哀愁

 

 

仕事場の斜向かいに保育園があって、朝そこに向かう時、ちょうど先生たちと一緒に散歩に出かける小さい子たちとすれ違う。カートに乗せられて運ばれる子たちに手を振って仕事場に到着するのが日課になっている。

小さい子はかわいい。僕のことをじっと見てくるので、僕も負けじと見つめ返したりする。笑ってくれる子もいれば奇声をあげる子もいる。小さい子というのは、自分が何をしているのか全然分かっていないような感じがするので見ていて面白い。これからいろんなことを経験して、いろんなものに出会って生きていくんだよなと思いながら、ガラガラと運ばれていくのを見送る。

そんなわけで仕事中も保育園からいろんな声が聞こえてくる。ピアノの音に合わせてみんな一生懸命に歌を歌ったりしている。ほとんど叫ぶような大きな声で元気がよい。キャーキャー言いながら遊んでいる。時々泣く声も聞こえる。転んだか、けんかでもしたのだろうか。たしなめる先生の声も聞こえてくる。

子供たちはジブリの曲とか童謡なんかを歌っている。「あるこう あるこう わたしはげんき!」元気な歌である。本当に元気なのだから説得力がある。僕だって小さい頃に散々歌った。今でも歌詞を覚えているくらい馴染みのある歌だ。

 

ある程度の歳になると童謡を歌うなんてことはなくなる。たまに思い出したりして聴きたくなって、某動画サイトで検索してみることもあるが、そんなことはあって数年に一度くらいである。

小さい頃はわりと奇声をあげたり大声で騒ぐのが楽しかったり、同じ曲をみんなで歌う一体感とか共有している感じが楽しくて、音楽の授業なんかでも一生懸命歌っていた気がする。そのうちもはや歌どころの気ではなくなって、友達と「どっちがより大声を出せるか」みたいな勝負になったりもする。

…ところが思春期を迎えると、急に大勢の前で歌ったりすることが恥ずかしくなって、ポケットに手を突っ込んだままぼそぼそ声だけ出すようになる。真面目に歌を歌うことが、なんとなくダサいんじゃないかという雰囲気になる。あの時、一体何がどう変わってしまうのか。あの無邪気な”元気”はどこにいくんだろう。

 

思春期というのは自我を形成していく時期だと言われる。今まで自分を守っていた保護者・または監督者、社会のルールなどの、様々な「言いつけ」と「自分の意思」とのすり合わせを行っていくのだ。精神的な自立をしていく重要な期間である。だから「言われた通りに何かをすること」と「待て、自分って本当に歌なんか歌いたいんだっけ?」というところでの軋轢が生じてくる。

それは「誰かの言う通りにするなんてなんか嫌だ」という反抗的な動機からかもしれない。そうすると、”なんとなく”学校に通っている自分、毎日何時間も言われた通りに席に座り授業を受けている自分を、そのものから否定しなければならなくなってくる。…勉強なんてしたくないんだよ。なんで?勉強って必要ですか?しないとダメですか?こういうことを大人に聞く子供は多い。こういう矛盾と数多く向き合わなければいけない。それが社会というものである。

自立した精神性を獲得する時期に、いつまでも守られ、できない・知らないことの多い子供のままでいたくない。自分の幼児性を否定したい。自分のことは自分で決めるし、自分でやれるんだ。そういう意味で「子供っぽさ」を嫌っている、ということはあり得る。

そして、いつの間にか言葉も感情表現もある程度うまくなり、冷静に簡潔に、自分の気持ちや意思を人に伝えられるようになる。”元気”に大きな声で表現をする機会なんて、歳をとればとるほどなくなっていく。

 

大人になる段階で得られるもの、できるようになることは多い。日本で暮らしていれば基本的には安全だし自由である。酒を飲むとか、車を運転したり、異性とそういう関係になるとか、夜中に外に出て遊ぶのも自由になる。時間は不可逆だから、人間はいつかそういう機会を得るし、そういうふうになっていく。別に望んでないのに濃いめの毛が生えてきたり、声が低くなったりもする。

そういう変化もありながら、人が大勢集まる社会がうまく運営できるように世の中にはルールやモラルとかいった決まり事があって、大体”そのくらいの”年齢になる頃には分別がついて、みんなができるだけゴタゴタせずうまくやっていけるように教育というものがある。経験、分析、そして改善と修正、その反復。反復をするといつの間にか慣れる。楽しかった歌も、何回か歌うと飽きる。

