも認められるだろうか。

一人として同じ人はないわけだし、人それぞれなんてのは本来当然のことである。ただ、そんな前提を持ち出されて、妙な説得力を覚えてしまうことがあるのも事実。確かに。不快だからやめてくださいというのもこちら側の勝手な視点かもしれない。みんながもうそれぞれ違う神様を見ているのだから、正しさのぶつかり合いか、もしくは水掛け論になるだけである。他の人を許容できない自分がものすごく人間として冷たく思えたりすることもある。

でも、そもそも違うことが当たり前だからコミュニケーションを取るのだし、何かを共有しようとしたりするわけだし、時々意見をぶつけて議論したりする。他者と関わることの意味がここにあるのに、人それぞれなんで…なんて言われてシャッターを下ろされたらそれ以上何も言えなくなってしまう。そしたら、あとはもう人はみんな自分の話を垂れ流すラジオ・プログラムであり、人の話を聴き流すだけのラジオのリスナーみたいなものになる。じきに世の中の作品は暇つぶしのエンターテインメントになって、作ったり公開する意味もなくなるんじゃないかと思う。すでにそうなり始めているかもしれないとすら思う。個人の性質の話を引き合いに出して「これが私です」「ありのままでいいんです」なんて言葉を見るたびに、逆説的に「ああやっぱり人間ってのは分かり合えないな」と思わされるのである。

話が逸れるが、「人間というのはこういうもので〜」というような、なにかの性質を語る社会構成主義っぽい言葉は最近多いが、その「社会論」みたいなものへの理解が相互関係の改善へと向かず、あくまで個人的な納得感にのみ向いているような気がすることに関してはすごく閉鎖的だと思っている。自分にとってはこうだからこう。白いから白い。正しいから正しい…。まあ表象的なことでいえばそれは確かにそうではあるのだが、人それぞれという言葉が示すものは、そういう自己都合を受け入れて生きていくことを許容しているわけではないと思う。

 

だから、鬱というのは難しい。どうして気持ちが落ちるのかというと、これが自分でもよく分からない。何かきっかけがあったとか、人から何かを言われたんだとか、特にそういうことがあるわけではないからだ。なんの前触れもなく急にくる。自分にも分からないし、相手にもなおさら分からない。自分と、それに関係する相手の時を止めてしまう。関係の中に突然現れるブラックアウトである。

僕は個人的には、というか、自分が体験しているから鬱については寛容(なつもり)である。「死にたい」と言われたらそうだよねと思う。その人の気持ちまでは全くわからないが、死にたくなる意味はわかる。時代のせいにしていいのかもわからないが、こういう世界で「生きていたい」と無条件に思える人と、根本的な何かの差があるんじゃないかとも思う。これだけ世の中に色々なことがあって心が負けそうにならない方がおかしい。僕だってまだ結構やってみたいことがあるから死にたくないだけで、別に生きていたいわけではない。

せっかくだから、別に目をキラキラさせるような感じじゃなくても、生きていたくない気分のまま、死なないでいてみようと思って、この気分でなにか書けることを書き残しておく。ここまで読んでもらって申し訳ないことだが多分全然面白い内容ではなかったと思う。ちなみに心配とかはいりません。もう慣れているので。

 

 

大人の境界

 

 

僕は一応30年くらい生きているわけなのだが、自分が大人になったという実感がない。感覚的には自分の精神は小学生の頃で止まったままである。木登りをして、虫を捕まえて、公園でサッカーや缶蹴りをして、車よりも早く走ろうと頑張って自転車をこいでいた頃のまま、時間だけ経った。自分の中にある記憶とか思い出の密度を考えたら、10年くらいだったら生きた気がするが、あとの20年分はほぼ思い出せない。そういうわけで、成人し、就職したあたりから、なんだかよく分からない色々な書類とかを書かなきゃいけなくなったりして(非常にめんどくさい!)、自分の年齢を書くときになって「え、こんなに生きてるっけ」と思わされるのである。

そんな実感があり、別に嫌味とかではなく、僕には周りの人がやたら大人びて見えている。街とか電車で自分と同じくらいの歳の人を見ると、スーツとかを着て、忙しそうに電話をしていたりして、しっかりしていそうだし、頑張ってる感じもあるし、なんとなく身体つきもしっかりしているように思ったりする。自分とは重ねた時間が違うのではないか?と感じることが多い。最近は後輩や歳下もなんだか頼りになる感じがする。

歳を重ねて、確かにお酒とかは飲むようになったし、たばこも吸うようになった。でも、子供の頃から感覚がほとんど変わっていないという自覚もある。もしも、急になんかの変な妖精みたいなのが目の前に現れて「突然だが、また小学生からやり直してもらいます」とか言われたとしても、虫取りやサッカーや木登りをすればいいだけなので、結構すんなり戻れるんじゃないかと思う。