そのうち、まだそんなことやってるのかよ、もうそんな歳じゃないじゃんとか、◯◯はもう卒業したよ〜とか言い出す。社会の一員になるまでに一通り色んな経験して、せいぜい恥ずかしくない人間になっといてくださいね、となにかに言われているかのようである。まあ、それはそう。確かに恥は避けたいとは思う。

ただ、子供から大人になっていく過程が、成長とか向上とかの言葉でイメージ美化されているような部分があって、大体子供の成長というのは喜ばしくもあるから、子供<大人であるみたいな前提で話されやすいが、実際は子供にしかできないことも多い。

 

この前行った公園に、子供向けの小さめの遊園地があり、中でキャーキャー言って遊ぶ小さい子たちを見ながら、無意識だったけど僕は気づいたらベンチに座っていて、完全に(勝手に)”保護者”みたいな心境になっていたのだった。それに気づいた時、ああ、自分はもうあの空間には入っていけなくなってしまったんだ、と自覚させられた。そのアトラクションに、ものすごい境界と領域を感じたのである。大した高さでもなく、塗装も剥げ錆び付いて、簡単に跨げそうな柵が、どうしても超えられない気がしてしまった。

「子供にしかできない」と書いたが、いや、実際できることはできる。身体がでかくなったからサイズ的に乗れません、ということはまああるかもしれないが、できなくはない。できない、というより正しくない、と言う方が合っているかもしれない。自分がそこに入っていくことを、なんとなく認められないというか、不自然な気がするというか。…何が正しくないんだろう?小さい子に混ざって遊ぶのが恥ずかしかったんだろうか?

そういえば同じことを別の時にも思った。いつから川で袖や裾を捲らなくなったんだろう。いつから砂浜で裸足にならなくなったんだろう。いつからクモの巣を避けて、草むらを避けて歩くようになったんだろう。いつから木に登るのに靴の汚れが気になるようになったんだろう…いつから僕はこんな人間になったんだ?

せいぜい今やることと言えば、水際まで行って、ギリギリ濡れないところで手を伸ばして「結構冷たいわ」とか言いながら水をぴっぴっと払う程度。...いや、まあ水に入ること自体はできる。能力的な問題じゃない。靴を脱いで水に浸かるなんて、毎日風呂に入っているんだから少し濡れるくらいわけない。でも状況が違う。どうにも入る気にならない。仕方ない。足が濡れたあとに履く靴下の気持ち悪さを、すっかり身体が覚えてしまっている。”めんどくさい”のだ。そのあと30秒くらい風景の適当な動画を撮って、なにか得たような気分になって帰る。

…天気が良くて良かったよね、じゃない。そのデータ、あとでどうせ見返さないじゃないか。感動だってなにもない。いつの間にかそういう大人になってしまっている。

 

いつからそれらをめんどくさいと感じるようになってしまったんだろう。できることが増える一方で、いろいろなものを避けるようになっているのは事実だ。だから山や川や海、その他レジャーに参加するのに、わざわざ日程を決め、気持ちの切り替えと準備をしなければならなくなっている。

今では歌を歌うのにもカラオケにいかなければならない。それが許される場所にいかなければならない。ちょっとはしゃいだりした時、急に恥ずかしくなって「酔っていたんで」「ノリで」とかいう謎の免罪符を口にするようになっている。そんなもので許されることではないのに、時々失ってしまったなにかを取り戻したいと抗おうとしている。

 

…まあ、普通に考えれば街中で大声を出して騒ぐのは迷惑だ。繁華街でもないかぎりそんな人がいたら、自分だったら警察を呼ぶと思う。こういうものはルールやモラルとして世の中では守られるべきことだったりもする。山に登るのに装備を整えるのは救助隊とか各方面に迷惑をかける可能性を減らす意味合いがある。だから「体験が大事」という主張をもって、あらゆる制限を外すことが一概に良いとは思わない。

はっきり言えばこれはただの哀愁なんだ。しかし僕は自分に失望感を覚えている。体験を避ける、または選ばなくなる理由が、”分かっている気”になって経験の重複を避けることなんだとしたら、それはこの世界がどれだけつまらないか、同じことばかりがどれだけ繰り返されているのか、その証明みたいなものじゃないか。

 

スラムダンクで、桜木が安西先生に放った「オヤジの栄光時代はいつだよ(略)オレは今なんだよ!」というセリフがあるが、「いや俺はいいや」と言って、今まさに生きている実感を味わうためにするべきこと、した方がよかったかもしれないことを、あまりにも恥を遠ざけたり、めんどくさがることで、そういう機会をいくつ逃してきたんだ?

だいたい、生きる実感を遠ざけてるから鬱なんかになるんだよ。生きることは本当はかなりめんどくさい。めんどくさいことしかない。おまけにつらい。苦しい。

「めんどくさい」ばっかり言ってたら、せっかく生えた濃い目の毛も抜ける。で、後になって「昔あんなに生えてたのに」とか言うんだろ。ピンクフロイドの「Time」、昔何十回も聴いたけど、また頭を殴られる気分だ

 

 

愛と祈りと怒りと

 

 

最近とてもなにかに愛を奪われているかのような感覚がある。書きたいことがたくさんあるのに、どうせ書いても、と思わせてくるなにかがある。人は本当に分かり合えない、と諦め始めている。何かが自分の中で変わり始めている。

話そうとして話せなかった、伝えられなかったこと、けんかをしたっきり会わなくなった人のこと、もう連絡も取れなくなった人のこと、心を抉られて離れざるを得なくなった人、そういう人たちのことを、もう思い出したくもなくなってきている。どこかで元気にやっていてほしいとか、そういうことすら思えなくなってきている。

 

究極の別れというのは多分死だから、死ななければいいかと思っていた。人とうまくいかなくなっても生きていればどこかで会えるだろうと思っていた。でも、自分が死ぬことをあまり怖いと思わなくなって(苦しいとか痛いのとかはやっぱり嫌だが)、もし死んだとしても人は霊体かなんかになってまた会える日がくるんじゃないかと考えている。それは理屈とかではなく本能的な直感に近い。大好きなスターウォーズの影響かもしれない。僕は死んだことがないから本当にそうかどうかは知らないが、死を恐れる理由が自分の感覚を失うことや孤独にあるのだとしたら、そういう主観的なものはむしろ他者との関わりの中にあるものだから、怖いのは”自分が死ぬこと”それ自体ではないのだと思う。

いずれ来る自分の死を自分で理解することができるかできないかわからないが、死によって僕たちの感覚が途絶えるのだとすれば、自分が死んだことを自分で理解することはできないはずである。ならば僕たちの感覚がある間に理解できる死とは自分のものではない。いつも他の誰かの死である。死への恐怖というのは、正しくは「死によって自分の大切な人とか世界が終わるのが怖い」ということになる。…少なくとも僕の信条は「生きていればまたどこかで」であった。出会いも別れも一応人並みには経験してきたつもりだ。ある程度は仕方ないことなんだ、と割り切って生きてこれた。誤解を恐れずに言えば、いなくなられて本当に凹むような人間関係なんてそんなに多くない、とも思っている。でもこれは、そうでも思わないととてもまともに生活なんてできなかったからでもある。

 

全ての人の幸せを願って、世界が一つになるだろうと思って信じて生きて、理不尽に奪われる命を少しでも救いたいとか、隣人に優しくしようとか、傷ついている人を励まして生きるんだとか、できれば誰かの力になって生きていたいとかそういうことを思い、そういう力を信じて生きてきたつもりだが、残念ながら世の中全然そういうふうには動いていない。それどころか、人に何かを埋めてもらおうとして生きている人間はたくさんいて、人から愛を奪っておいて平気な顔をしている。僕だってそうなんだと思う。一度も誰のことも傷つけたことがありません、とはとても言えない。

人が何を持っているか、何を提供してくれるのかを無意識に計算している。口にはとても出さないし本当にそんなこと考えているつもりはもちろんない。ないけど、そう思わざるを得ない場面も、自分に対してもそう思うこともたくさんあった。例えば「あなたへのおすすめ」に出てくるものを0.5秒くらいで判別して、これはいい、これは悪い、これは使えそう、これはかっこいい・かわいい、役に立ちそうなどと格付けするように。もう癖になっている。誰かを評価して、今日も誰かを傷つけると同時に幸せも願っている。どの口が言う?自分が何をしているのかわからない。本当は何がほしいのかも分からない。何が書きたいのか、何が作りたいのかも分からない。楽しいことはなんだったっけ?そういう無意識の連続といくつかの出来事が重なって、結構疲れてしまっている。

できれば誠実にいたいと願いながら、心の中のいろんな感情を真正面から受け止めて、苦しいながらも悩んで、芯から物事を捉えるようにしてきたつもりだ。たくさん本を読んだのはそれを理解したかったからだ。自分の感情を理解したかったから。そうやって自分の中に負の感情をたくさん溜め込んだ結果、ある時ついに破裂して自分の中の黒い感情を昇華し切れなくなって、一斉にそういう気持ちを追い出すようになった。悲しさ、怒り、悔しさ…心がそういう感情を嫌っている。耐えられなくなっている。