で、ここで僕が言っている「大人」というのはなんなんだろうか。社会的に考えたときの大人っぽさ?のことだろうか。社会という集団の中で関係性を構築し、集団の一員として生きていくのを目的としたときに、例えば人に迷惑をかけないとか、人当たりが良い・悪いとか、他人を尊重できるかできないか…みたいなことか?と初めは思った。でもそれは小学生くらいの子にもある程度は可能なはずである。だから、物腰柔らかで許容が広いことを「大人」と表現して、なんとなくそういうイメージを持ってしまっているが、それは大人とか子供とか関係ない性格的な話だから、あんまり関係ないことなんじゃないか?と思った。しかし、大抵はそういうふうに表現してしまう。だとすると、経済的に自立しているかみたいな能力的なことなのだろうか。大人と子供の境界はどこにあるんだろう?と思った。

例えば、法律上の区分で大人とされる「成人」という概念は、20歳という年齢を境にしているが、20歳の誕生日の前日の23時59分59秒と、その1秒後の0時0分0秒で自分の中のなにかが変わるのかと言われれば、なにも変わらないだろう。ポケモンの進化じゃあるまいし、1秒くらいで劇的な変化が起こるはずはない。いろいろな尺度でものを考えれば、それぞれ子供と大人を分ける明確なものがあることはある。生理学的にいえば二次性徴によって身体的に大人になるということは確かにそのうちの一つである。もっと人文学的なことで言えば、上に書いた経済的な自立だとか、一人でバーとかに入って酒を嗜む・ブラックコーヒーを飲む(儀式的なこと)だとか、すっごい失恋をして大泣きしたら大人(精神的?)だ、みたいに言うことがある。そんな表現の例は世の中にいくらでもある。しかし、そのどれも「なんかそんな気がする」だけで、何かをする前・した後と、なる前・なった後で、何か自分の性質や性格がはっきり二分される、みたいなことはないように思う。あるとしてもそれは気分の問題でしかない。それでも、僕たちは知らない間に、自分のことを大人になったと思いこんでいる。それはいつ変わるんだろうか。

 

実際のところ、大人だとか子供だとか言い出したのは、ほんのここ200年くらい昔の話らしい。そもそも「子供」が近代の発明物で、教育という概念ができたから、人間の中に教育を受ける人間・教育を終えた人間という区分ができたそうである。昔は子供だろうがなんだろうが、ある程度の物心がつけば鬼滅の刃に出てくる炭次郎のように、ちゃんと集団の中で役割を与えられて働いていた。古代のギリシャでも、10歳くらいから職人として親方の見習いを始めるような当たり前の風潮があったらしいと何かの本で読んだ。そうして自分の技術を高めて、一人前と呼べるときになって初めて「大人」になるのだ。そう考えると、なんとなく子供っぽいのが未熟で、大人っぽいのが成熟なのだろうと思う。

世の中には、小学校に通うような年齢でもものすごい大人びて老成した価値観を持っている子もいるし、老齢になっても子供っぽく自分の感情を押し付け、喚き散らし暴れるような人もいる。だから、前述したような年齢の区分が大人と子供を分けるものではないように思う。

 

僕が僕なりに出した結論としては、自分が大人っぽいなと思える人に共通しているのが「自覚」を持っていることだったので、それがある人、ない人という見方で大人っぽい・子供っぽいを区別している、と考えた。僕が言う「自覚」というのは、「自分はこういうふうに生きていくんだ」というのを、自分の中に自分だけの指標を持っている人のことである。「自分を持っている」「芯がある」「ブレない」みたいに言ったりするが、スポーツ選手などのインタビューを見て、自分よりも若いのにかなり”大人びて”見えるなあ、という感想を持つのは、彼らが自分の時間をその競技に注いで、命を燃やしているように感じるからではないか、と思った。

こういう論でいくと、価値観が社会通念的なものであるとか、誰か他人が言ったことを守り、しかもそれがものすごく漫然とした「なんとなく」によって参照されていると感じる場合に「子供っぽい」という感想を持つことになる。他の人の語る価値観を受け入れるということに、教育における指導や学習っぽさをみるような気がするのだ。弓道の言葉で「守破離」というのがあるが、初めは指導や教えを受け入れ守り、発展させて、いずれはその教えを破り、師から離れていく。修行して自分の実感として理解をして、自分の言葉で語る。こういうのはさっきの修練の考えとも結びついてくる。子供っぽいというのは学びの途中であるということなのだろうか。

子供っぽい子供っぽい、と言うと小馬鹿にしたような感じがするが(そもそも今回はそういうふうに感じてしまう原因がどこからくるのか考えようとしているのだが)決してそういうわけではなく、多分、人の人生には縁とタイミングがあって、価値観の形成は人それぞれ起こるので、早い遅いとかいうことではないんだと思うし、大人だ子供だという見方は「日本人だ」とか「背が高い」みたいなのと同じような、ただの性質に過ぎないともいえる。