感情には理由がある。怒ることは防御だとか言ったりするが、時にはそれと向き合わなければ自分が何かを奪われたり、損をしたりするのである。例えば誰かにバカにされたとして、そこで腹を立てなければ、尊厳と権利を失うことになる。僕はそういうものに負けたくないしできるだけそれに加担したくない。ひとつひとつ起こった出来事と自分の感情を客観的に照合して、怒ることによって誇りを持って生きる。ここでいう怒りとは怒鳴ったり八つ当たりするようなことではない。反発である。

しかしそういう反発すらもめんどくさくなっている。いいや、好きにさせとけば…そう思うんならそれでいいよ。別に弁明しない。言い訳もしない。ただ関わらないでくれ。せめて静かに記憶から消えてくれ。そういうふうに思うようになってしまっている。なんだか色々なことがうるさくなってしまっている。

 

作品が誰かを傷つけたりすることがあるということを知っている。それがどれだけ正しかろうとも、それは自分の中だけの世界であり、そういうものを拒絶する意見があることも分かっている。頭をさんざん悩ませて作ったものを嘲笑われたりもする。人として大事なことを大事にしていても、結局何も変えられないんだという無力さもわかっている。「それでも信じて作るんです」なんていうことを、まるで美談のように情熱を持って語るにしては頭はだいぶ冷え切り、芸術の歴史を見るに、過去に一度でもなんらかの作品がその素晴らしい力を社会に発揮したことがあったんだろうか、と疑いの目すら向けている。

反戦活動をするアーティストがいる。戦争反対を掲げて作品を発表している。戦争なんて「良くない」ことは誰の目にも明らかである。戦争によって利権を得ている人間は戦場に立たない。理不尽に背後から、上空から、下から攻撃され命を奪われることは誰でも避けたい。生きて帰りたい。帰って家族を、仲間を、友を抱きしめたい。できるだけ笑顔で過ごしたい。そういう答えが明らかな問題を作品によって語ることはかなり狡くもある。反論がありえない。答えがほとんど出ているものを提出することによって同調を得るようなやり方だとも捉えられかねない。作品にまでする意味がない。みんなそんなこと分かりきっていて、でもどうともできないから苦しんでいる。別に戦争のことだけではない。身近な人間関係の中だってどうともできない問題がたくさんある。だから苦しんでいる。

でも、こんな時世で毎日笑って過ごせる方が僕には違和感に映る。しわ寄せは必ずどこかにいっている。世界のどこかに緊張がかかり続けて、耐えられなくなってはじける。平和に見えるのはただ均衡が保たれているだけである。誰かが我慢している。明日死ぬ人は黙っていなくなる。「そんなに思い詰めていたなんて」と、全てが去ってしまった後になってから気づく。

 

僕は今のSNSが嫌いだ。物事は140字で語りきれるほど単純ではない。なにかを分かったような気になることこそ最悪なことだと思う。朝まで考えたって僕たちにはなんの答えも出せない。ステージの上から人を救うことはできない。1と不特定多数では心の芯まで響かない。一対一で話をすることしかできない。本当に苦しんでいる人には、他の誰でもない、その人のそばにいられるあなたの声が必要なのだ。その役目はアーティストや発信者だけのものではない。自分に価値がないというのは大きな間違いである。もしも評価がなくとも価値ならある。命をつなぐことができる。誰かに声をかけて一緒に飲みに行って悩みとかを聞くことができる。痛みを分け合って一緒に泣くことができる。話し合って理解することができる。言葉はそのためにある。でかいことをする必要はない。僕は偉くない。こんな文章を書いたり多少作品を作っているくらいで、他人と違う部分なんて何もない。我々は偉くない。人を助けることや愛することに偉さは必要ない。

命は重すぎるように思う。遠い国で、今日も誰かが殺されている。顔も知らない誰かが暴力を受けている。蔑まれ、差別され、苦しみと寒さの中旅立っている。何かを想おうにも遠すぎて実感がないほどにあっけなく人がいなくなる。大きい母数に関して想いを馳せるのは自分の実感が追いつかない。頭でわかっても想像ができない。なら、せめて近くの人だけでも、自分がいなくなると困ると思う人には思いやりを持っていたい。

僕たちはコンテンツじゃない。誰かの暇つぶしのためになんて生きていない。あなたは何をやっている人なんですかとか、そんなことはどうでもいい。何をしようとしているかだけで充分だろう。愛を奪われると人は不幸になる。愛というのは色恋だけじゃない。友人、家族、そのほかの場所にも愛はある。想うこと、そのエネルギーのことを僕は愛と呼んでいる。ただし、人の思いやりを、真剣な眼差しを、明日に希望を託す力を、そのために何かをしようとする勇気を心の芯で理解できない人間がいる。愛はそこにはない。僕は愛を持っている人たちと生きていたい。

 

まあ~良く分からない文章である。お察しの通りかなり混乱はしている。でも別に「酒を飲んでたんで」とかそういう言い訳はない。僕は今、狂気のシラフである。頭の中のモヤを全て理解する必要はない。そんなこと頑張ったって、僕にはどうせできやしなかった。「正しいと思うことをしろ」そしてできれば自分が楽しいことを、である。

 

 

掲載情報

 

 

11/2より発売の「声を灯すZINE” BEACON VOL.3」にて、寄稿させていただいた文章が掲載されています。自分の制作のテーマや普段考えている事について書かせていただきました。
東京近郊ですとジュンク堂池袋本店、SPBS虎ノ門、下北沢B&B、祖師谷BOOKTRAVELLER、高円寺ヤンヤン西荻BREWBOOKSや、その他TOUTEN BOOKSTORE(名古屋)、恵文社(京都)などにてお取り扱い中です。

https://x.com/beacon_zine?s=20

 

 

反動

 

 

僕は旅行が苦手である。旅行にあまり前向きになれない。旅行に行く目的は人それぞれだと思うが、大体は大きく言って、観光地を見て楽しむ事、アクティビティに参加する事や、普段の自分の生活範囲から離れてリフレッシュすること、知らない土地で出会う人や何かとのコミュニケーションを楽しむ…というような事に分けられると思う。

正直なところ、僕は上記のどれにもそこまで魅力を感じない。僕は環境が変わると落ち着かなくなってしまうからだ。予定を立てるのは結構面倒だし、電車とか飛行機の出発時間が気になってソワソワしてしまうし、観光中でも落とし物やなくしものをしていないか何度もポケットを叩いてずっと気にしている。しかもなぜか家に帰ったあと高確率で風邪をひいて寝込む。このように、旅行が嫌いな理由を挙げるとキリがないが、一番は…帰るときに寂しくなるからだ。

 

まず旅行が企画される。知り合いや友達の人と、どこどこに行こうよ、などと話をする。予定を立てて、◯泊◯日の旅行です、というのがあって、荷造りをして(できるだけ小さい荷物で行きたいのでかなり頭を悩ませながらパッキングをする)、何日にどこに行ってどこで食事をして…というのを決める。酒とかを飲み、夜は少し深めの身の上話なんかをし、この人こんな一面あるんだな、と少し関係が深まって…ここまでは良い。こういうのは楽しいと思う。…ところが、全ての行程を終えると「お疲れ様でした」と言って空港や駅で解散することになるのである。さっきまでの楽しかった時間はなんだったのか?というくらいに、一人、また一人と、さっさと違う方向にスタスタ歩いていってしまう。あえなく自分も帰りの電車に乗る。そして数日間の疲れと充足感で全身がぼーっと暖かくなり、自宅の最寄りの駅に着いた時…”帰ってきてしまった”感に襲われる。この瞬間が一番最悪である。なぜ帰ってきてしまったのか。なぜ帰らなければいけないのだろうか。あと一泊くらいできなかったか…いつもこんな感じのことを思う。

 

30を超えると旅行どころか、遊びに行く予定を立てるのも大変である。友達を含め自分も、色々周囲を取り巻く環境も状況も変わっている。10代やそこらのように突然「今から飲みに行こうぜ」などと、あまり気安く人を誘えなくなってくる。自分にも都合があるし、相手にも都合があるからだ。しかもなにか理由がないと誘い辛い。分かってはいるが、しかし先の予定を立てるのもめんどくさかったりする。何を着て行こうかとか、どんな話をしようか楽しみにするのも、まあポジティブな感情ではあるが、結構心が疲れる。僕の場合は、できるだけ心を穏やかに、良いことでも悪いことでも、とにかく波を立てないようにしないと、生活の中で突然心のコップの水が溢れてメンタルの調子が狂ってしまう。

僕のここ数年はコロナのこともあって、もうできるだけ静かに、身の回りの小さな感動だけで生きて行こうと思っていた。まるで精神だけが老いて乾いてしまったようである。心の過剰な波が怖いから、それを遠ざけている。別にそんな意識をしていたわけでもないのだが、結果そういうふうになっている。人と言い合いをしたりするのも嫌だ。ゲラゲラ笑ってあとになって恥ずかしくなるのも嫌だし、大声を出したりするのも嫌だし、イライラしたりするのも嫌だ。悔しい思いもしたくない。そうやって人との関わりを極限まで避けて、慣れたことだけを選ぶようになった。