ただ、そうは言っても、僕はさっきから「大人に憧れている」ような文を展開している。人生の基本性質は向上していくことにあったりもすると思うので、成熟か未熟かと言われたらやっぱり成熟の方が聞こえが良い。僕は自分の成熟していない部分、子供っぽさを負い目に感じているのかもしれない。できれば大人っぽくなりたいと思っている。

 

僕が個人的に憧れる人は、自分の技術や人間性を向上・研鑽しようとする姿勢を持っている。そういう人をかっこいいと思っている。人間は完全や完璧になることは難しいのかもしれないが、目標とする姿を目指して自分の弱さや甘さ、未熟な部分、上手にできないことに向き合って、少しでも自分が自分自身に納得できるように向上することは意義があるんじゃないか。…と僕は思っている。だから僕は僕に自分なりの課題を課している。まあそのおかげで息苦しくなって病んだり、自分って駄目だなと思って落ち込むこともある。その割に自分ができるようになったことは、もうその瞬間から「自分にはできて当たり前」になってしまって無自覚になるくせに、できないことや失敗には過敏になってしまうから、精神衛生上よくないときもある。

文章を書き始めて大量の失敗や修正を肯定できるようになったのは、自分の意識が「良いものにしたい」という向上ただ一点に向かっているからだろうと思った。書き上げたいという目標がはっきりしているので、そこに向く行動なら肯定できる、というか。失敗は一歩後ろに下がることじゃなく、強いていえばゴールが一歩分遠くなるようなことである。もしかしたらゴールの位置が変わらない場合もあるのかもしれない。確かに一歩は進んでいる。進みさえすればいつかは書き終わるはずである。

少し話が逸れたが、そう考えると、大人なんて概念はそもそもあり得ないのかもしれない。何かできるような気になっている自分と、でも実際のところ完璧ではない自分の能力を考えたら、僕は常に発展途上なわけで、やっぱり未熟で「子供っぽい」のだ。完璧というのは理念とか理想の類だから実現しないだろうが、一応それを目指す。大人になりたいという感覚は別におかしいことじゃないのかもしれない。大人をひとつの理想だとするなら憧れそのものなんだろう。

 

時々、昔に流行った曲や映画なんかを見て、発表された年に驚く。え、◯年前…?もうそんなに経ったの…小さい頃に周りの大人がよく言っていた言葉を、いつの間にか自分も言うようになっている。違う、僕はそういういうことを言う人間になりたかったわけじゃない。過ぎてしまった時間のことは、もういいじゃないか。

クリスマス以外にもケンタッキーを食えるぞとか、そういうことが大人なんだ、ということにしておこうと思う。

 

 

頭、そんなに良くない

 

 

ある“視える”という人に、自分のことをみてもらったことがある。去年のことだったと思う。そのときの僕は、かなりメンタルをやられてしまっており、将来のこととか、自分の仕事や作品の不安ごともそうだし、自分の性格や性質のことも相まって、ため息をつくことがどうにも増えていた。そういうときは世界に色が見えなくて、何をしていてもなんとなく気乗りしなかったり、楽しく思えなかったりするものである。そのうち好きだったことも楽しいと思えなくなるような気がして、そういえば、と思い出し、連絡して会いに行ってみたのだった。

その人が言うには、人には一人一人にオーラみたいなものがあるらしい。オーラの感じ?を見れば、その人がどんな状況にあるのか分かってしまうそうである。相談に行ってみて、用意された席について、何を話したいですか、と言われ…なんか怖いなと思いながら、もやもやしていることを話してみたら、「あなたまだ若いんだから、そんなこと考えるには早すぎます」と言われた。あなたのオーラは今いろんなものを吸収したり求めている段階だから、まだまだ思い描いたものを実現していく時期に達してない、というようなことを言われ、いやオーラって、ハンターハンターじゃん、と思いながら帰った。

人の中にはこういったスピリチュアルな話を全く信用していない人もいるだろうと思う。というか僕も、幽霊とかが視えるわけではないので、「そうなんだ」くらいで聞こうと思っていたのだが、その人との話の中で一点だけ、僕がそれについて一言も話していないのに、ぴったり言い当てられたことがあって…何というかそれが、その人のことを信じるには充分だったので、信じることにしたのである。

それで「まだまだいろんなことをやってみるのが良いよ」ということを言われ、こうやって文章を書いたり、言葉にすることもそうだし、小説を書き始めたこととか、他にもいろいろな表現方法をやったり、自分なりにもがいてみているのである。たいした成果はほぼないが、この一年は本当にいろいろなことをやってみた。音楽も作ってみたし(最悪な出来だった)、映画の脚本、文章、造形、小説、イラスト、家具…あと裁縫、刺繍なんかもやった。料理もがんばった。自分が思いついて「形にしよう」と思ったものは全部手をつけてみた。