そうすると、感情の起伏がなくなって、いつの間にか楽しかったことも忘れて、目の前に押し寄せてくるタスクと将来への不安だけがあるような感じで、はっきり言えば…生きているのが全く楽しくなくなってしまっていた。

 

なんでこんなことを書き出したかというと、つい先日、少し遠出の旅行をする機会があったのである。人に呼んでもらって、最初はありがたいと思った。いろんな準備や企画の話があって楽しそうだなと思った。でもだんだん、色々なことが重なって精神状態が良くなくなってしまったりして、心が揺れて動いて、やっぱりめんどくさいなとか、こんな状態で行っても迷惑だろとか断れないかとかそういうことを考えていた。前述のように、旅行にはいろいろな理由があるだろうが、多くの人は楽しみに、思い出を作りに行くのであり、イライラしにいくわけではないはずなので、そういうところに楽しくなさそうな人間がいたら良くないんじゃないかと思う。そういう勝手なネガティブ・トリップをして、ア〜という気持ちになりながらも、時期が迫ってきてしまい、キャンセルにも踏み切れず、参加する事になったのである。

結果から言って旅行自体は非常に楽しかったし、結構ゆとりを持っていろいろなことができたので満足だった。僕は和食派なので、ホテルのバイキングで白米と味噌汁、納豆を食い、改めて納豆を克服したことを感じたりした(納豆のくだりはこちらの記事を参照)。人と一緒に行動する時間と、1人で過ごす時間のバランスが非常に良かったため、疲れすぎず、かといって寂しくもなく、充実した数日間になった。都会の喧騒からも離れて、耳がじーんとするほど静かな場所で、心を落ち着かせることもできた。

 

これまでの自分なら、ハメをはずしすぎて疲れるか、それを恐れて終始低空なテンションを保ち、結果心が旅に入っていけないみたいな不完全燃焼で帰宅する感じだっただろうが、うまくその切り替えができた。…ここまで読むと薄々気付くかもしれないが、僕は旅行が”苦手”なだけで、実は割と好きだったんだと思う。楽しすぎるため「はしゃぎすぎて」疲れるのである。風邪をひくのも多分そういう理由である。今まで斜に構えて「別に旅行とか、好きじゃないし…」という態度を取っていた自分と、「いやお前実は結構好きだろ」という二面性を自分の中に捉えたような感じがあって、そういうところに自分の人間っぽさを感じることができて良かったと思う。

思えば日常の中でも、なんだか楽しそうなイベントとか人に会うこととかも、「疲れ」というものへの抵抗感が強すぎるあまりに避けすぎていたように思う。確かに人が多すぎる場所が苦手なのは事実だし、それで調子が悪くなったりしてしまうのも本当のことではあるが、一方でそれを受け入れている・受け入れたい自分というものも、確かに存在しているわけだ。


こうした”反動”のような、楽しさのあとにくる虚無感とか、寂しさ・悲しさみたいな副作用のような感情だって、間違いなく自分の一部だし、こういう波風を嫌いすぎるあまりに少し心が無機質になりすぎていた気がする。怒りや悲しみはあまり良い感情ではない、とされることも多いが、それらのバランスだって必要なんじゃないのか、と思ったりした。怒ること・寂しいこと・悲しいことだって大事な自分の一部だ。自分が何に腹を立てて、何が嫌で、何が辛いことなのかが現れる部分なのだ。心の針がふれて、自分でも認めたくないような汚くて醜い感情が出てくるとき、それが一番自分らしいというか、人間らしくなれるというか…

自分の行動に対して、対価でものを考えるようになると、「これをしたらあとで反動がくるな」とか、ついつい考えてしまうが、それは仕方のないことである。だって楽しかったんだから仕方ない。終わったら寂しいに決まっている。どちらも自明である。自明だから避けるのか、あるいは受け入れるのか…


ちなみに今回も、やっぱり寂しくなって、帰り道少しだけ泣いたけど、それでも行って良かったと思った。

 

 

プログラム的な動物

 

 

この前、出がけ先で、トンボが一匹、飛んでいるのを見た。

僕が小さい頃…ほんの20年くらい前までは、僕の家の周りは田んぼだらけで、夏の終わりから秋にかけて、近所の空いっぱいにトンボが飛んでいたのだった。子供心ながらに、スタイリッシュなフォルムと、なんとなく知性を感じさせるような顔に心を奪われ、もうずいぶん虫取り網を振り回した。ただ、トンボというのは昆虫界でも随一の飛行能力を持っており、空を舞う一面のトンボに狂喜・そして錯乱した子供が一人、がむしゃらに網を振り回したとしても、簡単に捕まえられるような虫ではなかった。だから時々、”たまたま”捕まえることができた時は嬉しかった。