結論から言えば、そうやって始めたことが、自分に必要であり足りないことだった。手を動かすということがこんなにも大切なことだったとは思わなかった。特に小説や文章を書くということがそれを気づかせてくれた。

岡田斗司夫氏が「絵画的・漫画的手法」と説明していたが、漫画のように初めからはっきりした輪郭線で描くのではなく、絵画のようにたくさんの色をキャンバスに少しずつのせて対象を描いたり、デッサンするように描き込んで、手数を用いて描きたいものを表していくやり方が僕には必要だった。「タイパ」の話じゃないけど、こういう時代では、すでにあらゆることに対するハウツーが公開されていて、一発で「そこ」にたどり着けることであるとか、狙いすまして得たい効果を得ていくやり方が重視されすぎているから、いつの間にか自分も誤解していたなと思わされた。数打ちゃ当たる、という気分でいた方が楽だし、実感が得られるな、と思った。

 

そのようにして作品を作ろうという気が復活した。いつの間にか開かなくなっていたノートを久しぶりに見て、なんかめっちゃ面白そうなことがたくさん書いてあったので結構楽しかった。こんなの自分いつ書いたっけと思った。多分その時はちゃんと自分なりに理解したんだと思うが、読み返してみると全然覚えていない。自分の感覚が変わったのかもしれないし、単純にあんまり自分にとって重要じゃないから忘れたのかもしれないけど、とにかく記憶から抹消されている。

一時期、自分の不勉強さと知識のなさを反省して、本しか読まない、みたいなときがあった。わかっているんだかわかっていないんだかよく分からないながらも読んだ。その時に結びついたものも多かったのだが、やっぱり忘れているものも多かった。本を読むと納得できることは増えるけど、同じくらい納得できないことも増えるものだ。かえって頭は混乱してしまった。

頑張って情報をたくさん入れても、結局ほとんど理解できないし覚えてすらもいないということである。何らかの外部記憶(書き起こすとか)に頼って、ちゃんと入力に対して出力のバランスも考えないと、特に他人の言葉なんかを自分の血肉に変えることは難しいんじゃないかと思う。それに、一回聞いた・見ただけの話を咀嚼して完璧に理解し、自分の言葉にできるほど頭の良い人間が、この世に何人いるんだろう。そして少なくとも自分はそっちの人間ではないだろう、と思った。もしも自分がそこまでの秀才だったとしたら、多分今もっと違うことをしているはずである。

こういう実感が、自分に過度に期待をかけるのをやめた。言ってみれば”諦め”ではあるが、だからこそ手数を絶やすわけにはいかないのだとも感じた。

 

東浩紀氏が、「人間ってそんなに頭いいっけ?」と言っていて、興味深く内容を聞いていたけど、結局人間というのは数十年で個体が寿命を迎えて無になるという「肉体の脆弱性」を持っている上に、そこには「参照の脆弱性」もあるという。

先日、大学で数学科を出た人と話していて、数学に「解析学」という分野があることを知った。それは何をやるのかというと、一般的に言われているような前提とかに対して、「それって本当にそうなんだっけ?」というのをいちいち疑ってみようとするような分野らしい(非常にざっくりした説明だったので厳密には違うと思う)。理系の学問というのは基本的に、人間が一人で死ぬまでに辿り着けるようなものをゆうに超えるような「真理」を目指しているので、知の構造が積層的であるが、解析学においては、前の人が残したものが本当に正しいのか精査することを目的としているらしい。つまり、知は参照されることで深みを得てきたわけだが、先人が残したリレーのバトンのようなものを受け取ったときに「いやこれ本当にバトンなのか?」と一回やってから走り出すってことだろうか?とか想像して、それはなんかちょっと人間らしくて良いな、と思った。(※追記 解析学を調べてみたところ、僕が書いたような内容のことを考えるのは解析学部分であって、解析学という分野がまるまるそういうことを考える分野、というわけではないっぽい)

インターネットがこんなにも流行るようになって、ネットの中でどこの誰が書いたか分からないような、嘘かもしれない言葉を参照して、そのまま走り出してしまえるということが、実はだいぶおかしいことなんじゃないか?とも思えたりした。そうだとすれば、情報の信頼度こそが本当の意味での真理になり変わるような気がする。うまく人のことを信じさせさえすれば、何でも本当になりうる。SNSとかを見ていても、もはや人は正論なんか求めていないのがよく分かる。自分が信じられるものが一番正しいということになっている。だからこそ神は死んでしまったわけで。

 