カゴに入れて家に帰ると、羽音のあまりのうるささに母親に怒られたりした。「ブーン」と飛ぶセミやカナブンがかわいく思える。飛んでいる時は優雅なものだが、トンボは「バチバチ」という音がする。しかも彼らは肉食で、とても獰猛なのである。捕まえたは良いものの、いまいちトンボが何を食うのか小学生の自分にはわからず、しばらく強制断食をさせてしまって、一層気が立っているトンボに指を噛まれたりした。噛まれるとめちゃくちゃに痛い。個人的な体感ではあるが、今まで数々の昆虫に指を噛まれた経験をもつ虫取り少年だった僕個人の見解では、トンボの顎の力は昆虫界でも上位に入るんじゃないかと思う。

ちなみに僕が噛まれて一番痛かったのは「クビキリギス」という緑色のバッタみたいなやつである。日本中どこでも草むらとかによくいる。ぜひ写真を検索して調べてみてほしいのだが、もうめちゃくちゃに牙が鋭く、顔は細長くて目の焦点は合っていない。そして己の危険さを知らせるかのように、なぜか口の部分だけ赤い。非常に悪意のあるデザインだと思う。こいつに噛まれると当たり前に血が出るうえに、掴んで引っ張っても全然離れないほど顎の力が強い。あまりの痛さに少し泣かされたりしたので、僕はあいつのことを悪魔と呼んでいた。

 

噛まれ話でめちゃくちゃ脱線したのでトンボに話を戻すと、そのトンボが、地面にしっぽをちょん、ちょんとつけながら飛んでいる。卵を産んでいるのだ。

トンボは水面に卵を生み落とす習性がある。卵は水中で孵化し、ヤゴ(トンボの幼虫)になって、ミミズとかオタマジャクシとかメダカなんかを食べる。そして水草などを伝って、水上に出て、羽化する。彼女らは、自分らが産卵すべき「水」をどうやって見分けているのかというと、光を反射するものに反応しているらしい。僕が見たその地面がツヤのある塗料で仕上げてあって、光を反射していたのだった。だから水と間違えて卵を産みつけていたのだ(車のボンネットなどに産卵するケースもあるらしい)。当然、コンクリートの上で孵化などするはずがない。彼らが一生をかけて繋ごうとした命は繋がれなかった。僕はその光景をずっと見ていた。なんだか切ない感じがした。それが、小さい頃とは少し違って見えた。

 

トンボは、自分が今産卵している場所がまさかコンクリートの上だなんて思わない(もし分かっていたらしないだろう)。目の前のそれが水面である、と認識して、大真面目に自らの責務を全うしている。僕たち人間は、トンボよりいくらか物分かりがいいので、トンボに「そこは水面じゃないですよ」などと言うこともできる。場合によっては「分からないんだね」と小馬鹿にしたり、あるいは虚しさを感じて「やめなさい、命が無駄になってしまう」などと言うこともできる。しかしそれはトンボにはわからない。彼らはきっと「光が反射するもの」に産卵することで種を存続させてきたはずだから、「光を反射するもの」の中に、自分の子供たちを”受け入れないもの(例えば防水塗料で仕上げてあるコンクリート)がある”、ということを知らない。

しかも多くの昆虫は、我が子が成虫になるまで生きない。自分の卵が無事に孵化して、大人になったかどうかを知らないまま一生を終える。これをもし知ることができたら…自分の産んだ卵が孵らないことを、トンボ自身がその目で見て「間違えた」などと思えるとしたら、今後ちゃんと「そうでないもの」を見分けることができるようになったりするのだろうか。「ここ前回卵産んだとこだ」などと、進研ゼミの感想みたいなことを思ったりするだろうか。

トンボに少しの想像力を持ってその小さな世界を見たとき、人間の意識であれば学習して避けるようなことを、彼らを含めた昆虫やその他小さな動物たちは平然とやってしまっていることに気づく。カマキリの近くを平気でひらひら飛んでいるチョウとか、わざわざジャンプしてクモの巣に引っかかりにいくバッタとか、にわか雨に地中から出てきて、そのままアスファルトで干からびてしまうミミズとかがいる。そういうものを小さい頃に見て、あまりにも一瞬で奪われる命の無機質な冷たさや呆気なさを知った。「馬鹿だなあ」と思ったりもした。