スピノザのように、神様が作ったこの世界の法則(それを解き明かそうとしているのが理系の学問)が導いてくれる真理を目指すのか、それとも自分が信じたいように物事を信じるのか、それによって人類がこれからどうなっていくのか大きく分かれていくような気がしないでもない。機械的なものを目指すのか、不完全なものであることを認めるか。そして、自分たちがそういう、不完全な人間であることを愛せるかどうか。そこに人間が人間であることの全てがある気がする。

真剣に、自分に飽きるまで悩んでみたところ、自分の「悩む」という行為に対して、なんか違うなあ、と最近は思うようになった。それは「考えててもやってみなきゃ分かんなくない?」というようなポジティブなものでもなく、僕は「ちゃんと悩んで考えたら分かることもある」と思ったので、悩むこと自体に対して信頼を置きつつも、それをして、ある答えにたどり着こうとする万能感や、それをすれば「なにか分かる」と思っている傲慢さを一回捨ててみたら、やっと人間になれるのでは?と思った。

本当はもっと動物的な存在なんじゃないか、と思ったりする。だから時々理屈に合わないことをしてみたくなるのだと思う。そしてそこから得られるものが、実は一番人間らしく、自分らしい部分なんじゃないかとも思う。そういう、自分の非合理な部分を否定せずに、自分で自分のことを少し不満に思いながらも共に生きていくことを許せたら、なんかそれはとても愛らしいような気がしてくるのである。

 

 

迷って悩んで間違えて

 

 

先週、ある漫画を読んで、もう自分でも意味がわからないくらいに嗚咽してしまった。僕は映画を観たり音楽を聴いたりして泣くことは結構あるが、漫画を読んで泣くというのはあまりない。こんなに泣いたのはハンターハンターの”蟻編”を読んだ時以来である。

ほんの数巻で完結する話なのだが、最終巻が一番ヤバくて、涙で文字が見えないくらいだったので、最後の方はもう正直絵の雰囲気だけで泣いていた。だから内容があんまりちゃんとよく分かっていない。読み終わった後しばらく放心状態で口も訊けず、食事もちゃんとできなかった。なんか、こういうものを信じて世界に作品を残してくれたことに対して本当に頭が下がる思いだった。作者の方が、漫画の終わりにあとがきを書いていて、「大切な、美しいものを描きたかった」と書いていたのを見て「うわあ(感激)」と思った。なんか弱気になっていた僕の心に確かに届いた。

 

それで、まあ「影響を受けた」といえばそうなのだが、なにか物語を書いてみたい、と思った。もともと自分の作品用に構想していた”あるテーマ”があって、でも、自分の主な表現手法である立体やインスタレーションでは、自分が描きたいことを伝えきれないというか、手段が適していないような気がしていて、ずっと模索していたのだった。で、こうして今ブログを書き始めてみて、結構飽き性な自分が半年間(断続的ではあるが)文章を書くのを続けられているということもあって、小説を書いてみようと思った。志賀直哉を読んでみて「小説って良いかも」と思ったのも機会としては大きかったのかもしれない。

大まかなストーリーと、大体の構成だけ決めて、あと自分が描きたいテーマをはっきりさせて…まあこの辺は美術の作品を作るのと結構似ている。僕は美術作品の場合は、いつもどんなものを作るのか完全に決めてから手を動かし始めるのだが、それと同じようなやり方をすると自分が面白くないかもしれないと思い、やり方を変えることにしてみた。結末だけなんとなく考えておいて、あとは書きながら考えようと思った。

で、書き初めてみて、やっぱりめちゃくちゃ難しかった。考えながら文章を表現にしていくのはかなり頭を使う作業だ。このブログはいつも大体4000字程度を目安にして書いている。書きたいことが決まっていれば大体2〜3時間くらいで書き終わるのだが、小説となると全然話が違う。難しい。作家の本職の人たちは、大体ひと月くらいあれば長編(8〜10万字くらいらしい)を一本書いてしまうらしいが、ひと月では書き終わる気がしない。本当に終わらせられるんだろうか。まだなにも分からない。

でも、新しい制作に向かってみるというのは良かった。「書きながら色々決めていく」という感覚が僕にとっては新鮮だったし、書いたものを消して、新しい方向に向かっていくときが結構楽しい。例えるとしたら、植物が地面を割ってぐんぐん根を伸ばしていくように、少しずつではあるが力強く、幹は確かに大きくなっていく、みたいな感覚があった。そういうのが意外と生の実感なのかもしれないな、とも思った。失敗して止まっても、また別の方向に進む。その先でいくつも分岐して、うねりながら伸びていく。その「迷いながら進んでいく感」がなんとなく良い。間違いまくって、何度もやり直ししているわけだけど。

 

最近、映画を早送りで観る人たちがいるという。まあ別にそれは人の勝手なのでどうでもいいが、識者に言わせれば「コスパ」ならぬ「タイパ(タイムパフォーマンス)」を求めて、自分の限られた時間で一番効果や対価を得られる方法を選びたがる「失敗をしたくない」人たちが増えている、とのことだった。映画早送りのほかには、読書代行というのがあって、本を代わりに読んでもらい、人に要点をまとめてもらうというサービスなんかがあるらしい。

そして、その感覚が非常によく分かってしまう自分がいる。どうせなら最短距離で結果を得たいし、もし読み始めた本が全然面白くなかったら、観始めた映画が面白くなかったら、数時間は無駄にすることになる。今まで何時間もそうやって無駄にしてきた人間としては、もっとダイレクトに自分に必要なものを知りたいという欲がある。そうすれば時間をかければかけるほど自分の成長につなげることができるわけだし、やる気も出るだろうと思う。やればやっただけ確実に自分のプラスになるんだということがわかっていれば、人は結構努力を続けられる気がする。僕は努力が苦手で、思い立って新しいことを初めても大体3日で飽きる本物の三日坊主である。だから制作が続いていることが奇跡的だ。興味のないことは全然やりたくないので、対価のことはやっぱり頭をよぎってしまう。

「タイパ」的な思考は、勉強とか、自分のスキル、財産みたいなことに対して働くのだと思う。ただでさえ競争が激しく、必要なものがどんどん変わっていって、みんな迷いながら生きている。「人それぞれ」とか「ありのままで良い」とか言って溜飲を下げてみても、相変わらず「人よりも優れていたい」と思ってしまうものである。学歴がどうとか、資格がどうとか、収入がどうとか、自分の旦那さんや奥さんがどのくらいイケてるかとか、みんな実生活では言わないけど、SNSはそんなもので溢れている。人より先に何かをやり切って…「ゴール」して楽になってしまいたい。近道があるなら通りたい。普通はそうだろう。楽な方が絶対に良いに決まっている。

じゃあゴールってなんだっけ、と言えば「それは人それぞれだから勝ち負けじゃない」みたいな話も出てくる。いや、そういう話じゃなくて、自分の育ってきた環境の中で”得たもの”を、なんとなく相対的に考えて「自分は優れている」とか「頑張った」とか判断して他人と比べ合っているのだから、「ゴールは同じじゃない」と言われたとしても、なんとなく納得できない。確かに判断基準は個々が持っているから、自分が満足していさえすればそれが一番だとは思うが、そういうこととはなにか違う気がする。第一、持たないよりは持っている方がいい。だから対価が必要なのだ。得をしたい。すごく分かる。

なんとなく、少しずつ前進している感、「生きてきた」という実感が大事なのかな、と思った。これだけいろいろなサービスやコンテンツがあって、日常の色々が技術の向上によって楽になって、生活がルーティンになりがちだと、「生きてきた」実感は「変化」…特に「向上」であって、ただ漫然と飯を食うということではない。社会全体がなんだか「やりがい」とか「生きがい」を求めるようになったのは、欲求の段階が向上したからだと思う。もはや人間の目的は「飯を食う」ことにはない。飯を食えることは当たり前になってきている。それより「どうやって生きるのか」が重要なのだ。
コスパやタイパは、自分の行動に対してわかりやすい対価を得るということが延長された末の考え方な気がするので、新しい知識や教養を得ること自体は大して重要じゃなくて、多分、なにか”変わった感”がほしい、みたいな感覚なんじゃないかと思う。やってる感、というか、こなした感というか。タスク処理の一環かもしれない。多分見ないであろう動画のサムネイルを「あとで見る」に登録するのも、多分買わない服にお気に入りマークを付けるのも、ほしいものリストに入れるのも。既読感覚に近いと思う。「みたよ」というマーク。チェックシートのような人生。

話がちょっと逸れたが、それでいうと、僕が始めた「小説を書く」というのは、コスパやタイパで考えると最悪な行為である。数時間かけて何行か書いてみても、読み直したら気に入らなくて消すことが多い。数時間が無駄になっている。要するに失敗の方が多い。タイパ思考の人が聞いたら発狂しそうである。しかも書けたところで多分自分の足しには一切ならない。日本語の能力とかは多少上がるかもしれないが、まあお金とかにはならないと思うし、自分が思ったようなものが作れない可能性もあるから、かえってストレスになるかもしれない。

 

でも、何かが進んでいる感覚がめちゃくちゃあった。一日かけて書いた文章を全部消しても、何かが進んでいるのだ。何が進んでいるのかは分からない(もしかしたら時計の針かもしれない)。分からないがしかし、頑張って書いてみた数行を消すとき、僕の中では確かに不思議なことが起こる。「これじゃダメ」と思いながら文字を消す。「ダメ」の中にあるのは、このクソみたいな文章を消せる、という清々したスッキリ感、それから「どうやったらいい感じになるだろうか」という先の見えなさ分からなさ、もやもや、「いい感じの言葉はどこにあるのか」という期待。実際は一行も前に進んではいない。しかし、なにかが進んでいる!