人間でいえば、車道に突然飛び出すようなものかもしれない。僕たちは幼い頃に保護者からの教育・学習、そして記憶によって、こういう危険を日夜回避して生きている。常にそうである。道路の端を歩くのは車に轢かれないようにするためだし、肉や魚に火を通してから食べたり、靴を履いたり服を着ることも元をたどればそうである。それらはなんの疑いもなく、コンピュータプログラムのように日常の行動に組み込まれていて、特に意識せずとも多くの人が「ルール」であるとか「常識」として、それらに則り生きている。そうして時々、そういうプログラムの噛み合わせが悪くなって、外で裸になって逮捕される人間が出たり、生で肉を食ってみたり(実際はこういうのが人間の食文化を発展させてきたりもした!)、交通事故が起こったりしている。

僕が「馬鹿だなあ」という感想を虫に対して思うということは、人間が多くの場面で「それはさすがにやらないだろう」と思うようなレベルのことで、自覚があって行うことができることだからであると思う。それに対して彼ら虫たち(ヘビとかカエルとかミミズみたいな小動物も含む)は、状況判断や刺激の受容に対して、あまりにも機械的で単純な反射をしていると思いがちである。光を反射しているからと言ってコンクリートや車のボンネットに卵を産むトンボは、産卵を実行するにあたって、種の存続を成功できてはいないからである。目的を達成できなかったのだから「馬鹿」なんだ、ということになってしまう。

実際はこの「Aに対してBをする」というような単純なプログラムの実行と、それによって守られる自明性(=言葉にするまでもなく明らかなこと)を忠実に守ることによって社会は正しく回っているのであり、でも、それによって時々損をしたり、失敗したりする場合もある。そうして生まれるエラー(失敗)によって、プログラムのコードを書き換え、実行→エラー→修正を繰り返して生きている。ただそれだけのことで、そういうふうに見れば虫も人間も同じようなものかもしれない。

 

虫やその他の動物は寿命が短いから、一生のうちに得られる学習が非常に少ない。単純に脳だって小さい。身体スペックは人間よりも高かったりするが、処理速度と容量などの能力は人間の方が高い。だから虫はコードの書き換えを種全体で行う。環境に適応した個体が残る。そうでないものがサンプルとして絶える。人間は一生が80年くらいあってわりと長い。言語を獲得したので、意味の共有や学習などが可能になって、個体の中でもコードの書き換えができる。「以前は失敗したから、今度はやり方を変える」という、前提を修正して改善、向上する、ということを、僕の短い30年の歴史の中でも何回か行っていたりする。たくさんのサンプルを記憶して、その中から一番良かったものを選んで生きている。

こう考えてみると、虫は言うなれば、その「適者」の生態によって結果が語られる。今生きている虫の生態こそが正義であり、正解であるということになる。失敗が許されていない。失敗は存在しない。というか存在できない。これは命が短いからである。しかし人間は、選択と決定によって結果が語られる。世の中にいるのは、「こういう選択をした人」「こういう決定をしてきた人」だけである。失敗とか成功とかいうのは”ある価値観”によるただの評価づけであって、もっと物事を拡大して考えてみると、人間はそんなに死なない(亡くなっている人は確かに世界中にいるが身の危険という意味ではそんなにない)から、生きることが前提にあって、そのトライアンドエラーは残る。虫たちのエラーは存在できない。一方ではこういう違いがあると思った。

 

誘蛾灯に誘われてバチンと死んでいく羽虫を「自殺行為だ」と揶揄したりするが、彼らは別に死のうと思っているわけではない。これは挑戦である。命をかけて誘蛾灯に触れたらどうなるのか、という学習をしている。触れた個体は死ぬ。学習して「今後は触れないようにする」ことは虫にはできない。たまたま触れなかった個体が生き残る。全体で種が残ればいい。

このとき、死んだ個体に対して「犠牲」と呼ぶのは間違っている。犠牲というのは還元性がある。…虫にはそれすらない。学習しないからである。それを伝えられないからである。失敗と一緒に生きている。なんて世界に生きているんだろう。彼らのことを、どうして馬鹿にできるんだろう。これがあの切なさの正体かもしれない。

「人間は社会性の動物だ」というのは、まさにこういう意味なんだと思う。学習、そして向上、還元なんのために生きているのか?人間の方がよっぽど種のために生きている。自分らしさとか、自分の人生を生きるとか言っても、もし人間も機械的であるとしたら、ますます人間は自分ただ一人のためになんて生きられない。人間は助け合う道を選んでいる!選んでいるというかそれ以外ないような、そんな感じがする。