かの有名なエジソンは「実験の失敗」を「うまくいかなかったという発見」だと表現したそうだが、そういうことなんだろうか?これじゃなんか違うよね、ということに気づけたみたいな良さ?なんだか良く分からないが、得られている具体的なものだけが実感を得たり、人生を楽しくするわけじゃないんだな、と思った。僕は今までの制作が「物質100%、物理、質量」みたいな世界だったので、こういう経験ってそういえば今までなかったなと思った。失敗してポジティブを得られることが世の中にあるんだ、と思った。書いた文を消すことに生きがいを感じ始めると話が変わってくる気がするので気をつけたいが、なんかそういう世界もあるらしい。

もっと言うと、本当に書き上がるか自体怪しいわけだから、コストやタイムばっかりかかって、肝心のパフォーマンスの部分が得られない可能性があるということだ。なんなんだこの博打は。でも、何かが進んでいる気がするのだった。僕は実感を得てしまった。

 

ちゃんと書き終えられたら良いなと思った。いつになるかはわからないけど。

 

 

和解

 

 

志賀直哉の小説「和解」を読んだ。人に勧められて、そういえば最近全然本を読んでいないなと思い、いい機会なので読むことにした。まあ新書でもないし、かなり有名な作家なので教養として読んでいる人も多いと思うが、今回はそのことについて書く。存分にネタバレを含む内容なので、読んでみようと思っている人はご注意。

 

ざっくりとした物語の説明をすると、これは志賀直哉自身の父親との確執をめぐった心境や心象を表した私小説だ。タイトルの「和解」とは実の父親との和解のことである。私小説だから、出てくる人物も実際にいる作者の知り合いで、交友であるとか当時あったことなどが書かれていて、そういう出来事によって「自分」と「父親」との心理的な距離が変化していくような構成になっている。

自分のことを書いている小説だから、物語の中の主人公も物書きで、作中、この小説自体と同じように、父との不和を文章によって描こうと苦悩する描写があったりする。メタ認知の構造があっておもしろい。

主人公は、父との不和を書こうとして自分の中にある様々な感情を吐き尽くそうとする。不快感。憎しみ。怒り。それを書こうとする時、「本当はそうしたくない自分」というものが現れたりする。感情が昂って絶頂を迎え、怒鳴り合い、掴み合い、ついに自分が死ぬか父が死ぬか、という一触即発の状況を思い描いた時に、不意に自分の奥底から感情が立ちあらわれて、自分の本心に気がつくというか…不和の果て、絶縁や死や破壊などといった衝動とは違った結末を夢想している自分の存在に、そうして初めて気がついたりする。

 

僕が大学で教わっていた先生は僕たちに夏目漱石志賀直哉の話をよくした。だから僕は小説をほどんど読まない(というか読めない)が、彼らの作品のことはずっと頭の片隅にあった。わざわざ僕が語ることでもないが、志賀直哉の小説というのは、自分の経験と内省、それによる自我の肯定を根本においている…らしい。だからフィクション要素をほとんど入れない。「志賀直哉がなぜ死ぬまで小説を書き続けたのか。それが自分を掘る行為だったからだ」と先生は言っていた。つまり書くこと、表現することによって、自分のことを肯定し理解するために小説を書き続けたのだという。

なぜか僕にはその話がずっと心に残っていた。最近になって僕はやっと自分のことが少しずつ理解できるようになってきた。立ち止まって考えたり、記憶を堀り返して自分の作品や今までのことを振り返ってみると、自分の中に、それこそ小さい頃からあった唯一の疑問というのは「自分は何者なのか」ということだった。

 

僕にはずっと、自分の実感も当事者意識も薄かった。自分の意識が自分のものではないような気がしていた。ただふわふわと、親や兄弟や教師、周りの大人たちが言うことをなんとなく守って生きてきた。それは「そうすれば怒られないから」というようなお利口で聞き分けの良い精神というわけでは決してなかった。何をすればいいのか分からず、どうしたらいいのかも分からなかったから、レールの上を走ることがただ自分の安心だった。でも、一方で周りの友達の意思決定や自我が羨ましかった。

ある日突然レールを降りて、自分の足で歩き出すような決定をした友達のことを、周りの人たちは「うまくいくはずない」と言って憂いたけど、ああ、彼は自分のことを分かったんだなと思った。そういう話を聞くたびに、自分と彼との自立に対する意識の差を感じてしまい、自分が惨めな気持ちになったりもした。自分は何のために生まれてきたんだろう?何をすればいいんだろう?いつかこんなふうに、自分が信じた道だったら、何も考えずに勇気を持って踏み出すことができるんだろうか。自分にもそういう大切なものがあるんだろうか。僕は自分にずっと目的が欲しかった。

作品を作ることで少しそれが見えるような気がしていた。志賀直哉のエピソードは自分を制作に向かわすための勇気になったのだと思う。そうか、そういう作品の作り方もあるのかもしれない。「自分が何者なのか」という同一性への問いは、多くの人が多少は抱えている問題なのではないかと思うが、僕は自分の作品制作を通して、ずっとそういうことが気になっていたのではないかと思った。自分で全く気づいてなかったけど。

先日書いた文章で、「僕は今まで知らなかった世界を少し知りすぎた」というようなことを書いたが、決してあれは悲観的な気分で「ペシミストになってしまったという告白」みたいなくだらないものを書いたつもりはなくて、ある意味あれは自分の世界がかき混ぜられて自分を問われたという意味で、僕に必要な変化だったとは思っている。…ただ、その心象模様を吐き出しただけで、特におもしろいくだりもなく、まとめ方も適当だったので普通に駄文だったとは思う。でも、そういう意味では、今オブジェクトとしての作品を作れなくなった自分が「自分を掘る行為」として、こうして(駄でも良でも)文章を書くことに意味がある。自分が自分のことを書き起こしたあとで自分が何を思うのかという、その表出と受容と反応のプロセスこそ表現の意味になるのではないかと思った。

いつかの記事で「蕎麦を食いたかったがアジフライを食った」みたいな話をしたけど、悩んで悩んだ末にアジフライを食ったことで、蕎麦を食いたかった自分に気づくというのがまさに自分を掘る、ということなのかもしれないとも思った。…まあこの場合、アジフライを食ってしまったために、結果として腹持ち的には蕎麦が食えなくなってしまってはいるものの、作品に関しては書く(もしくは作る)ことでまた新しい展望が見えるわけで、そしたらなんでも良いからとりあえず吐き出した方がいいのでは、という結論になった。自分を掘る行為が自分を本当の願望に近づけさせるのかもしれない、とも思った。質より量である。作品は点を打っていくようなもので、打てば打つほど最終的に自分が思い描いた図像がはっきりと浮かび上がる。

 

…まあ言葉ではなんとでも言えるが、そもそも自分の手がこんなに動かないのは自分が建築をやっていたこともかなり大きいと思う。建築の制作にあたっては「なんでもいいからとりあえず作ってみて考えよう」なんてことはできないのである。だから行為の前に思考することが前提だし、考えないと手が動かせない。たくさんの言葉やスケッチで理屈を作ってからでないと作品に形を与えられない。それは自分の特徴でもあるが弱い部分でもあると思う。なんというかデザイン的だ。本当はこういう「作り方」を模索するべきなのだ。

いや、実はずっと窮屈な感じがして何度か過去にも試みてはいるが、いまひとつ自分の制作のかたちというのを掴み切れていない部分が大いにある。なぜか「作品」を作ろうとしたとたん、建築を学び始める前の幼い自分が自然にやっていた作品の作り方が思い出せなくなる。昔の自分の方が明らかに目的を持ってやっていた。でもそれが作品と呼べるものなのかどうかは疑問だ。

 

こうやって、ああでもないこうでもないと文章を書くこと、頭を働かすことが今一番僕にとって適合する制作の仕方なのかもしれないと思う。自分の中に何か納得できないことや腑に落ちないことがあるから、こうやって文章を書こうという気になるのだ。納得できないことこそ僕の原動力だった。好きだからとかいう話ではなかった。僕はものすごい勘違いをしていた。多分僕に唯一ある欲望は「理解」かもしれない。

自分の脳のこともあって、人のことを知りたいと思うのも、いろんなことを調べたり本を読もうとするのも、ずっとその疑問が心の中にあって分からないままで、分からないままだと僕は世界との接点を持てないからなんだと思う。特に人と話をすることがあんまりできなかった今までの自分と、特に世界に興味も持てなかった自分と、それがある時に少しだけ広がりを見せ、自分の世界のことをとてもおもしろく感じることができたために、理解することに執着しているのかもしれない。これは自分の性格との向き合いでもある。なんとか統合する世界を増やさないと、自分の存在が薄いような気もしてくる。

もっとシンプルに、自分への問いに向き合った方がいいかもしれないと思った。そういえば最近社会学系の本ばかり読んだので、何か目的とかを持って作品に取り組もうとしてしまっていたかもしれない。でも、ちょっと文章を書いたりして、社会のことを批評したり論じたりするのは、完全に自分の仕事ではないと思った。読んでる本の数と理解のレベルが違いすぎる。残念ながら僕は頭が悪かった。でもこれも、やってみて初めてわかったことだ。自分にできることを、もっと深くまでやればいいんじゃん、と思った。やりたいこととできることのバランスが大事だ。とりあえず、僕の文章を待って、読んでくれている人がいるし

 

本当は全然違うつもりがあって読んだんだけど、思わぬ発見があって良かった。ちょっとだけ息を吹き返した感じがする。良い小説でした。